田舎の2000年歴史ロマン⑦ 富山県朝日町を分析する(その1) 同じ苗字の人たちが局在する

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン⑦

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 富山県朝日町を分析する(その1)

同じ苗字の人たちが局在する


    

 ちょっと一休みして、道草をしてみましょう。このシリーズでもお世話になっている「同姓同名探しと名前ランキング(http://namaeranking.com/)のキャッチコピーは、
  「同姓同名の人数検索と全国に多い姓名ランキングを収録。
   さらに名字ランキングで名前の由来を見つけよう。
   先祖から受け継ぐ苗字が全国にどう分布しているかが分かる!」
と魅力的な誘いです。そこで、その誘いに乗ってみることにしました。

 富山県朝日町の世帯数(http://www.town.asahi.toyama.jp/)は、2015.05.17付では、4,949件となっています。
 「同姓同名探しと名前ランキング」を駆使しますと、富山県朝日町の電話の件数は4,461件と数え上げることができます。したがって、このHPのデータを使うとほぼ全世帯数を対象とした調査、分析ができると思ってよいでしょう。
 そうすると、朝日町の登録苗字件数は676種類であることが分かります。しかも各苗字の件数を、全国、県、市町村毎に調査することができます。そこでまず、それぞれ苗字の朝日町での件数を調べます。また、それが全国に何件あるかも分かります。


 全登録件数が19,661,494件ですので、A=4,461/19,661,494が朝日町における苗字の全国平均存在確率となります。各苗字で、B=朝日町登録件数/全国登録件数が、朝日町における存在比となります。そこで、L=log(B/A)を、各苗字の朝日町での局在係数と定義してみます。Logは対数です。なぜ対数を採るかというと、B/Aの値が、0.01から10000の間の値をとるので、それらの値を比較しやすくするためです。ですから、局在係数が3ということは、全国平均の1000倍局在しているということになります。1000倍となると、これはもう朝日町にほぼ集中しているということになります。

図1 朝日町の各苗字の局在係数

 こうやって調べた局在係数と件数の関係を全676種類についてまとめたのが図1です。
 図1はとても興味深い結果を示しています。まず、局在係数の意味を考えてみます。
 当地がルーツかそれに準ずる苗字は、当然、局在係数が高くなる(例えば、3以上)と思われます。逆に、局在係数が小さく0とかそれ以下では、ルーツは当地以外となるでしょう。その中間にあるものは、ルーツではないが当地で栄えたもの、全国で数か所に偏在するものなどと考えることができます。
 では、件数はどうなるでしょうか?ひとつの考え方として、「増殖率」というものを想定します。すなわち、一定期間の間に同じ姓の家が殖えていく割合を考えてみます。家が増殖するためには、同じ土地でそれだけ家族を増やす必要がある業態にその一族があることが背景にないといけません。それは、水田耕作など人手が多ければ多いほど有利なものが考えられます。それに対して、権力者や行政官などは特別な場合を除いて、その地で「増殖」する必要は必ずしもありません。また、縄文時代の狩猟採集生活様式では、弥生時代以降の水田耕作生活様式よりも増殖する必要性は低いと思われます。
 増殖率には増殖の必要性以外に、当然、その業態を拡大できる余地が当地にないといけません。例えば、なんらかの全国的な商品の生産(手工業品など)の原料がふんだんに入手できること、十分な水源と土地があり水田を拡大できることなどの立地条件に恵まれていることが必要です。
 また、一定の増殖率を想定すると、増殖は定住期間に比例することになりますので、件数が多いということは当地での定住期間が長いということを意味します。そうすると縦軸はある程度、定住期間の長さ、もしくは当地に到来した時期を反映することとなります。


図2 朝日町苗字10傑の偏在地域

 さらに、苗字の偏在地域があります。朝日町10傑の偏在地を図2に大雑把に描いてみました。まずは、図2を良く眺めて下さい。
 図1と図2を総合的に分析すると朝日町10傑の系統の特徴が浮かび上がります。


