科学と技術を考える⑩ 倫理問題について  

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科学と技術を考える⑩

  

倫理問題について


 前回のコラム(科学と技術を考える⑨)では、ひとりひとりが、宇宙・地球・生物・人類の歴史をしっかりと順追って学ぶことが、人間的でありかつ逞しい知性を育む土台となり、その学びを通じて、地球(太陽)のありがたさを実感すべきと言いました。そして、地球(太陽)にも限りがあること、ヒトも大いに間違いを犯してしまうものではないか、と書きました。
 年齢を重ねるに連れ、いつの間にか「完全なるヒト」は勿論、「すべてを解明した科学」は、残念ながら過去にも現在にも多分未来にもあり得ないと思うようになっている自分に気づきます。したがって、「完全なる技術」も達成できるはずがないと思っていることになります。
 しかし、これは、事故やミスを受容し、それらによる損害をやむを得ないとする立場とは全く無縁なつもりです。それとは真逆な視点から、事故、ミス、被害などの発生をできるかぎり抑え、問題解決しようと考える際の私の割り切りです。
 報道などを少し賑わしているように、交通事故による数的人的被害は確かにフクシマを上回るとも言えますが、それぞれの問題の在り処をきちんと見ずに、水掛け論に持ち込もうとするのならそれは言語道断であり、そのような論者は即刻壇上から降りるべきです。


 さて、前回のコラム(科学と技術を考える⑨)を書いている最中に、関西大学教授の斎藤了文さんから、論文の別刷を送ってもらいました。
 「自動車安全を巡る7つの哲学的問題事例」(関西大学『社会学部紀要』第46巻, 第2号, 2015年3月)という50ページを超す労作です。内容も重たいものです。
 実は、私が「工学倫理」に出逢ったのは、斎藤さんのお蔭です。最初の出逢いの際に、京都大学文学部哲学研究室紀要『PROSPECTUS』No.3(2000) という小冊子をいただきました。その中に、斎藤さんの「工学倫理の考え方」という論文が冒頭にあります。この小冊子は、今も自宅の本棚に大切にしまってあります。
 斎藤さんとの最初の出逢いからもう15年以上も過ぎました。その間、私もそれなりに「倫理学」に触れ、耳学問で得た知識も増えました。だが、正直なかなかストンと落ちてくれません。
 いただいた別刷を手にしたとき、何故ストンと落ちないのかを自己分析していないからではないか、という斎藤さんの声が印刷物に乗っかっているような気がしました。
 斎藤さんの著作を分析し紹介するのが本来の目的なはずですが、それに先立ち、まずこの「倫理」問題に関する私自身の理解内容の自己分析をさせていただくことをご容赦ください。そうでないと、あまりにも非力すぎて斎藤さんの著作に責任あるコメントが全くできません。



英語でEngineering Ethics


 Engineering ethics is the field of applied ethics and system of moral principles that apply to the practice of engineering. The field examines and sets the obligations by engineers to society, to their clients, and to the profession. As a scholarly discipline, it is closely related to subjects such as the philosophy of science, the philosophy of engineering, and the ethics of technology.
http://en.wikipedia.org/wiki/Engineering_ethics


Engineering (from Latin ingenium, meaning "cleverness" and ingeniare, meaning "to contrive, devise") is the application of scientific, economic, social, and practical knowledge in order to invent, design, build, maintain, research, and improve structures, machines, devices, systems, materials and processes.
http://en.wikipedia.org/wiki/Engineering


 エンジニアリングは輸入語で、「様々な知識を駆使して、人為的な何か有益なことを行う」というような極めて広い意味を持っているようですが、これにぴったり当てはまる日本語は思いつきません。敢えて言えば、「工夫」して「細工」すること全体をさしています。「工」だけだと、英語ではworkになってしまいます。
 Engineering Ethicsは、そのようなエンジニアリングを実践する際の、Engineerに求められるEthicsということになります。

          


 An engineer is a professional practitioner of engineering, concerned with applying scientific knowledge, mathematics, and ingenuity to develop solutions for technical, societal and commercial problems.
http://en.wikipedia.org/wiki/Engineer


 それではEngineerとは?と思われた方が多いと思いますが、上記のような説明書きになります。思い切って日本語に直すと、「エンジニアリングの熟練専門職」とでもなるでしょうか?
 それを「技術者」と訳してしまうとなんだか拍子抜けする気がします。そこで「工学者」と訳す人も多いようですが、それでは世間の人は「工」の「学者」と受け止めてしまうようです。
 このようにどう訳すと妥当かという議論は、収まりがつきませんし、ただただ本質論の周りを漂っているだけです。



日本語では、工学倫理、技術倫理、技術者倫理???

