科学と技術を考える⑪ 倫理問題について(その2)  

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科学と技術を考える⑪

  

倫理問題について(その2)

齊藤了文さん 「工学倫理の考え方」


 関西大学教授の齊藤了文さんから頂いた論文の別刷について、この際に「工学倫理」について自分なりに原点に立ち返って考えてみようということで、前回のコラム(科学と技術を考える⑩)をまとめました。
 今回は、その出発点となった、京都大学文学部哲学研究室紀要『PROSPECTUS』No.3(2000)p.1-p.18 「工学倫理の考え方」(以下、論文とします)に則して、私が学んだことをまとめてみたいと思います。


 前回の論考をまとめますと、
 1)世界共通項として:動力機械化された工場を主たる生産手段とする産業革命を通じて、ものづくり現場で、自然と生産
   手段所有者たる資本家(分類A)、現場リーダーたる専門職(分類Bもしくはエンジニアとする)、単に労働力を提供する
   労働者(分類C)というヒトの分化を産み出した。機械化された工場から生産される製品は、誰が作ったもので、誰がその
   責任を取るのかが不明確化した。これがEngineering ethicsに固有な課題が生まれた発端ではないか。
 2)日本独自項として:本来、新価値は、様々な既存価値との対立、競争、妥協、融和などを経て、幸いにも社会に定着し
   ていくか、不幸にもなじまずに退場していくものだが、後発国としての日本は①ボトムアップではなく「官」主導で始ま
   ったこと、②新価値創造というよりも「作れば儲かる」優先主義に染まったことが、Engineerの日本独自の地位の低さ、
   Engineering ethicsの独自の課題に繋がっているのではないか。
という視点です。


 この考察の発端となった論文の目次を以下に紹介します(各章の小見出しも追記します)。
 1.工学倫理の位置づけ
 2.組織の中でのエンジニア
   使用者責任、エンジニアの行動、内部告発、職業倫理
 3.製造物という人工物
    製造物責任、使用説明書
 4.大規模システム
   企業に対する規制、ヒューマンエラー
 5.限定合理的な人間の生き方


 ここでは上記の3.を除き、私を上記の論考に導いたご指摘を中心に紹介させていただきます。
 主たるものは、3.は次回に回し、自動車の論文のところで紹介したいと思います。
 教えていただいた中心命題は、例えば、p.17にある「古くから存在するものづくりの伝統に、大量生産、大規模シス
 テム、そのための組織などが加わると、問題解決が非常に複雑になっている
」という記述などから得られたもので、
 ほぼこれに尽きます。



エンジニアの倫理を問うのか、事故原因を追究するのか、どちらを優先すべきか

 多分に「工学倫理」ないしEngineering ethics、技術倫理さらには技術者倫理について話し込んでいくと、あたかもエンジニアの責任に焦点を当てた話になりがちです。エンジニアがなっていないからこのような問題が起こるのではないかという一般市民の疑念も生じやすい状況があるように感じることがあります。もし、エンジニアが原因そのものであればそれはそれで問題解決となりますが、それでは本当の問題解決ならない場合でも、スケープゴートにしてしまうことで一件落着というケースもありえます。また、経営者が問題解決を事実上不問にする代わりに、スケープゴートになってしまうこともあるかもしれません。また、全社的責任ということで様々な謝罪、賠償などの「責任が取られ」て、それで問題解明の道が途絶することもありえます。
 意外と事故原因の追究が中途半端になり、倫理/責任問題に関心が偏る傾向があるように感じます。
 確かに、事故原因追及は困難を極めることが多いと思います。ですが、事故原因追及には科学的手法しかないと思います。科学的手法は、課題を系統的に全体的に分析し、個と全体の関係(すなわちシステム問題)も明確にする確実な方法と信じます。問題点を科学的に解析しきることが「再発防止」のための最も確実な方策と思います。対象が複雑であればあるほど、科学的手法の貫徹が求められます。
 齊藤さんは基本的にはこのような視座でご検討されていると感じます。対象が「複雑系」であればあるほど、分析作業は大変なものになるはずです。



「工学倫理」の独自性にどこから切り込むか

 また「工学倫理」については、どこから取り掛かるかということですが、p.1に「素朴で分かりやすい価値観の採用が、テクノロジーが発達した現代においては単純には維持できなくなってきている」という基本認識を示され、「販売システムを含む生産システムの高度化が生じた」ことを認識し、「技術者は(個人としての発明家というよりも)組織の中で仕事している」視点から分析すべきとされています。
 これは科学的分析における一種の境界条件と言えます。以下、印象的に受け止めた点を順不同に紹介します。