①水島
 図1で最も存在感の高い「水島」の分布は、図2のとおり縄文時代以降の「ヒスイ工房」と全く重なっています。玉造遺跡の詳細な分析の結果(後日、詳細を紹介予定)では、この地域の玉造系統は、サメ漁が得意な海洋族で、漁具としての網、糸の加工、サメ歯の装飾品作り、ヒスイ、滑石等玉造などを相当大規模にやっていたことが明らかになっています。また、おそらく舟を利用した運搬業、商業にも長けていたのではないかと思われます。
 「笹川」と砂州(沖ノ島という岩場まで陸地が繋がっていたと伝わります)が形成していた自然の入り江は、穏やかでかつ守りやすい良港として栄えていたと想像されます。砂州は、長い年月の強い海岸流の影響を受けて、いつの間にか消滅したようです。
 明治期でも漁業が中心で半漁半農だったようで、その中心の系統が「水島」ということになると思います。ところが、「水島」系統は、同じような業態が発展した新潟県側に行くとピタッと分布が絶え、近隣では当地にのみ局在しています。未検討ですが、新潟県側ではほぼ共通の業態の別の苗字の系統が栄えていたことになるはずです。
 そうなると「水島」系統が祀った祭神は何かという興味がわきますが、④笹川三神社考で既に書きましたように、以上の話と符合する祭神が思いつきません。長い年月の間でいくつも主たる祭神が変遷していったとも考えられます。一応、もっともらしい話は「往古は沖の島に社があった。伝承では、大昔、祭神のタケミカズチの神が、沖にかすむ能登を巡りはるばる海を渡って宮崎の岬に着き辺地を鎮め、東漸の祈りを捧げた沖の島に社があった。これが海の侵食によって現在地に移されたものと言われる。」で、大和政権系の神となりますが、大きな違和感が残ります。いったん、出雲政権系の神を祀っていた時代があったのではないかと考えています。
 すなわち、山地は十二社系の神が、海岸が出雲系の神が支配していた地に、大和系の神が支配を拡大してきて、最後には朝廷系勢力が支配に及ぶ・・・という通例の神話譚があってしかるべきと思われますが、その中で海岸の出雲系神が希薄だということです。おそらく沼河姫と大国主(もしくは事代主)の両方を祀って時代の証拠が掴めると話は落ち着きます。
 「水島」は「境」、「宮崎」という集落に共通して中心の系統です。「境」は越中、越後の国境の制定による地名発祥、「宮崎」は上記の古潭と関連の深い、いずれも後日発祥となりますので、もっと違ったひとつの地名で呼んでいたかもしれません。どうも、国境制定後は朝日町全体が漠然と「佐味」と呼ばれていたようです。呼んでいたのは朝廷側ということになりますので、地元で人々がなんて呼んでいたのかは不明です。「浜」程度に言っていたのではないかと思います。糸魚川から西側で初めて浜と呼べる風景が広がる土地となりますので。
 とりあえずは、元来の祭神や地名などはさらに検討することとして、「水島」系統を朝日町に縄文時代には到来しており、そして歴史的に最も栄えた系統とします。


②佐渡
 「佐渡」系統は、局在率は「水島」と同等ですが、件数が少ないことになります。偏在地は、やはり海岸沿いで、明治期には漁業を主たる生業としていましたので、やはり「水島」同様、到来した時代は古いが「水島」のような手工業の展開はせず、むしろ漁業に専念したのではないかと思われます。
 「佐渡」系統は、富山湾では沿岸地域に点在しています。当地では、小川(朝日町でも最も大きな河川)の河口に船着き場を持ち、「赤川」という集落を形成した中心の系統だと思われます。「赤川」には五社明神社がありますが、特筆すべき祭神については未調査です。


③竹内, 長井, 折谷
 この三つの系統は、筆者の田舎の地域の最も古い系統であり、「折谷」はこの地の先住者と言ってよい局在率を示します。いわば、全国の他所に「折谷」姓の偏在を見出しません。
 「竹内」、「長井」はこの地にどこかから(毛の国からと想定)到来したものであると述べてきました。到来時期は、ここでは一応、古墳時代としておきます。
 現在は、三系統で「笹川」という集落を形成していますが、谷あいの地にこのような偏在地を形成したことは特筆すべきことと思われます。この点は後にさらに詳しく考察することになります。


④水野, 安達, 谷口
 この三つの系統が一団を成します。いずれも扇状地の山麓に沿って偏在地を形成しています。「谷口」は、小川の峡谷にちょっと入った地域にも偏在地を持ちます。
 後日、より詳細な分析を紹介しますが、高い局在率を持つより小規模な系統がいくつも連なって小集落を形成し、小集落が連なってある一帯を形成します。その中で、ここに挙げた系統は、古墳時代以降にかなり早期に当地に到来したものではないかと想定します。もしかすると「駅舎」の設定と深い関係があるかもしれません。そうなると前回で「佐味駅」の想定場所を常福寺古墳辺りと想定した仮説への対案を自ら示す可能性がでてきます。すなわち、前回の「北陸道」想定ルートが山裾で絞りこんだ位置が「水野」、「安達」の偏在地に相当しています。
 いずれにせよ、この比較的大きな系統の位置する地域が、朝日町では古くから栄えた地域に相当すると主張したいと思います。その理由は十分な水源と水田耕作地(まずは、谷内田から山麓地)に恵まれていたからです。
 「谷口」の偏在地については、奈良時代の和紙生産と絡んで、さらに話は面白くなります。


⑤藤田, 清水
 この系統はいずれも富山県に広く万遍なく分布(おそらく偏在地がいくつも分布)していますが、朝日町では図2の地域に偏在しています。これは、いよいよ黒部川扇状地の開墾が開始された荘園開発時期に入植した系統ではないかと思われます。扇状地でも標高の低い湿地帯ではなく、縄文遺跡の豊富な地域から開墾されていった経緯を反映しているのではないでしょうか。
 この近辺には白山社がありますので、そのこともこれらの系統の富山県内分布とも合致しており、富山県の黒部川以西で平地開墾に実績のあった系統が移住させられたのが起源ではないかと想定します。


 朝日町10傑は、例えば、平安時代早期にタイムスリップして上空写真を撮るとしたら、図2に近い集落の分布を形成していた写真が得られるのではないかということになります。
 そこには、まだ現在の中心地である「泊」地区は全く見えません。海岸線沿いに大きな集落があり、山あいと扇状地の山麓添いに小さな集落が点在しているという姿が想定されます。
 ということで、確かに「同姓同名探しと名前ランキング」を活用すると様々なロマンを展開できることが分かりました。皆さんもご自分の田舎に適用してみられると面白いことが分かるかもしれません。



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      同じ苗字の人たちが局在する 終
サイト掲載日:2015年5月18日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明