田舎の2000年歴史ロマン⑥ 道のはじまり(3)

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン⑥

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道のはじまり(3)


    

 日本の古代道路は、7世紀に整備され、646年に「駅伝制」が制定されている。北陸道の駅となる、越中佐味、越後佐味は遅くとも古墳時代に入植しており(いずれも古墳がある)、古墳時代にその母体となるものは既に存在していたと考えられる。中央に関する研究はそれなりに進んでいるが、地方の歴史の研究は希薄なままに置かれているような気がする。中央と地方は、相互関係が深く、その意味で全体として一体であり、その総合的な姿を可視化する検討が日本の歴史研究をいっそう豊かにすると信じる。
 ここまでの長井の勝手な考察のひとつの結論は、以下のようになる。
○3世紀:豊城入彦命一行は、大彦命開拓の北陸ルートを利用して、毛の国に入り、宥和政策を展開した。
○4世紀以降:それが大成功したので、全国制覇の要所にその「ノウハウ」を波及させようとした。その一連策として、佐味
 一族が中央に召喚されたり、北陸に派遣されたりした。
○その一部は中央政権にも認められたり、政権争いに直接関与したりし、それぞれ成功、失敗があった。
○越中、越後への佐味一族の入植は、古墳時代に既にあり、その一族のある同系集団が、後に「長井」の姓を使うように
 なった。
 このように何世紀にもわたり、日本には遠隔地同士が情報交換、情報共有する仕組みがあったということになる。その中で、高崎、柿崎、笹川のつながりが、何世紀も受け継がれた仕組みがあってもおかしくない。
 越中・越後国境が決められた後、702年に中央政権の正統的象徴であった八幡社が創建される。この頃までには、佐味駅も設置され、明確に中央政権の制度的支配下に入り、その要衝と位置付けられるようになる。すなわち、古代道路は、地方を中央政権に組み込む極めて重要な道具になったと思われる。
 そういう観点で、大和政権が中央集権化する過程で、古代道路がどのように位置づけられたかを論考した書に、
  近江俊秀 「古代道路の謎-奈良時代の巨大国家プロジェクト」 祥伝社新書 2013.04.10
がある。今回は、まずこの書を理解し、そこから地方の実像を思い描いてみたい。そうすることで、田舎のその時代の姿が浮かび上がってくると期待する。

駅路が造られた時期(7世紀)と思われる年代の関連年表

603(推古11) 冠位十二階の制定(中央集権化のための皇族、豪族のランク付けが始まった。同時に中央権力争いの先鋭化。)
645(大化元) 蘇我入鹿暗殺(豪族支配から天皇親政へ。中大兄皇子=天智天皇主導)
646(大化2)  大化の改新(これ自体が歴史の虚構という有力な説もあるが、結果論としては妥当ではないか)
 公地公民(「豪族の私地や私民をやめて、すべて天皇のものとする」、管理は豪族に任せた)
 国郡制度(「国や県などを整理し、のちの国-郡につながる形に再編成」、豪族の管理地の境界を定めた)
 班田収授(「戸籍と計帳を作成し、土地を国民の貸し与える、納税、兵役などの基礎台帳整備」)
 租庸調 (「国民に税や労役を負担させる制度の導入」)
  ※地方支配の最小単位=「五十戸(さと→里)」がひとつのキーワードとなる
  ※条里制=一辺109メートル四方の正方形(里)が基本単位
  ※駅伝制を定めたとある。
658(斉明4)  阿倍引田比羅夫(あべのひけたひらふ)を日本海沿岸の蝦夷計略に派遣(三次、北海道まで)
660(斉明6)  白村江の敗戦(唐、新羅への国防の備え、百済人受入、大和アイデンティティの確保)
  ※天智実権期の大規模土木工事=遷都、防壁、直線道路などなど、反面、地方インフラ整備は遅れる
672(天武元) 壬申の乱(乱を通じて多くの有力豪族が没落し、天武の専制化に導く)
683(天武12) 諸国の境を定め、国司を現地に置く(中央役人が直接、地方行政を管轄)
  ※古墳時代は、服属した地方豪族を国造に任命した、間接支配だった。
684(天武13) 八色の姓(真人、朝臣、宿禰、忌寸、導師、臣、連、稲置。皇親政治の体制整備)
701(大宝元) 大宝律令
  ※駅制が整う
702(大宝2)  新川郡と頸城郡との間を越中国境と定めた。
       高向朝臣(たかむこ)大足が、越中越後の国境の鎮護の神として、八幡山(城山)に誉田別命を祀った。
       この頃までに、「佐味駅」も設置されたとされるが確かな証拠はない。