P.2 「専門家としての資格試験は現在基本的には存在せず、エンジニア(長井注:分類B)は企業での昇進を望んでいて、管理職(長井注:分類A)になるという仕方で、専門家でなくなることもある。その意味で、組織内に存在し得る特殊な専門家である」
 →長井:エンジニアが将来どのような社会的地位を占めるのか占めるべきかを想像すると【分類A and B】というイメージができあがる。その意味では、エンジニアは『技術バカ』(褒め言葉のつもり)と『経営するエンジニア』(仮称)への分化が生じるか。そうなった場合、後者の育成は時間のかかる大変な事業となる。


p.2 「作った人(長井注:分類BおよびC)と使用者(長井注:消費者)が直接の契約関係にない。・・・作った人の予想できない影響を人々に与えることもある」
 →長井:作った人の想定使用条件どおりに使用者が使うとは限らないことも含まれる


p.3 「組織の中での行為であるという条件のために、因果関係を確定することが難しく、確定しても誰に責任を求めればいいかが難しい。だから、ナイフで人を刺して殺したという典型例を使った倫理的判断は、単純には使えない」
 →長井:因果関係の解明においては、再発防止策の解明を優先し、それに付随して、事故責任、補償、賠償などが裁定されるべきと思う。


p.5 「個人の意思決定の程度に応じて倫理的帰責を行うとすると、専門家としてのエンジニア(または、実際に操作して事故を起こした人)の役割が大きくなる。ところが、現行の法の運用の面では、使用者責任や企業の責任を大きく認めるものになっている」
 →長井:「企業責任」を問うのは当然だと思うが、「企業責任」という用語には相当に曖昧な印象を受ける。「企業責任」を前提として、分類A,B,Cのそれぞれの個々の責任について可能な限り分析しておくべきではないか。


p.5 「全米プロフェッショナル・エンジニア協会」
 →長井:欧米では「エンジニア(技術者)協会」という概念が普通であるが、日本にはほぼない。かわりに「技術協会」という概念が覆っている。「技術」が「協会」を作るという「擬人法」は日本特有ではないかと思われる。さらに、「技術」に「責任」があるという「擬人法」も生まれる。


p.8 「素人が外から完全にチェックするシステムを作るよりも、ある程度倫理にまかせる方が有利である。そこに、専門家同士の相互監視がありうる。それが、専門家の共同体(医師会、弁護士会、学協会)の規範と排除システムだ。(もちろん、エンジニアの入口と出口を確定しないと、このシステムは動かない。日本の現状で、エンジニアは専門家になれるのだろうか。)」
 →長井:齊藤さんの本音が見えて興味深い。先に述べたように、医師の会、弁護士の会なのに、日本にはエンジニア協会はほぼないので、ご期待の専門家にエンジニアが成長するのは難儀だろう。また、どのような「チェックシステム」を誰が造るかも極めて大事な問題だと思う。日本のエンジニアにその能力はあるのだろうか。


   p.9 「市場による反発が大きいことを理解するといったことがあれば、風通しは良くなるだろう。そして、後に述べる事故調査に関わる第三者検査機関をつくることも選択肢のひとつだろう。内部告発は、告発者にとっても耐え難い状態になり、告発された企業の方もダメージを受ける(きつい方法だ)。」
 →長井:内部告発が、事故原因の科学的解明にとても役立つとは考えにくい。但し、制裁手段としては有効な場合が多いだろう。齊藤さんご指摘のように、「きつい」方法ではない別の方策こそが求められる。



今回のまとめ

①エンジニアだけの倫理もしくはエンジニアの倫理を問うても、問題解決に至るとは思えない。
②問題解決のためには、科学的な分析作業が不可欠である。
③事故原因解明、問題解決には専門家(=エンジニア)の活躍が不可欠である。
④ところが、エンジニアは専門家として社会的に自立していない。
⑤特に、日本ではエンジニアの社会意識の水準は低い。
⑥このような状況の打開もしくはその糸口となる新しいシステムが期待される。
⑦だが、それを誰が作るのかが大事。
ということです。


 これ以降も極めて重要なご指摘が続きますが、その内容は、次回に予定している「自動車安全を巡る7つの哲学的問題事例」(関西大学『社会学部紀要』第46巻、第2号、2015年3月)の紹介で具体例を示した方が読者には適切だと思います。

