※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。
田舎の2000年歴史ロマン④
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笹川三神社考
七人の同苗
笹川地区の歴史書として、九里愛雄編「笹川史稿」(昭和16年発行)がある。江戸時代以降の詳細な史実がまとめられているが、それ以前は伝承事項のみを紹介している。編者の九里氏は、諏訪神社の神主さんであり、笹川地区ではなく後程出てくる宮崎地区に在住の神職である。
多少長くなるが、江戸時代以前の記述を引用する(現代仮名遣いで)。
*「諸言」から
「徳川時代以前における、笹川の状態は、文献存せざるがゆえ、詳細にこれを知るを得ず。今わずかに存する、出土品と石塔などより推考して、その片鱗を察し得らるるのみ。
笹川の字道満に、縄文土器と石斧等の石器を包含せり。これ先史時代すなわちわれら日本民族より以前に居住せしものの遺品なり。この地に居住せし石器時代民族は、いずこより来たりいずこにゆきしか今これを知るを得ざれども、約三千年前なるべし。その後に来りし、われら日本民族の祖先の使用せる弥生式土器は、未だ発見せざれども、人代に入りてより、奈良朝時代まで使用せる土器すなわち祝部土器の、些少ながらも加順坊より発掘するを見れば、当時すでに日本民族の居住せること明晰なり。」
→「石器時代民族」と「日本民族」の対比に、浅薄さを感じるが、それ以外の知見については冷静に分析している。
*「第二節開拓者とその家系」より
「古来よりの口碑によれば、往時、『亮(スケ)』『佐衛門』の二人この地に来り住す。両人土地の領有を定めし境界を仕切が谷と名付けて、永住を祝い合って地踊をなせり、今に仕切が谷をシギャラ谷、地踊をなせし地をジュードと称せり。亮<竹内>は仕切が谷の北<現地名:最禅>に住み、佐衛門<長井>は南<現地名:北角地>に住めり。佐衛門は佐渡より来たりし故その地名を佐渡谷と名付く。それより後、保元・平治の頃ならんか、三人目に三郎左衛門<小林>来たり、四番目に与兵衛<堀内>、五番目に五郎右衛門<深松>、六番目に六郎兵衛<折谷>、七番目に七左衛門<宇津>来り住す。これら七名は、笹川村の宗家にして、各家に地鎮(祖先の墓)を有す。」
→なんとなく語呂合わせではないかと感じるが、それぞれの姓が果たした歴史的役割がそれぞれあるように思われる。私は、<折谷>が<竹内><長井>より先住でこの三氏が開拓者、残りは後世の武家の進出と関係深いものと考えている。ここで、最後の「各家に地鎮(祖先の墓)を有す」を記憶しておいて欲しい。我が実家の敷地内には確かに「地神」の石像がある。
諏訪社、八幡社、十二社権現の三つの神社があったという。それが今は「合併」し、諏訪神社となっている。諏訪は竹内、八幡は長井、十二は折谷の氏神とされている。
合併は明治年間に正式に収まったが、江戸時代慶応年間頃に後者の二社が朽ちてご神体を諏訪社に預けたものがそのままになったらしい。それぞれに起源については、様々なことが言われており、確かなことは不明である。そこで、まず、これらの社の起源からそれぞれの歴史を眺めてみたい。
それぞれの社は何を神様として祀っているのか、どこの地に起源があるのか、どこに位置、分布しているのかなどの観点で比べてみるととても面白く、興味深い。
(1)熊野、十二社系
熊野三山
「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三社は、元々は巨木、巨岩などを神体とする自然信仰だったとされるが、それにだんだんと祖先神が上書きされ、それぞれ、スサノオ、イザナミ、イザナギが祀られるようになっていったらしい。
これも『古事記』の時代に舞台が作られる。出雲系の元々の主神とされる熊野神社(島根県にある)の末裔が、ここに移り住んだとか、もともと両者には人的交流があったとも言われている。いずれにせよ、出雲系に分類されるべき神社である。
永禄元年(1160)に後白河法皇(以仁王の父、北陸宮の祖父)が、京に新熊野神社(いまくまの)を創建し、当時の全国の特に武士たちの信仰の的になったと言われる。
◆高畠神社 南保2108
朝日町南保の高畠神社(たかばたけ)は、南保次郎家隆が、公務で上洛の折、新熊野に参り信奉し、分祀したものとされる。南保家は、山頂城の南保城(寿永年間[1182-1184]頃に築城か)を守り、その後、麓に城を移したと言われている。
◆「十二社権現御祭礼」【神ノ上に宮守の宅地があった?】
建立時期に関する情報なし。磐座を山頂辺りに持つ権現山を神体とし、山頂に祀った。祭礼日、2月9日。折谷が祀っていた。
