田舎の2000年歴史ロマン⑧ 富山県朝日町を分析する(その2) 人口が増える速度は?

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン⑧

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 富山県朝日町を分析する(その2)

人口が増える速度は?


    

 ちょっと一休みして、苗字の局在化を前回報告しましたが、意外にも好評でした。皆さん、ご自分の苗字がどうか・・・と思われたのかもしれません。そうすると次回以降、もっと詳細な例えば、トップ10以下を紹介していけるように工夫してみたいと思います。


図1 日本人口の歴史的推移の分析と予測

 さて、ではこのような田舎で、どのように人口が増減したのか?ということが大事になります。日本全国の人口がどのように変化してきて、それがどのような原因で、そしてこれからはどうなっていくのか?という研究はたくさんあります。
 実は、このシリーズを考える奥底のきっかけになったのは、実は図1です。
 この図を見た時、私はおののきました。明治以降の人口増が、21世紀中に御破算になる!!!ということです。産業革命以降の科学・技術の発展の恩恵により、日本は明治以降大いに発展した、という文脈の中には、「人口が急速に増えた」という事実が根底に横たわっているのではないかと思います。「社会発展=人口増」という構図が無意識に日本人の脳裏に刻まれているのではないでしょうか?
 そうすると、「21世紀の人口減=社会後退」となりかねません。もしくは、明治以降はうわべだけの社会発展であり、その化けの皮がはがれ「実力」に見合った人口になると言えるのかもしれません。確かに西欧的な思考パターンでは、「日本にもようやく本当の幸福さがやってくる」という考え方もあるようです。平均して、国土を2倍、ひとりひとりが利用できるようになる、居住スペースも倍加する・・・という捉え方もあり得ます。
 何が本当かわかりませんが、人口が増える、もしくは減る、という事実は残ります。今の時代では、転居も容易ですが、昔は簡単ではありませんし、引っ越しの自由が厳しく制限されていた時代もあります。転居が制限されていたから、苗字は偏在するのか?というとどうもそうも単純ではないと思われます。
 やはり、「食っていけるか」、「子孫を養っていけるか、子孫を増やせる土地か」などが極めて大事だと思います。為政者が課す課税の重さにも耐えられないといけません。
 定住する。派遣されたお役人、武力支配のために城に詰めた武士たちにも家族があったに違いありません。でも、彼らには定住するという強い理由はありません。次の任地に赴く、それは出世のためには喜ばしい踏み台であり、降格・敗北の結果であれば落胆の撤退になります。任地で根付くケースは極めて稀で、根付いたとするとほぼ「農民化」したに相違ありません。
 全国に人口に占める農民以外の割合は、明治以前であれば極めて少数であり、人口の増減はほぼ農民のそれに対応していると考えてよいと思います。

表1 弥生時代から現代までの日本の人口の推移
    


表2 江戸時代後期の人口推移
    


 

 表1に弥生時代からの日本人口推移の推測・分析例が示されています。図1と見比べていただくと容易に分かると思いますが、奈良時代以降、江戸時代前までは、500年でほぼ倍加のペースで平均的には人口増があります。
 江戸時代前半には、人口は100年の内に倍加しました。これは主に水田開削、しかも扇状地などの平地における開墾が飛躍的に進んだためと分析されています。それでは、それ以前の水田開削は?というと、水源確保の容易さから主に、谷内田、山裾が中心であり、平地では比較的小型河川の周囲だったと言われています。したがって、耕作面積の増加はより広大な平地よりは低調になるはずです。水源としては、主に谷川などの湧水だったということになります。したがって、棚田模様になりますが、谷内田での棚田開墾は、低地から高地へではなく、むしろ高地から低地へ工事を進めた方が有利でした。大型の治水工事については、ため池はあっても、大型水路の建設技術は弱かったと言われています。ため池は、低平地ではなくむしろ比較的高地や台地に作ったはずです。これらの点は、田舎の来し方を考察する上でも重要な視点になります。
 江戸時代後半は、表2および図1に観るように、人口停滞時代でした。これは、開墾地の枯渇、冷害による飢餓、さらには「間引き」などの理由が挙げられています。