駅家(うまや)の姿

 駅家の経営のために与えられた田。ここから得られる駅稲を民衆に貸し付け、その利息を経営資金とした。
 駅田は駅家の近くに置かれ、大路には四町、中路には三町、小路には二町。一町は108メートル四方(=里)。
  ※北陸道は小路だったので、越中佐味駅には、二町与えられたことになる。
  ※成人男子向けの口分田は、1/5町(=2反)。80束の収穫に7足の納税で、手もとには1石4斗6升、というのが基準だった
   とされる。
 駅田は、近隣の集落である「駅戸」に住む「駅子」によって耕された。駅子は、馬の飼育などすべての作業を担った。
 駅長を一人おく。駅戸の中で富裕かつ実務能力のあるものを任用し、実務能力がある限り努めさせる。交代に当って、馬や器具などの不足分を充足する必要がある場合は、前任者がすべて負担する。
 馬(越中佐味駅には8匹当てられた)の養育は、駅戸で行う。補充は、駅稲を活用して買い替える。
 発掘例によると、中心部を塀で囲み、門は駅路に開いていた。塀内部の中央に正殿、両脇に脇殿、塀外部に厨房、倉、厩舎、事務棟、駅楼などがあった。
 これでは、駅家経営はバカバカしい限りだったと言わざるを得ないが、その地方の有力者が充てられていたはずで、その限りでは請けざるを得ないし、それがステータスシンボルでもあっただろう。



過酷だった納税の旅

図1 北陸道の各駅(毛の国に繋がっている)

 馬を利用できたのは中央役人のみだった。庶民は輸納(都に税を運び込むこと)のために道路を使った。輸納は自前で旅支度をし、上京は国司の引率にしたがって向かった。私の田舎からだと11月30日以降に納税することが定められていたようだ。帰路の引率はなかった。道すがら自炊、野宿だったようで、難儀な納税の旅だったことは容易にうかがい知れる。積雪などに会ったら悲劇だったに相違ない。
 片道25駅×30里(約16キロメートル)=750里(約400キロメートル)の納税の旅を先祖達は毎年実施していたことになる。(以上が近江さんの書物から得た知見である)



では、佐味駅はどこにあったのか?

 越中の内の水橋まで、越後の滄海(現:青海)、鶉石(現:筒石)、名立(現:名立)、水門(現:直江津)、佐味(現:柿崎、木崎山)・・・と設置場所はほぼ想定されているが、その間の越中の駅である、布施には諸説があり、佐味には俗説があるが、いずれも特定されていない。なお、北陸道は小路に指定されていたので駅ごとに駅馬五疋を置くのが原則であるが、佐味駅と滄海駅には八疋が置かれた。その理由は、両駅間が難路だったためと故事にも表れている。(図1)

図2 通説の駅設置場所と想定ルート

 佐味駅は『和名抄』の新川郡佐味郷と同所として、朝日町または宮崎付近に想定するものが多い。その理由は、現在の泊市街の東端南側に佐味神社があり、「とまり」の地名そのものが古い宿駅的交通施設を意味するからである。要するに佐味郷がどこにあったのかがポイントである。
 しかし、すでに一部述べたとおり、「とまり」は後世の新しい街であり、この時代の「とまり」のルーツは海辺で回りに水田のない小集落であり、かつそこが発展したのは平安末期以降であり、現在の地に移転したのはさらに時代が下る。また、現在の佐味神社がある場所は、移転後の「とまり」の一角である沼保と呼ばれる土地であり、この後の荘園時代に開拓された新田で元は沼地だったものと想定される。このように、種々の俗説は現在の地名等からすると説得力を持つが、時代考証を加えるとほとんど実質的根拠がないと言わざるを得ない。
 また、佐味駅と滄海駅の間のルートが分かっていない。この点に関しても以下のような俗説が多い。
 例えば、「越中国佐味駅から神済(かんのわたり)を越えて越後国滄海駅に至った。神済以東へは親不知などの断崖などを避け、舟行、あるいは汀伝いをたどり、波風の荒いときには内陸の上路(あげろ)を通る山往来が利用されたと推定され、佐味駅と滄海駅には、難所であったため他駅より三疋多い八疋の駅馬がおかれた。」となる。
 はたして長井はこのような説に全く戸惑ってしまう。まず、どこがルートなのか理解できない。古代道路に関する研究では、「古代道路はあくまでも真直ぐ、開削し、沼地を埋め・・・」という原則と全く一致しない。かと言って、佐味駅と滄海駅を直線で結ぶ道路はトンネル無しには無理だということになるので、上記のような曖昧な記述にならざるを得ないのは理解できる。
 また、俗説で重要視されていない細かい点がある。それは、短距離だが宮崎辺りの海岸線を安全に通れる道を開くことができたかである。現地を知っている者として、城山の崖が海岸線にせり出していて、海岸沿いの浜地以外に街道を想定することはできない。もし、そこに街道があったとしても、冬季もしくは荒天の時にそこを利用するのはまず不可能である。難路以前の問題で、通れない。積雪時にはたして古代道路が機能したとは思えないが、いざという時に機能させることを考えると陸路を前提とするのが妥当だと思う。(以上、図2)


