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田舎の2000年歴史ロマン⑨
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朝日町の明治以降の新しい道
道(みち)にこだわって、ネットサーフィンを楽しんでいましたら、図1に出逢いました。これは、金沢市玉川図書館所蔵の資料の一部のようです。たぶん、前田の殿様の江戸への参勤交代のための指南全書みたいな膨大なもののほんの一部ではないかと思います。この図は、西(絵図では右)の「三日市」から東(左)の「泊」を結ぶ、二つのルートを表しています。絵図の上は、山沿いは、越中上街道(下立~舟見)と呼ばれ、下の海沿いは越中下街道(沓掛~入善~八幡~横山)と呼ばれたようです。絵図からみて明らかなように、太い上街道が主街道だったことが分かります。下街道は道のりの短縮のために、近道を求めて拓かれたとされています。
上街道は愛本橋で黒部川を渡ります。下街道には、橋が見えません。すなわち、下街道では、通行人は浅瀬渡りをしたことになります。
松尾芭蕉「奥の細道」に随行した曾良の「随行日記」の八月十三日の項に、「市振立。虹立。玉木村、市振より十四五丁有。中・後の堺、川有。渡て越中の方、堺村と云。加賀の番所有。出手形入(いる)の由。泊至て、越中の名所少々おぼゆる者有。入善に至て馬なし。人雇て荷を持せ、黒部川を越。雨つづくときは山の方へ廻べし。橋有。壱り半の廻り。坂有。昼過、雨ふらんとして晴。申の下刻、滑河に着。暑気甚し。」とあります。
一説には、芭蕉は黒部川渡り中につまずきびしょ濡れになったという話もあるようで、松尾芭蕉一行は下街道を通ったことになります。曾良の記述は、図1の大筋とも一致します。
さて、松尾芭蕉がここを通ったのは元禄二年(1689年)ですが、実は1717年に図の左端の「泊」は大波で「消滅」してしまいます。その災難と「泊」の移住プロジェクトについては、次回に詳しく扱いたいと思います。
さて、この図1はいくつかの興味深いことを教えてくれます。
まず、下街道の内で、現在の朝日町に関わるのは、「小川(おがわ)」から「ささ川」の間です。その間には、「赤川(あかがわ)」、「大屋(だいや)」の集落を通って、「泊(とまり」に着きます。このルートは現在の海岸線よりも海側(すなわち、既に水没している)だったようで、泊は宿場町として栄えていたようです。ここでご記憶いただきたいことは、道の傍の集落が、赤川、大屋のふたつのみだということです。もし他に集落や家々があったとしても道から離れていれば描かなかったのかもしれません。
次に、上街道ですが、愛本橋から見たいと思います。愛本橋から舟見(ふなみ)へ至る道の描写は極めて写実的で実寸的には誇張していますが、街道筋としては相当に絵心を刺激する場所だったと感じます。直にその場所を知っている者としては納得のいく描写です。
舟見から東進すると、「山サキ(山崎)」、「今井(今江、いまえ)」、多分<茶屋>、「南保(なんぼ)」、「道下(どうげ)」、名前の見えない集落があり、そして「泊(とまり)」となります。それぞれの地名は現在もありますが、現在の地図と照らし合わせてみると位置や順序が必ずしも当てはまりません。さらに、このルートに対応して特定できる現在の道が分かりません。もし記述に間違いが見つかったなら、この資料の性格上からして、きっと修正されていたはずと思われます。そこで、現在との違いを合理的に解釈できる当時のルートを類推してみる楽しみが生じました。
以上、図1の最も重要なメッセージは、遠回りだが安全な山沿いの上街道が主街道であり、その近道として海岸沿いの下街道が開発された、ということです。歴史的にどこから開発が進んだか、という観点から言えば、上街道が優先された証拠と言えます。
このように道は興味が尽きません。
何かと何かを結ぶのが道ですが、何と何を結ぶのか、なぜそこを通るのかの必然性は何か、と好奇心がとどまりません。
発達した集落の間を結ぶ道が成長していく場合もあれば、政策的に道が作られてそこに人家が集まってきて集落ができる場合もあります。結果的には、道に沿って集落が存在するように見えます。道は、そこを流れるものを通す一方で、流れているもの定住させる魔力も持っています。まさにネットワークができます。
次に、現代の地図から始まって、まずは政策的に作られた道を新しい方から、ひとつひとつ地図から剥がして、図1まで遡ってみようと思います。
①北陸新幹線 2015年3月14日開通
北陸新幹線は、朝日町区間はほとんどトンネルで通過し、停車駅もありません。その意味では、朝日町の自然を壊しているだけです。自然破壊の対価として、新しい発展を朝日町にもたらすかどうかは今後の課題となるでしょう。北陸新幹線の開通後の最も顕著な変化は、JR北陸本線が消滅したことです。同じ線路を使った第三セクターに運営が変わりました。在来線の価値は著しく低下したものと言わざるを得ません。
個人的に言えば、学生時代には、泊-直江津-長野-高崎-上野ルートの特急があり、5-6時間かかりました。その後、上越新幹線が開通し、泊-長岡(乗り換え)-上野の特急-新幹線の乗継で4時間強に短縮されました。さらに、直江津-越後湯沢間の第三セクターが開通し、泊-糸魚川(乗り換え)-越後湯沢(乗り換え)-上野ルートが4時間弱に短縮されました。北陸新幹線開通で、泊-糸魚川(乗り換え)-長野-上野ルートで3時間以内とさらに短縮され、いわば時間的には半分となり便利になっています。