 斎藤さんは多分このような混乱を熟知された上で「工学倫理」という用語を使っておられますが、私は敢えてEngineering Ethicsで通します。
 斎藤さんによると、元来、Engineering Ethicsの歴史は長く、時間を掛けて社会の諸規範との折り合いをつけてきた、とみておられます。これは大前提として大事な観点です。確かに、例えば、「この精巧な時計は、何の何某が作ったものなので、不都合があれば彼のところに行けばよい」という社会認識が普通だったことを考えれば分かります。
 例えば、医師など、資格をもった熟練専門職は、個人事業主であり、果たすべき本分とそれに見合った信望を受けることが社会的に定着し、「ヒポクラテスの誓い」、「ナイチンゲール誓詞」などがよく知られている職業倫理を表明した文章となります。
 ここまでの範囲では、様々な職業倫理の間に目立った違いを見ることはありません。



「技術者の誓い」(http://www.eaj.or.jp/eajnews/news139/01.html)

 そこで私も、工学アカデミーの作業部会のみなさんと一緒に以下のような文面の誓いを検討し、2010に発表したことがあります。フクシマの前年でした。
 『技術は人々の幸せでより快適な生活を追求し、便利で安全な社会を築き、平和に共存できる世界を実現することを目的としています。この目的の達成のために技術者は、科学を中心とした人間の知識と経験を集積・活用し、知恵を結集し、最善の努力を尽くしています。
 現在、私たちは日々の生活から遠い宇宙まで、技術の成果を実感することができ、技術者はこれを誇りとしています。しかし、私たちは戦争や自然破壊など、技術の負の側面も経験してきました。
 これからも技術者は、常に未来の世界に目を向けて、技術を善い意図に用い、技術の悪用に対して戦い、科学技術を超えた分野にも目を配って、子孫の代にもわたる技術の影響の予測と予防に細心の注意を払います。』
 一読していただければ、英語定義にかなり合致した内容になっているとご理解いただけるかと思います。ですがそれは結果論で、部会メンバーの「純粋な気持ち」をどう表現するかの作業でした。



Engineerの社会的地位(世界共通項)

 ですが、Engineerは熟練専門職と認められても、社会的地位は低く抑えられてきたとしか言いようがない歴史に苛まれています。Engineerが社会的に職業化したのは産業革命と密接な関係があります。まずスコットランドから始まりました。
 最初は街の発明家の集まりのようなものだったのでしょうが、例えば、動力機械化された工場による大量生産様式が有力な事業形態となるにつれ、動力機械に関する基礎的な科学知識を意欲的に習得し、工場の有力な担い手となろうとする人たちの自己学習の場がAcademy of Engineersとして生まれます。
 しかし、動力機械化された工場を所有するほどの資金力をそのような人達は持ち合わせません。自然と生産手段所有者たる資本家、現場リーダーたる専門職、単に労働力を提供する労働者というヒトの分化が出来上がってきます。個人経営ではなく、会社組織に属した専門職という新しいお雇い専門職が生まれた訳です。ここから、「○○社の誰々さん」となり、「果たすべき本分とそれに見合った信望、処遇を受けているか」というEngineerの自問の歴史が始まります。
 機械化された工場から生産される製品は、誰が作ったもので、誰がその責任を取るのでしょうか?これが、Engineering ethicsEngineering ethicsに固有な課題が生まれた発端ではないかと思います。たぶんこれは世界共通的な事情かと思います。



Engineerの社会的地位(日本独自項)

