※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。
田舎の2000年歴史ロマン⑩
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泊(とまり)の移住
江戸時代の当初の主街道は山沿いで、海沿いは副街道だったのに、明治時代は海沿いが主街道になっているのでは何故かの謎解きへの挑戦です。この原因が「泊」の移住にあるのではないかと思い当りました。今回はその話にしたいと思います。
「新川ローカル気象研究所」の気象予報士中川達朗さんの論考がネットサーフィンに引っかかりました。
http://homepage2.nifty.com/nakagawat/がURLです。
(4)黒東海岸侵食の歴史の項に、以下の記述があります。
『1600年頃、現元屋敷の向こう先の海岸端に1人の人聞が住みつき、泊町誕生のもとを創った。当時このあたりは和倉浦と称され、白砂青松の名をほしいままに、豊かな砂浜が展開していた。しかしほどなくして住民たちはこのあたりの海岸が慢性的な浸食に曝され、とても安心して住める地でないことを悟る。それから百有余年にわたり住民たちは住地を追われ、逃げ惑う生活が始まる・・・・・・昭和30年代に入ってようやく当時の建設省によって、黒東海岸一帯を浸食特定海岸に指定され、本格的な防潮策がスタートする。』
一方、田舎の2000年歴史ロマン④で紹介した「武運長久祈願の宮 脇子八幡宮のしおり」には、以下の記述がありました。
『天正のころ[1573-1592]、この城には小塚権太夫が城主としており、家臣の水島兵庫を社殿に奉仕させていた。越中国に前田氏の勢力が及ぶと、この城を毀したので、その後は参詣者も稀となり、山麓の海岸に転築をした。このあたりに九戸の家があり泊と称していたが、当宮はこの泊の氏神と崇められることになった。前田藩はこの社を藩の東涯の守護神として境の関所の武士達に警備と営繕の責任を負わせていた。また社の前で市が開かれ、市祭が行なわれるようになった。町は次第に家数を増し、やがて山と海に挟まれたこの地が家を建てる空地もなくなり、隣接する西側の笹川沿いに移り住む者も多くなった。
そのころの享保二年[1717]秋に日本海の高波で三百二十戸の一戸残らず大被害を蒙った。そこで二キロメータ程離れた今日の朝日町泊へ大部分が移動し当宮も享保五年[1720]に御遷宮になった。』
両者の記述の間には大きな差がありません。中川さんは、この辺りの海岸線はかつて1㎞程度沖にあり、1850年頃でも100m位は沖にあったとされています。
以上の情報をもとに、現在の地図上に、その頃の「地図」を描いてみました(図1)。
享保二年[1717] 9月22日、高波で一戸残らず大被害を蒙った
既に浸食が進んでいたようですが、終に大波で全戸被害となったようです。高波の原因については、地震による津波、台風の際の大潮、大波、冬ですと「寄り回り波」と言われている季節風による大波があります。後者は私も目撃したことがありますが、20-30mの高さに波しぶきが上がることが普通にあります。この「寄り回り波」が海岸浸食の主犯とされていますが、1717年9月22日の大波の原因とするのは無理があります。また、記録によるとこの日の地震記録はありません。したがって、台風によるものではないかと思われます。「寄り回り波」と同程度またはそれ以上の波が出現することは全く疑いがありません。
さて、ここで驚くべきことに、統治していた前田藩が主導して、「泊」の移住が計画され、実施されたようです。藩境の要地であることは間違いなく、街道の確保、宿場町の確保などは、藩政上からも重要なものだったのでしょう。
さらにネットサーフィンで次の文献を見つけました。図2は文中にある「泊古図」です。
『享保末年の泊古図によると、往環道に面した表町の総家数は164軒で、うち60軒が百姓、99軒が頭振(あたまふり、水呑み百姓)、常光寺、松林寺、妙輪寺、小寺の4軒が現在と同じ場所にあり、医師が1軒あります。裏町の総家数は137軒で、うち漁師と頭振が131軒、山伏が2軒、医師が1軒、瞽女が3軒あることがわかります。町の中には、幕府や領主が決めた法令を書き記す高札場や水溜があり、計画的に町がつくられたことがわかります。』[YAMABIKO]春の号 No.99 「街道の合流点としてにぎわった北陸道有数の宿場町」