表3 笹川地区の人口、軒数の推移

 さて、我が笹川地区の状況はどうだったのでしょうか?笹川地区に関する歴史的文書は、江戸時代以降しか存在しませんが、「笹川史稿」(昭和19年刊行)、「宮崎村の歴史と生活」(昭和29年刊行)の二冊の公的な郷土史が集めた軒数記録(一部、人口情報あり)は表3のようになります。1件当たりの人口はほぼ一定で5人ですので、この件数は人口にほぼ比例したものと見ることができます。
 これによると全国的には人口停滞があった時期に、笹川地区は100年で倍加のペースだったことになります。明治期にも同じペースで増えますが、史実的に明治初めからの盛んな開墾の記録が確かにあります。江戸時代の開墾がどうだったのかについては、慎重に調べる必要があります。
 もし、笹川地区では、江戸時代以降、100年で倍加ペースが実現していたと仮定すると、1600年頃30軒、1100年頃15軒、600年頃8軒というような変化が計算されます。
 笹川地区では、江戸時代後半から100年で倍加ペースになったと仮定すると、1200年頃30軒、700年頃16軒というような計算になります。
 実際にはどうだったのかは全く分かりませんが、現在は過去からの連続の結果であり、このように考えると同じ苗字が局在する場合に、その起源はどのあたりの年代かを考察する参考になるはずです。
 前回報告した10傑の苗字は、そうすると紀元700年辺りには、現在の10分の一程度の軒数で、より局在していたというイメージがロマンとして浮かびあがります。700年というのは、越後との境が現在の県境に定められ、大和朝廷のお役人が駐在するようになった時期です。
 水島 24軒、水野 8軒、長井 7軒、竹内 6軒、佐渡 6軒、藤田 6軒、折谷 6軒、谷口 5軒、清水 5軒というような数字になります。
 「笹川史稿」には、長井、竹内、折谷などの笹川地区の苗字の「家系図」があります。この「家系図」が当時から受け継がれているとすると、それぞれの苗字では「第三代分家」までが既に現れていたということになります。第1が2、第2が2、第3がそれぞれに2で4、全部合わせると7になります。第4は8となり、そこで総数は15ですので、水島だけは、第5代分家まで来ていたということになりますので、その起源の古さがしのばれます。
(私は当時、現在の笹川地区に定住していたのは、折谷のみで、長井、竹内は別の場所にいたと考察していますが、家系の形成は進んでいたと思います)
 上記を全部足して73軒、主に漁業だった水島、佐渡を除くと農家と目されるは43軒。佐味駅を差配した地方豪族には、2町(=2里)を与えたということになっており、別の勘定では1里辺り50戸となっています。佐味駅が支配する領域には、100戸辺りがいないと勘定があってこないことになりますが、ここでの大雑把な考察の結果からは、なんとはなしに「佐味」一帯の姿が浮き彫りになってきます。
 「佐味」系統として、もしくはほぼそれと同じ時期に、「佐味」辺りに入植したのが、上記10傑の苗字の系統に含まれているのではないかと思われます。水野、長井、竹内、藤田、清水などはその系統ではないかと推測されます。また、縄文時代から継続して定住していた系統も含まれているはずです。水島、佐渡、谷口はそのような系統ではないかと推測されます。
 この姿をイメージすることが、実は私が苗字10傑を試みた裏の理由です。しかし、その過程で、ここで述べたこと以上に興味深いことがいくつもありますので、10傑以外も別の機会にできるかぎり紹介したいと思います。ご期待下さい。
 歴史は支配者の活躍だけでは成立しません。正確に当っているかどうかは別の話としても、地方地方で定住した人たち、すなわち、ご先祖様たちの歴史を一筆書きで辿るのが、歴史の本当の姿だと思います。いわば庶民の歴史を辿ることを通して、この先の21世紀以降の田舎の行く末を考える際の重要なヒントが出てくるのではないかと自分自身が期待しております。



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      人口が増える速度は? 終
サイト掲載日:2015年6月7日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明