②北陸自動車道 1988年(昭和63年)7月20日
朝日―上越区間の海沿いの相当部分をトンネル化しています。朝日町には、朝日インターと境SAがあるので、それなりの恩恵があるのかもしれません。個人的には、自動車で帰省する際には大いに助かっています。高速が未開通の時代は、いわゆる下道を辿って、当時住んでいたは浦和から11時間もかかったものです。今は、同区間だと途中十分に休憩を取っても5時間で済むでしょう。
ただ、この道路建設後の変化として、国道沿いのドライブインなどのほとんどは閉鎖されています。国道ドライブイン閉鎖の原因には過疎化もあるでしょうが、移動するものが高速を利用したため、立ち寄りの減少もあるでしょう。
自動車道ができたので、その沿線に家を建てようという例は考えにくいものです。工場や倉庫などの利用はあるかもしれませんが、あまりそのような変化を朝日町でみることはないようです。
③新国道8号線 1960年代
最初は、8号線バイパスとして作られたような気がします。これは境地区および泊地区の両地区でバイパス化が進み、結局、それらのバイパスが繋がれて新国道8号線となりました。私の通った中学校は、8号線バイパス傍に新築されたものでしたので、1960年代にバイパス化と全線化が進んだものと思います。
完全アスファルト舗装で、道の両側にガードレールで保護された幅広い歩道がある美しい道を通いました。実家から自転車で約15分、徒歩で30から40分の道のりでした。冬の一時期は積雪のため、徒歩通学が不可避でした。
この新品の道は間違いなく水田を潰して造ったものです。その後、新国道を起点にしたスーパー農道など、自動車が通りやすい幅広の道路が田園地帯に次々と作られていきました。また、それらの沿線に、お店や民家が建てられていったように記憶しています。
④北陸本線の設置 1910年(明治43年)4月16日
国鉄北陸本線の魚津駅 - 泊駅間延伸に伴い、その終着として泊駅が開業しました。1913年に最後の青海駅 - 糸魚川駅間が開業し、米原駅 - 直江津駅間の全線が北陸本線になりました。
私は小学校入学以前に、祖父の付き添いで、泊発上野行き夜行普通列車で東京に連れて行ってもらった記憶があります。本郷にある親戚筋の学生下宿で賄いのお手伝いをしていた叔母(父の妹)の様子を見に行くのが目的だったような気がします。もしくは叔母の縁談を持って行ったのかもしれません。
泊-宮崎間の狭い海岸線沿いに、トンネルを使って通ったのが、このルートにおけるトンネルの始まりです。トンネルを利用したおかげで、民家の密集地を外れて線路を通すことができたと思います。
朝日町内には、泊駅と越中宮崎駅の二つが古くからあり、現在もあります。後者は無人駅になっていますが、通学、通勤などの日常的な利用客がいるようです。
泊駅の出現は、その周辺への民家の密集と工場の誘致をもたらしました。設置時は多分、町中心部からは少し外れた場所で、水田地帯だったに相違ありません。明治時代以降に新しい発展を遂げた街区が出現したと思われます。
⑤国道8号線の指定と整備 1885年(明治18年)指定
旧国道8号線は、今の8号線と違い、海岸沿いに通っていたと思います。年配の人はいまでも「旧8号線」と呼ぶ道路がそうだと思います。最初は、既設の道路を指定しただけだったらしいですが、拡張したり、バイパスを作ってルートを変えたりしていったものと思われます。その歴史がわかるとまた面白いと思います。行政文書にはその記録が残っているはずですが、ネットサーフィンでは未だアクセスができていません。
少なくとも「旧8号線」と呼ばれる路線は今もあります。その沿線にも場所によっては、お店や民家が立ち並んでいます。これも明治以降に新しい街区となったでしょう。
この120年間で新しく作られた道は、図2のようなルートで配置となります。これを図1と見比べてみてください。と言っても南北が逆ですので少し難しいですね。
注目して欲しいポイントは、古い道ほど海岸線沿いなのに、新しい道ほど山側に移動し、かつ直線化します。直線化は、実はトンネル部分の拡大によります。
何故こう変化するのでしょうか?理由は簡単です。図3は、黒部川扇状地一帯の地図で、そこに上記の新しい道が描いてあります。
一瞥して自明でしょう。そうです。黒部川扇状地をなるべく直線で通ろうと思うと、生活や産業の中心や、主な街区や集落がどこにあるかを考慮していては始まらず、上述のような結果になる訳です。
しかし、それでは変だなと思われませんか?
図1の時の江戸時代の主街道は山沿いで、海沿いは副街道だったのに、明治時代は海沿いが主街道になっているのではないか?と気づかれませんでしたか。
その謎解きが、冒頭に紹介した「泊」の移住にあるのではないかと思い当りました。次回はその話にしたいと思います。
さらに、なぜ図1の時代には山沿いが主街道だったのかの謎解きも必要ですが、それは次々回以降に挑戦します。
主な道を描いた地図は、時代時代に変化していくものだということを理解する必要があります。
田舎の2000年歴史ロマン⑨ 朝日町の明治以降の新しい道 終
サイト掲載日:2015年7月11日
執筆者:長井 寿
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