さて、十二社は、磐座の自然神がそのまま神社になったもの(主に、甲信越、北関東山間部に分布)と、熊野三社の末社として広まったものがあるとされている。笹川のものは廃されているが、近辺では市振、大平、上路に十二社が現存している。他にも廃されたものなどが調査すると出てくるかもしれない。
折谷の全国分布も調べてみた。なんと折谷は全国に103件、そのうち富山県に73件。朝日町に58件。ということは、折谷姓は朝日町しかも笹川発祥と言わざるを得ない。
近辺で十二社を祀る大平の姓である根建、末上も、他の地では見られない大平発祥の姓と判断される。十二社が最も古い神信仰の形であることを思い出せば、これらの一族の系統は、1600年以上前から既に棲み付いていた人々の末裔とみて良いのではないだろうか。
また、上記のように、南保一族との関連深さを、地縁、神社信仰からもうかがわせる。南保一族と池原、石谷、蛭谷、雁蔵(笹川)が、地縁的、文化的に関係が深かったのではないだろうか。
(2)八幡社
誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇と目される)を祀ったもので、571年に宇佐八幡宮、貞観元年(859年)に清和天皇が石清水八幡宮を建立(開山は翌年)したとされる。このように、大和系の神社である。
※宇佐八幡宮の歴史は極めて興味深いが、機会があれば触れたい。
◆脇子八幡 泊1156
越中(こしのみちのなか)国は頸城郡や大沼郡をも含んでいたが、大宝二(702)年に新川郡と頸城郡との間を越中国境と定めた。大宝2年(702)に高向朝臣(たかむこ)大足が、越中越後の国境の鎮護の神として、現在の城山(八幡山)に誉田別命を祀ったとされている。時代からするとこの八幡は、本山である宇佐からの分祀とみないといけない。
脇子八幡宮が木曽義仲の時代に既にあった。脇子八幡は、天正年間(1573-1592)に元屋敷和倉(泊)に移り、享保2年(1717)の高波で大被害を受け、泊ともども移設し、1720年に現在地(泊1156番地)に移ったとされる。
【武運長久祈願の宮 脇子八幡宮のしおり】
①大宝二年[702]高向朝臣大足【たかむくのあそみおほたり】が越中・越後の国境を改めるために来て、神濟川(かんわたり
かわ)(今の境川)をもって境界とした。そこで国境鎮護の神を境川近くに祀る必要を痛感し、今の朝日町の城山に脇子八幡
を祀った。脇子八幡には誉田別尊、即ち応神天皇が祀られた。当時この峯を脇子の峯と称した。御祭神は寛平元年[889]に
正六位上より従五位に叙せられた。
→(長井)世話をしたのは高向の家臣たちで、境川と城山の間に住んでいて、9世紀末までは行政的にも重要な位置にいたこ
とがうかがわれる。後述する佐味駅の設置、佐味荘の開設などとの関連を整理する必要がある。佐味荘の経営には農業
技術、佐味駅の経営には運輸技術(主に馬)が必要である。佐味荘には佐味一族が集団移住させられたと想像するに難く
ないが、後者は別の集団があっても良く、広域通商事業として、海運も含む商業センスが必要である。しかも、蓄財と
いう面では経済力を蓄える集団を形成し易い。佐味荘の中心は、古墳である常福寺とその上手の「才の神」がある大谷川
流域に本拠地があったと見るべきだろう。
②なお、治承年間[1177-1181]に宮崎のサミの神を当宮に合祀している。この神は崇神天皇の皇子で豊城入彦命のことである。
今日当地方に広く拡がり住んでいる佐味氏の祖神である。
→(長井)ここで忽然と豊城入彦命が出現してくる。この時代に成長した宮崎党の前身は、一体どの神をもっぱら崇拝した
のだろうか?八幡なのか?才の神なのか?宮崎太郎が元服した宮崎社が特定できるとよい。いずれにせよ、ここまで
で、八幡は残り、才の神はすたれてしまっている。しかも、才の神は八幡に合祀された。これは両者の崇拝者たちの
力関係の変化を表わしているとみたい。宮崎太郎が、石清水八幡で元服した木曽義仲に取り入るために、八幡社に祖神
と一緒に乗り換えたとも言える。すなわち、宮崎太郎(井口家)も佐味末裔ではないかという可能性も考えてみる必要が
ある。
③源義仲は平安時代の末に「平氏打倒」の令旨を受け、木曽に旗上げをし、剛の者宮崎太郎・次郎・三郎の住む宮崎に泊まっ
たが、その時近くの脇子の峯に脇子八幡が祀られていることを聞き、わが源氏の氏神が祀られておられるのかと喜び、
その傍に御殿を造り、時に義仲がお連れしていた後白河天皇の御孫で、以仁(もちひと)王の御子に住んでいただいた。
義仲はその後引き返して信濃・越後で多くの兵を募り、寿永二年[1183]に大軍を率いて来、いよいよ都攻めの準備が完
了した。そこで当宮に宝剣一振を献上して武運長久の祈願を行い、北陸宮(以仁王の御子は城山で元服をされ、北陸宮と称
されておられた)を総大将として西へ攻めた。義仲が美事その目的を果たし得た後、当宮の社殿門をすべて改築し、感謝の
