科学と技術を考える⑫ 倫理問題について(その3)  

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科学と技術を考える⑫

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倫理問題について(その3)

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 関西大学教授の齊藤了文さんから頂いた論文を考えているうちに、「工学倫理」について自分なりに原点に立ち返って考えてみようということで、科学と技術を考える⑩(倫理問題について)および⑪(倫理問題について(その2))をまとめてきました。



前々回のまとめ

 1)世界共通項として:動力機械化された工場を主たる生産手段とする産業革命を通じて、ものづくり現場で、自然と生産
   手段所有者たる資本家(分類A)、現場リーダーたる専門職(分類Bもしくはエンジニアとする)、単に労働力を提供する
   労働者(分類C)というヒトの分化を産み出した。機械化された工場から生産される製品は、誰が作ったもので、誰がその
   責任を取るのかが不明確化した。これがEngineering ethicsに固有な課題が生まれた発端ではないか。
 2)日本独自項として:本来、新価値は、様々な既存価値との対立、競争、妥協、融和などを経て、幸いにも社会に定着し
   ていくか、不幸にもなじまずに退場していくものだが、後発国としての日本は①ボトムアップではなく「官」主導で始ま
   ったこと、②新価値創造というよりも「作れば儲かる」優先主義に染まったことが、Engineerの日本独自の地位の低さ、
   Engineering ethicsの独自の課題に繋がっているのではないか。



        

前回のまとめ

 ①エンジニアだけの倫理もしくはエンジニアの倫理を問うても、問題解決に至るとは思えない
 ②問題解決のためには、科学的な分析作業が不可欠である
 ③事故原因解明、問題解決には専門家(=エンジニア)の活躍が不可欠である
 ④ところが、エンジニアは専門家として社会的に自立していない
 ⑤特に、日本ではエンジニアの社会意識の水準は低い
 ⑥このような状況の打開もしくはその糸口となる新しいシステムが期待される。
 ⑦だが、それを誰が作るのかが大事



        

Engineering Ethicsは狭い意味でのEngineeringの世界に閉じることはない

 齊藤さんが関心を集中されている自動車を例にしても、
・どう作るか(仕様、設計、原料、製造設備、動力・・・)
・どう売るか(運搬、在庫、販売・・・)
・どうメンテするか(点検、修繕・修理、調整・・・事故対応)
・どう廃棄するか
・日常的な燃料補給(給油設備)
・運転免許(教習、更新・・・)
・運転(道路、駐車場、・・・騒音、排気ガスによる他人への迷惑)
・保険(加害者、被害者)
・道路交通法などの法規、行政マンパワー
・インフラ整備、保守、管理・・・
と枚挙にいとまがない。限りがないような錯覚も覚える。
どの「現代技術」もこのようなシステムの中であるのだろう。



原型は「自分で作って、自分のために、自分が使う」

図1

 原点に帰る方法に、世界に「自分」しか存在しない状態を想定してもよい。現代社会のように自分の目に見ない、手が届かない無数のヒトを想像することは大変だが、「ただ一人」状態を想像するのはそれより簡単だ。
 肉体である体(からだ)に対する心(こころ)のことをMind(敢えて知性)とする。未開時代にどれほど知性があったのか、とか訝しがる人もいるだろうが、私は十分な知性があったと考えている。逆に現代人にどれほどの高い知性があるのか、と問いたいものだ。
 知性とは、物事を知り、考え、判断する能力としたい。そうすれば、古今東西の個人個人の間に高低差があっても、万人が持つものとして「知性」を認めてもらえると思う。
 Designとは、意図を持って行う、ことである。
 図1に考えをまとめてみた。この図のように、自分で使って、自分のために、自分が使う。すなわち、Self-sufficient(自給自足)を原則、原型としたい。この原型では、すべての責任は自分にある。



ヒト(ホモサピエンス)は群れる

 群れる本源的理由として、育児の充実のために群れた、という考察を既にしている。
 群れが形成される。そうすると群れが大きいほどたくさんの食料が必要だが、一方、食料確保も効率的となる。食料の安定確保はさらに群れを大きくする。群れを大きくするのは、充実した育児が不可欠である。(現代日本は、この原型原則を見失っているように見える)
 群れの中で全員が同じような作業、生活をしている限りは、全員が“自”であり、図1の範囲である。「分かち合う」ことはあっても、そこで”自”と”他”の違いを強く意識する必要はない。ところが、役割の分担が生じた途端に、”自”と”他”の分化が始まる。