 本来、新価値は、様々な既存価値との対立、競争、妥協、融和などを経て、幸いにも社会に定着していくか、不幸にもなじまずに退場していくものでしょう。万人にとって「絶対に正しい価値」というものは存立しえませんので、このような勝ち負けが「自然」と付くでしょう。
 産業革命がスタートラインから始まった国々では概略このような時代を経由しているでしょうが、スタートラインから遅れて入った日本にはいくつかの「無理」が不可避的に生じたと思われます。
①「官」主導:Engineeringは様々なオプションを提供し、市場もしくは社会の選択に委ねるのが自然であり、「官製」として「与える」ものだとしたら、行き詰ってしまった時に有効な対応のしようがありません。日本での導入は「官製」であり、目立った目標は富国強兵でした。
②「作れば儲かる」優先主義:Engineeringの真髄は、まず求められる新価値の提供であり、それが成功したらしかるべき報い(儲かる)があるのが本筋でしょう。他の国々の人々が「作れば儲かる」土台を作ったとしたら、先ず、その人々を高く評価し、その真髄を学ぶべきでしょう。そして、日本こそが土台を新しく作れるようになるべきです。そうでないと永遠にこの軛(未熟なEngineering)から逃れることはできないでしょう。
 これらの事情が、Engineerの日本独自の地位の低さ、Engineering ethicsの独自の課題に繋がっていると思います。



Engineerの社会的地位(世界共通の最近の動向)

 「売れば、あとは買ったもの、使ったものの責任だ」がビジネスモデルとして低調になってきています。「サービスを売る」もしくは「使用中は勿論、墓場まで使う人との付き合う」ビジネスモデルが成立するように求められるようになってきています。一気にその方向に突き進むとは思えませんが、確実に風向きは変わっていくと思います。これは動力機械文明時代では、世界共通の新しい課題だと思います。
 「初期性能が抜群に高いが、その性能寿命が短いサービス」と「初期性能は十分満足できる性能で低くもない、その性能寿命が合理的に長いサービス」を比較すると、後者が生きのびるのが自然でしょう。
 売る側からすれば、「一気呵成に売り抜けて、投資を回収し、儲ける。あとは知らん。次の儲け先こそ最重点課題」というモデルと、「毎年少しずつ回収し、儲けも出せる中長期事業を継続する」というモデルのせめぎ合いということになります。
 このようなせめぎあいの後のモデル選択は、当然Engineerの社会的地位に影響を及ぼし、Engineering ethicsにも大きく波及すると思われます。当然、Product Liabilityにも影響するでしょう。



Engineerの社会的地位(21世紀から先)

 さらにその先では資源・エネルギー制約、地球制約の深刻化は避けがたいでしょう。極めて短縮して言えば、今の産業革命は化石資源依存の機械文明でしかありません。これを化石資源非依存に転換するという挑戦がこの先に必ずきます。
 「作れば儲かる」主義は、このように放っておいても、これでは時代遅れだと自覚されるようになるのではないでしょうか。
 ところが、「官」主導の軛は、根深いものがあるように思えます。