『寛文6年(1666)の資料によると、宿駅として35頭の馬が配置されていた』とも紹介されています。前回,曾良日記で「入膳には馬がなかった」とありましたが、泊では馬が使えたのにということかもしれません。いずれにせよ前田藩にとって、「泊」は重要だったようです。泊の移住も翌年には始まっています。
しかし、住民の内訳をみると意外にも百姓が圧倒的です。海岸べりに彼らが住んでいた(移住したので)ということですが、かれらの耕作地はいったどこにあったのかも検討すべき問題です。間違いなく新開地が近くにあったことになります。また、漁師が裏町にいたということですが、苗字的にみれば、現在でも水島姓など宮崎地区にもある苗字がここにも散見されることと対応しているとも言えます。
全く隠れたことですが、たぶん民家の造作にも大きな変化があったとのではないかと想像します。旧来の集落における民家(百姓屋)の間取りは、このような街区には向かないと思います。いわば、長屋スタイルの木造建築がこの地にも出現したのではないかと思います。この長屋スタイル街区については、朝日町のいくつかの集落に共通して見える特徴です。民家の建て替え時期に、旧型式から長屋形式に移行していった街区もあれば、新しい「泊」のように、最初から長屋形式を採用した街区もあったのではないでしょうか。
さて、地図に向かいます。
現在の地図にどこまで残っているのかが一大関心事です。図3が現在の地図ですが、目を凝らしてみると地名が「泊」の領域があることが分かります。横尾、沼保、道下、草野などの地名の中に、「泊」があり、それと関係した計画道路らしいものが見えます。それをなぞったのが図4です。これでは分かりにくいでしょうから、地名または行政区「泊」を抜きだすと図5なり、関連する計画道路を抜き出すと図6なります。
図2と比べるとあっと驚きます。全く同じです。ほぼ原形のまま現在に残っていると言って過言ありません。
私が最も驚いたことがもうひとつあります。それは街道を付け替えたことです。
海岸浸食で危うくなっていた下街道を内陸側に移動した。多分この街道の付け替え(新設)は、入膳地区まで及んだのではないかと思われます。
泊を移設したので、上街道も通るようにするために、上街道も付け替えた(新設)と思われます。下街道と上街道の合流点は、旧の泊の入口でしたが、それを踏襲し、図7のように、新しい泊の西側入り口に合流点を作りました。したがって、上街道は、舟見-新しい泊を結ぶように造成したのではないかと思います。
とすると、泊を経由して東側で一本となっていた北陸道(北国道)も延伸する必要があります。海岸浸食が迫っていた旧の泊―宮崎間はどうしたのか?まだ、しっかりとした記録に辿り着いていません。
ある町村史によると、江戸時代の末期に、泊―宮崎間の海外沿いの国道が開設された、という記述があります。もう少し調べてみたいと思います。1700年代から1850年頃まで、泊―宮崎間の海外沿いルートは正規ルートではなかったようです。
この文献には、『新川郡の人口は、天和2年(1682)と明治3年(1870)を比較すると約3倍に増加しました。越中全体の人口がほぼ横ばいであることを考えると、江戸時代約200年間におけるこの地域の人口増は驚異的です。』という情報もあります。田舎の2000年歴史ロマン⑧で私の郷里「笹川」地区のこの時期の人口急増のことを触れましたが、この「異常現象」は新川郡全体に共通した現象だったようです。すなわち、特に下街道の付け替えと連動した、何らかの経済発展、新田開発などがあったのではないかと興味が湧きました。いずれにせよ、当時としては画期的な「都市計画」で「大成功」だったと言えます。
さて、ここまでの検討で、田舎の2000年歴史ロマン⑨で紹介した1700年頃の街道地図は、実はほぼ正しく、主な街道はそれ以外は無かったことになります。今の地図に現れる道について、街区そのものを含めて、それは1700年以降に計画的作られたものであり、明治以降は、街区や集落を避けて主要幹線道路、鉄路が敷設されて、現在に至っていることになります。
これからは、北陸上街道の起源に話題を集中していきたいと思います。
田舎の2000年歴史ロマン⑩ 泊(とまり)の移住 終
サイト掲載日:2015年7月18日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明