→次回に続く。



(参考) 4月に載った二つの関連新聞記事

(1)神里達博さん 朝日新聞 2015.04.17 月刊安心新聞
 「老朽インフラの改修 メリハリある計画のために」
 JR支柱倒壊事故、笹子トンネル天井板落下事故など、橋や水道管、建築物など、さまざまなものの劣化が進んでいるとの状況認識の下で、今後、「具体的に、どのような国の形を変えるのかを、誰がどうやって計画するのか」が最大のネックと神里さんは考えられている。
 その鍵として、「専門的な知識と、民主的な決定の、『組み合わせ方』について新しいアイデアを導入する」ことを提案されている。
 曰く、「高度に政治的な課題については、一見、専門的な体裁を備えた結論であっても、それがどんな前提に基づいて導出されたものなのか、一度、腑分けしてみる必要がある」「十分な専門知を持ちながら、しかしながら異なる前提で議論ができる、『独立した専門家』」を「各専門分野に育てる」ことができると、かなりの問題は解決に近づくのではないかと述べられている。
 →長井:そのとおりだと思う。しかし、これが単なるwishでは何も前に進まないので、そのような専門家を育成する具体的な方法論を構築し、それを実施することが必要だと思う。


(2)柳田邦男さん 毎日新聞 2015.04.25 柳田邦男の深呼吸
 「JR福知山線事故10年 企業人の思考の180度転換」
 犠牲者の遺族の苦難の歩みを紹介している。その中で、遺族有志の会「4・25ネットワーク」の主要メンバーの活動に括目した。
 JR西日本の安全対策に関わる関係幹部と、責任追及を横に置いて、原因究明に的を絞った27回におよぶ対談の活動だ。
 「事故につながる可能性のあるあらゆるリスク要因を洗い出するのが事故調査である、それらの一つ一つに対策を立てることで、初めて安全が確立されるのだ」
 遺族側が、①会社の責任追及は横に置くから、原因究明に真摯に共同で取り組んで欲しい、②たとえ見解が違って対立しても、対話を放棄しないで続ける、ことをJR西日本に求めた。
 対応したJR西日本幹部のいくつかの声が紹介されている。
 「自分がその身になったら、そんな考え方ができるかと思うと、ハッとなりました」
 「大事な家族を亡くした人の心の痛みをケアするグリーフケアの講座に出て学ぶうちに、遺族の喪失感と悲しみがいかに大変なものかに気づきました」
 柳田さんは、経営層の思考が、冷たい三人称から被害者(一人称)と家族(二人称)に寄り添う「ぬくもりのある二・五人称の視点」に転換した、と紹介されている。
 JR西日本幹部が、対談を通じて「認識」したことは
 ①組織が縦割りで、ATS計画の部門とダイヤ編成部門が全く連携なく、それぞれ勝手に仕事をしていた。
 ②ダイヤの速達化を進めて実施されていたと思っていたが、実際には、電車の80%はダイヤよりも遅れており、それがまた
  運転士のストレスを増していた。
などであり、副社長は「われわれはそれに気づくだけの技術力がなかった」と率直に反省した。
 柳田さんは、「自己防衛ばかりに走る日本の企業の在り方に「二・五人称の視点」の重要性という新しい風をもたらした」と結んでおられる。
 →長井:元始ホモサピエンスは「自給自足」を旨としたと信じる。そのために諸能力を高めた。さらに能力を向上させるために、育児および生産の集団化そして社会化を知り、集団(社会)としての「自給自足」時代に入った。そこでは、当然、集団の一体感も生まれただろうが、同時に、構成員間の矛盾も、さらに意思不疎通も生まれる。
 また、多分、新しい価値を生み出すイノベーションもこのようなギャップを乗り越える、「異分野」間の対話などを通じて生まれるような気がする。「たとえ見解が違って対立しても、対話を放棄しないで続ける」という原則の無限の可能性に注目してみたい。
 情報も高い所から低い所へ流れると信じられているが、それは根底的に間違った認識かもしれない。もしくは、「高い」という自己認識が基本的に誤っているのかもしれない。JR西日本の関係者の真正直さを喜びたいが、一方で社会認識レベルの低さは残念と言わざるを得ない。
 少なくとも「意思疎通による相互理解」があれば、矛盾克服か問題解決への試行錯誤も円滑に行われやすい。産業革命を通じて一層複雑化した社会システムの下では、「意思疎通による相互理解」のための不断の改革を求めざるを得ないのではないか。
 いずれにしても原点は、「製造者=使用者(すなわち自給自足)」であるべきである。この原点に立脚した新しいシステムを見出す努力として、この家族会の活動を高く評価したい。だが、あまりにも「残酷」な期待かとも思う。テレビなどの報道で、残された人々の様々な心情が紹介されていた。犠牲者を悼むと共に残された方々の心情にも寄り添いたいものである。




科学と技術を考える⑪ 倫理問題について(その2)
齊藤了文さん 「工学倫理の考え方」 終
サイト掲載日:2015年5月12日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明