意を表した。また御所は修築の上、城として用いられた。この城を宮崎城や泊城・境城と称した。城のあったために武士
の参詣が多かった。上杉謙信もそのひとりで、彼は武運長久祈願をし、この時初めて江波・神保・椎名等を降伏させる
ことができた。
④天正のころ[1573-1592]、この城には小塚権太夫が城主としており、家臣の水島兵庫を社殿に奉仕させていた。越中国に
前田氏の勢力が及ぶと、この城を毀したので、その後は参詣者も稀となり、山麓の海岸に転築をした。このあたりに九戸
の家があり泊と称していたが、当宮はこの泊の氏神と崇められることになった。前田藩はこの社を藩の東涯の守護神とし
て境の関所の武士達に警備と営繕の責任を負わせていた。また社の前で市が開かれ、市祭が行なわれるようになった。
町は次第に家数を増し、やがて山と海に挟まれたこの地が家を建てる空地もなくなり、隣接する西側の笹川沿いに移り住
む者も多くなった。
⑤そのころの享保二年[1717]秋に日本海の高波で三百二十戸の一戸残らず大被害を蒙った。そこで二キロメータ程離れた
今日の朝日町泊へ大部分が移動し当宮も享保五年[1720]に御遷宮になった。藩の警備や営繕の責任者は移動後も関所の武士
等であった。市祭は益々盛大になった。また藩は皇統が永く栄えん事を祈願するため当宮を選んで執行させた。これを金門
鳥敏(かのとのとりとし)の祭と称した。辛酉の年に行なったので、この名がつけられ、これ以来もこの年(61年目)ごとに行
なわれている。また、参勤の途次にしばしば銀子を奉納したり、樹木の伐採を禁止したりした。佐々木志頭摩に当宮の社号
を揮毫させ献上した。これらは特に当宮を尊崇したことを伺せるものである。
⑥文政九年[1826]に石黒某が私邸に祀っていた北陸宮の御神像を当宮に合祀をした。
→(長井)実在が確定している人物も神様になった。
⑦明治四十三年[1910]に漁業守護の神として泊浦に祀られていた事代主神を当宮に合祀した。
→(長井)事代主は、三嶋大社に祀られている出雲系の神だが、起源は大和系とも言われている。えびす様ともされており、
漁師や海上運送の神様にもなっている。
⑧また当宮は明治六年に郷社に列せられ、同四十年には神饌幣帛供進神社に指定され、昭和二十一年には県社として認められ
るに至った。しかし、終戦によって神社に対する保護がなくなり、社格や幣帛料供進が撤廃され、当宮も勿論公的な性格を
失った。しかし、現社地に御遷宮されてからだけでも二百数十年を経、うっそうたる森の中に御鎮座され、一千戸の氏子、
それに数倍する崇敬者に尊崇され、いよいよ栄える現況である。
⑨なお、現社家は城山御鎮座当時にも神勤し、天正の頃四代九里知海が泊で別当となり、今日まで続いている家である。
-神社本庁『平成祭データ』-
◆「正八幡宮御祭礼 佐味郷 篠阿邨」
正八幡宮は、北陸宮の護衛として伴ってきた長井氏が、石清水八幡宮を分祀して作ったとされる。
859年 石清水八幡創建(清和天皇)
1182年 北陸宮越中に逃がる(このころ正八幡社始まる)
祭礼日3月12日。通称、宮の陰にあったとされるが、確かな場所は不明。北陸宮行在所は、宮崎太郎の弟、別府三郎の館を改装したのではないかと言われる。三郎の館は、「美の輪」、「手取田」、「宮谷」、「一の坂」を敷地とし、外周りを石垣と土塁で囲まれた一辺が40mの築地の中にあったとされる。この築地に隣接した場所に正八幡宮を作ったことになる。脇子八幡があったのに別に作ったのには何か特別に意味があるのだろう。さらに、同じ時期に、諏訪神社も建立したとなると、木曽義仲と宮崎一族との確執も疑われる。
長井氏は、別の伝説によると平家で、佐渡から来たという話もあるが、ここで記述したこととは全く合致しない。北角地長井氏と同じかどうかも不明である。長井一族が住んだ地域外にあることも不思議である。また。
北陸宮は誰を頼ってきたのか?ということだが、宮崎一族に保護されたのは事実。宮崎一族を北陸宮周辺に紹介したのは誰なのかも知りたくなる。越前経由で落ち延びたとされている。
なお、この館跡地は、その後、宮崎城主の居住地として使われたらしく、天正12(1584)年に上杉景勝に攻められ捕られた宮崎城主美輪権平の居館があったと伝承されている。遅くとも宮崎城は廃城になった後に、この一等地が水田化されたとみるべきか。
(3)諏訪大社
◆「諏訪大明神御祭礼」笹川1161
寿永元年(1182)に、北陸宮が北陸に逃げのびたとされる。木曽義仲は、宮崎太郎の弟である別府三郎の館を宮の行在所として造営させたという。別府とは、平安末期に成立した土地制度の一形態で、 荘園に付属する一部区域が国司免符などによって独立的な状態になったもの。寿永元年(1182)に、北陸宮が北陸に逃げのびたとされる。木曽義仲は、宮崎太郎の弟である別府三郎の館を宮の行在所として造営させたという。別府とは、平安末期に成立した土地制度の一形態で、 荘園に付属する一部区域が国司免符などによって独立的な状態になったもの。