図2

 みんな一緒に「道具」を作って、自分で自分が作った道具を使っていた。道具の作り方、使い方は見よう見まねで学んだだろう。
 その中で、みんなより「良い道具」を作り、他がそれをまねてもなかなか敵わないという「作り手」が現れてくる。ヒトの多様性が能力の分化となって現れるのは極めて自然なことである。
 また、道具の使い方が他より優れている者も生じよう。
 優れた作り手に作ってもらい、優れた使い手に使ってもらう。その方が、群れ全体の生産性が高い。それで役割を分担していく。年配者が作り、若年者が使うという分担もあったかもしれない。
 能力の違いに対応した役割分担が常態となると「自」と「他」の分化が始まる。伝え合う内容が進化するので、communicationの質が高まらざるを得ない。「知識」の偏在が役割分担に伴って生じるので、知識を整理して伝えるべきことを相手に確実に伝える必要が増す。ここからmindの進化も始まるはずだ。
 「自」と「他」の分化が、群れを越えて展開していくと、さらにmindとcommunicationの進化の重要性が増していく。
→図2および図3

図2

 ある分担仕事に特化したprofessionalが現れたとしても狭い社会ではそのヒトの「顔」が見えるし、「名前=評判」が通った。「誰々が作ったもの」として、広まったはずだ。信頼すべきは「ヒト」だった。だが、機械化工業はこの事情を根底から変えた。
 機械化時代では、Professionalは必ずしも「顔」がみえずとも「名」が通らずとも良い。あたかも分担仕事が機械によってなされているように見えるようになる。チャップリンは、映画モダンタイムズで、ヒトが機械の付属物、奴隷に見えると皮肉った。となると、「機械」を信頼すべきか否かと考えるようになる。
 「自」「他」の分化が極まり、お互いの直接のつながりは見えない。ヒトが作った機械、道具や人が作ったルールなど、血が通っていない無生物的なもので「自」の日常が経営されているかのような錯覚に支配される。その錯覚の中で安住できており、「他」を強く認識する必要もない。認識する方がむしろエネルギーを必要なのでわずらわしい。「自」の役割も忘れてしまっている。



「自」「他」の分化に安住できない

 しかし、このような安住は、現代社会の現実の主たる側面ではない。
 現実社会は、「自」と「他」の間の矛盾に満ちている。ホモサピエンスと「地球」の間の矛盾も常にある。
 様々な矛盾課題を解決しようとするためには、やはり原型は図1に立ち返るべきだし、分化の進行につれて、mindの発展を不断に追及する必要があろう。いわば、技術そのものの発展を喜び、その恩恵に安住するのではなく、それらを使いこなすmindをさらに洗練するのが現代人としては、当然のアプローチではないだろうか。

 Mindの発展、洗練のためにまず大事なことは、Mindの発展、洗練のためにまず大事なことは、
 1)「自分で考える」こと
   自分で考えることなしに、mindを鍛え、洗練することはできない。自分で考える際に、おそらくまず考える対象は「自」
  であるべきだろう。
 次に大事なことは、
 2)「他」を認め、理解すること
   すなわち、これらは、自分のphilosophy(知を愛する)を耕すことに帰着する。

 異分野との交流、グローバルな交流などを通じて、新しい価値に築くことが強く期待されているが、そのためにも自分のphilosophy(知を愛する)を耕すことが極めて効果的だろう。質の高いphilosophyは、「他」とのcommunicationのための最も強力なtoolとなるはずだ。
 このように考えてみると、日本のエンジニアリング教育では、質の高いphilosophyを自己陶冶させる視点が極めて弱いことに気づく。よいたとえが思い浮かばないが、昔よく「頭でっかち」という言葉を聞いた。知識ばかりで行動がついていかない様を表現しているはずだ。そうすると、今は、「軽頭(かるあたま)」とでも言うべきか。行動だけで知性が足りない、もしくは自分の行動の説明もできない様を言い表す。軽頭のエンジニアを育てて、Engineering Ethicsを説いてもだめだろう。
 日本のエンジニアにはきっと素質があると思う。質の高いphilosophyをエンジニアが自己陶冶できる方法を産み出すことが日本のエンジニアリングの最大課題ではないかと思うようになった。スマホでゲームやSNSを楽しむことを否定する気は毛頭ないが、もっと熱中する時間の使い方を求めて欲しい。
 また、Informationの意味をさらに深く考察すべきではないかと思う。Informationが単にInformationとして死蔵されていたり、大帝国のように振る舞っていたりするようでは、Mindが委縮してしまうような気がする。




科学と技術を考える⑫ 倫理問題について(その3)
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執筆日:2015年5月29日
サイト掲載日:2015年6月8日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明