官製の悲哀=自分で考えなくても安心

 西洋社会に早期に比肩できるように明治以降「富国強兵」を急ぎました。その光側には多大なものがありますが、一方、影側もあるはずです。
 いろんな分析があるでしょうが、私はやはり「上からの改革」にありがちな弱点が「沈殿」してしまった点が大きいと思います。
 話は戦後に飛びますが、戦後の「民主主義」もかなり「上からの改革」側面が強かったと思います。中国人が「今度は赤い皇帝か」と受け止めたという話と同じで、「今度の勅語は民主主義か」と理解した人たちが多かったように思えます(自分の両親をみての実感です)。人々の対応能力は高いので、世を生きる術が分かれば事足りるのです。当然、日本にも戦前から「民主主義」を理解し、その拡大と定着を図った人たちがいることを無視しているわけではありません。
 戦後の混乱の中で大概の人たちが、「民主主義の勅語」を聴けるのでは思って集まった人たちに、澤瀉久敬さんが語ったことは、「自分で考える」ということでした。
 私が高校生の時分に町の書店で買った角川文庫、『「自分で考える」ということ』(1963)に収められている「個性というもの」は、1960年に日本ステンレス直江津製造所での講演です。
※私の本棚は定期的に棚卸がされ、入った分だけ廃棄するという原則で、蔵書の管理をしています。生き残るのは厳しい競争に勝ち抜かないといけません。多くの本が消えていきました。
 澤瀉さんは、デカルト哲学を分かりやすく講演されているとも言えます。個は他があるから個であり、他と違うから個であり、個々が全体を構成している。個々が個性を持った全体が望ましいとし、まず、個性を開花させようと呼びかけています。そのためには不断の自己陶冶しかないということを静かに語っておられます。
 澤瀉さんの思いの外、相当新鮮さを持って当時の特に若い世代に受け止められたようです。私は一読者であり、講演等を直に聴いたことはありませんが、やはり鮮烈な道筋を教えていただき、大変感動しました。正しく「個人主義」を定着させない限りはダメだとも感じました。
 デカルトは、動力機械文明が個々の人間的発展をもたらすものだという期待を持ったように思いますが、残念ながらそれは単に一つの可能性に過ぎず、そうは問屋が卸さなかったと思います。それがチャップリンの映画「モダンタイムズ」などにも表れています。
 ただ、「方法序説」は実証的な論理思考の手引書としては素晴らしい力を発揮したと思います。あらためて「方法序説」をめくってみると、「わたし自身」の実証的な徹底した分析に終始していることが再び新鮮によみがえります。
 いずれにせよ、澤瀉さんの著作に出逢い、言われる「個人主義」の確立が必要だと思うようになりました。「自分で考える」ことを続け、貫くことです。
 ですが、「個々の個性が調和したものが理想的な全体」という考え方は道徳としては美しいでしょうが、利害関係が覆い隠されるとそれは欺瞞になります。同じように「民主主義」が道徳レベルであれば、お題目に過ぎずご利益もないでしょう。勝つための道具となればこれは話が違ってきます。
 私の大学時代は、「ベトナム反戦時代」と言うべきかと思います。米軍が負けた瞬間を連日の報道を通じて、同時刻で体験しています。圧倒的な武力を誇る米軍が、竹槍しか持たないような「ベトコン」の攻勢に次々と敗退する姿は、信じられない驚きでした。
 かねてから「強い軍隊」というのは、近代兵器で完全武装し、組織的な訓練を十分受け、自己規律が高く、上官の命令によく従う・・・というイメージでした。それに対してホーチミンの軍隊「ベトコン」は違うという話を先輩たちからよく聞かされました(真偽のほどは多少不確か)。
①作戦は、小隊ごとに全員が一致するまで議論し、各々の分担を決めて実行する。
②戦闘中に欠く者があれば他がそれを補う。リーダーが欠けても他が継ぐ。
というあたりが強く印象に残っています。したがって、「民主主義」と言っては安っぽくなるほど、「自分で考える」ことが徹底しています。
 もう一度高校時代に戻ります。日本史の先生に名物先生がおられました。私たち生徒は「保守反動の権化」のように陰口をたたいていましたが、歯に衣着せぬ極めてユニークな授業で、その点は私の趣味に合っていました。今でも覚えている脱線話は、「戦争の最終決着は白兵戦」です。
 侵攻して自軍の旗を敵陣に立てるのが勝利の証。そこに至るには何段階もあるが、最後は敵味方入り乱れての白兵戦。白兵戦で勝たない限り旗は立てられない。これは古今東西、戦争最終決着の法則だ、というものでした。さらに、理想形は占領地を無傷で入手することで、兵が損傷するのは問題がない、財産こそ入手すべきものだ、火器で占領地を攻めるのは本来の戦争ではない、という話でした。「最大の利益のため、白兵戦に自ら身を投じ、勝つまで戦えるか!」という恫喝されていたようなものでした。
 まあ、ともかく、ベトコンは米軍をかく追い出しました。日本が負けた米軍が負けた歴史的事件でした。
 それで何故だか、ホーチミンの軍隊と保守反動の「白兵戦」の話は私の頭の中で渾然と一体化して残っています。「強い軍隊(組織)はかくあるべし」という堅固な考えになっています。これが平和主義の私が軍隊用語を好んで使う背景かもしれません。



斎藤さんの好きな単語=パターナリズム

 「パターナリズム(英:paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。日本語では家父長主義、父権主義などと訳される。」
 斎藤さんの著作の中に、パターナリズム、パターナリスティックという私には耳慣れない言葉がかなり頻繁に出てきます。
 これは「自分でかんがえなくてもいい」、「自分で責任をとらなくてもいいよ」みたいな『お父さま』の甘言が、事あるごとに聞こえてくる日本の状況を別の表現で示されているのではないか?と今回の自己分析の経過の中で、思いはじめました。
 「自分(たち)で決めて、決めたら最後までやってみよう。まあ、負けてもよい。勝つ力が無いのに勝ってもいけない。」という精神の持ち主として、次回は、斎藤さんの著作を論じてみます。

                →次回に続く。




科学と技術を考える⑩ 倫理問題について 終
サイト掲載日:2015年4月26日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明