さらに、諏訪大社下社大祝(おおはふり)金刺盛澄(かなざしもりずみ)に命じて、この地に諏訪神社を分祀させた。神の磐座として信仰されていた背後の山(現在は諏訪山と呼ばれている)をご神体に模して建造した。また、御射山神事(みさやま)を行うなど、諏訪神社と同じような祭礼を催したなごりが地名や祭礼の日にちなどに今でも残されている。祭礼日8月27日。
竹内家の祭神とされ、堀内、深松もそれに乗じた。しかし、その場所は、竹内家(堀内、深松)の地外にあり、しかも宮守が折谷という点に違和感が残る。
最禅坊、社迦などは、社家の居住地跡とされる。御射山も残る。
(4)参考
◆鹿島神社 宮崎1484
【祭神】健甕槌命 (配祀)三面觀世音 諏訪大明神 白髭大明神
【例祭】4月7日 例祭
【由緒】治承年中(1177-81)朝廷からの奉幣、慶長10年(1604)前田氏の祈願所になった
【鎮座地】往古は沖の島に社があった。伝承では、大昔、祭神のタケミカズチの神が、沖にかすむ能登を巡りはるばる海を渡って宮崎の岬に着き辺地を鎮め、東漸の祈りを捧げた沖の島に社があった。これが海の侵食によって現在地に移されたものと言われる。
健甕槌命
「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。アマテラスは、タケミカヅチかその父イツノオハバリを下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の諏訪神社上社の祭神)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている。
『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌とフツヌシである。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、フツヌシは香取神社の主神となっている。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する。)『日本書紀』によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂に突き立て、大己貴命(おおあなむち、オオクニヌシのこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴命は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、天つ神は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した。
→(長井)「治承年間に朝廷からの奉幣」を手引きしたのは誰かに興味が湧く。起源については、それまでに宮崎地区に根付いていた「旧勢力」を一掃し、大和系で塗り替えたものと判断される。以下の三神を配祀するに至った経緯が分かると面白い。すなわち、宮崎地区に現存する神社は、鹿島しかないので、ヒスイ工房の人たちの神様はなにだったのだろうか?沼河姫を祀っていたところがあったはずと思い込んでいる。もしかすると鹿島神社の位置で大昔に廃れたのかもしれない。
三面観世音
信州から関東・東北の三叉路や四辻に建てられることが多く、馬耕が発達した関東以北の馬の守り神、養蚕の守り神、農耕一般の守り神とされている。三面馬頭が多いようである。
諏訪大明神
中世以降、東国第一の軍神として全国に広がったという諏訪信仰。お諏訪様、諏訪大明神ともいわれ崇敬される。
白髭大明神
猿田彦を祀ると言われている。白鬚神社(しらひげじんしゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。旧社格は県社。全国にある白鬚神社の総本社。近江国最古の神社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居が浮かび、「近江の厳島」とも称される。社伝によると垂仁天皇の25年、倭姫命により社殿を創建したのに始まる。白鳳2年(674年)、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜った。
◆「才の神」
今は無い「才の神」が大和政権の先遣隊の祭神ではなかったと思われる。次回は、豊城入彦命とその末裔についてみてみることにする。舞台は「毛の国」にいったん移る。
田舎の2000年歴史ロマン④ 笹川三神社考 終
サイト掲載日:2015年4月19日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明