図3 当時、安全を確保できたと思われる街道筋

 図2のルートが、現在の北陸自動車とほぼ重なるのは興味深い。しかし、朝日インターと糸魚川インターの間のほとんどはトンネルである。親不知インターは、海上にある。この間に陸路を造るのがほぼ不可能だということの証明にもなる。
 当時は、黒部川も黒部川扇状地も未開かつ荒地だったというのが通説である。もし、布施と滄海の間を荒天時も安全に行路を確保するとしたら、図3の点線のルートが最も妥当である。俗説に出てくる山行路である上路がこの点線に当る。このルートだと、馬を佐味、滄海で増やす必要があったというのは首肯できる。また、布施と佐味の間の扇状地を直線で通したという考え方も、その後の黒部扇状地における荘園開発と関連付けると現実味が出てくる。しかし、松尾芭蕉は、親不知経由し、図1のルートで朝日(泊)まで来たが、大雨のために黒部川を渡るために朝日辺りからは、図3の山沿いの点線のルートを通ったと「曾良日記」には読める。江戸時代に至っても状況に変化はなかったようだ。
 長井は、図3で佐味駅を「常福寺古墳」「才の神」の地点に想定した。先述の駅家をこの時代に想定できるのはこの地しかないように思えるからだ。中央政権のお役人が着任したのは702年で、その時はに国境を置き、城山に諏訪社を祀った。そうすると本拠地は、そこから遠く離れない、宮崎-境の間にしただろう。その際に、先住の地方豪族(しかも皇族の末裔一族)とのいらぬ衝突を避けたと考えるのが妥当だ。国策上の有意な要所に新しく本拠地を設定し、そこで勢力拡大を図り、佐味辺りの実権も掌中に収めて行ったのではないかと想定する。
 中央集権を歓迎した当地の勢力として、長井は当地により以前から住んでいた玉造勢力(半工半漁の海人)を考えている。彼らには、現在でも宮崎-境地区に集中的に住んでいる「水島」姓の一族の先祖を想定したい。


図4 図3の山間部の拡大図

 水島一族は、縄文時代から棲みついていた系統ではないかと思う。但し、山地の採集・狩猟ではなく、漁業と工芸の双方に長けていたのではないかと思われる。水島一族は出雲政権と連携を持ち勢力を拡大したのではないか。
 また、他にも十二社を崇拝する山地系の縄文時代からの別の定住一族群もいた。この十二社系統は図4の点線ルート上に定住地を持っている。
 そこに、大和政権系の佐味一族(竹内、長井一族の先祖たち)がやってきて水田耕作を広めたと考える。佐味一族の最初の定住地の中心は、山間の丘陵地であった常福寺古墳近辺ではなかったと思われる。ここは、陸路としては、北陸道を北へ向かう古道沿いにあって、国防の要所でもあったと思われる。この古道が図4に点線で示すものである。
 佐味一族は、この古道沿いに水田を拓いた。水源が確保しやすい谷内田となった。谷あいの狭い土地だが、水分、栄養分などが自然と確保でき、開墾が進めば十分な面積となっていったものと思われる。ということは、この時点では、まだ現在の「笹川」は未開拓のままだったということになる。
 いずれにせよ、田舎は古代道路を通じて、中央政権の支配機構に飲み込まれていき、その中で急激な変化に巻き込まれていく。 (続く)



田舎の2000年歴史ロマン⑥ 道のはじまり(3) 終
サイト掲載日:2015年5月12日
執筆者:長井 寿
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