田舎の2000年歴史ロマン⑪ 泊(とまり)の移住 追加情報

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン⑪

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泊(とまり)の移住 追加情報


 前回(田舎の2000年歴史ロマン⑩)では、江戸時代の当初の主街道は山沿いで、海沿いは副街道だったのに、明治時代は海沿いが主街道になっているのは、1717年以降の「泊」の移住に端を発すると思われることを紹介した。
 地図でその推論を再録すると、


図1 1700頃の「泊」辺り

1.1700年頃の「泊」辺り(図1)
 越中上街道は山麓沿いに、越中下街道は海岸沿いにあり、両者は泊の手前で合流していた。下街道は海岸浸食で消滅していく。


2.大波被害を受けて1717年以降、「泊」を計画移転したが、それに伴い、下街道をより内陸側に付け替え、上街道も山麓添いから離れた位置に付け替え、合流点は新「泊」の手前とした。








図2 「泊」移住の際の街道の付け替え


 以上は、歴史的事実ではあるが、地図上での位置は推論に過ぎなかった。しかし、その後、手もとにあった田舎の歴史書のひとつ「宮崎村の歴史と生活」(昭和29(1954)年刊行)に登載されている地図などをしっかりと眺め直してみたら、以上の推論を地図上で裏付ける記述があるのではないかと思い当った。この村史は、長井が既述の「笹川史稿」とともに高校生時代から何度も読み返してきたものだが、ここまでは気づかなかった。
 その二つの地図を以下に紹介する。


3.年代不詳の絵図

図3 (伝)東砺波に伝わる屏風の一部

 この図は、年代不明(江戸時代1603から1867のいつか)の作図ということだが、
1)泊-宮崎間の海岸ルートがなく、迂回ルート
  が書かれている点は、1717年以降の情報。
2)泊の内陸側移転が書かれていないのは、
  1717年以前の情報。
3)越中上街道が付け替えられ、既に街区が形
  成されつつある点は、1717年以降の情報。
  しかし、2)と矛盾する(合流地点は東草野
  辺りに付け替えられたはず)
4)越中下街道は、付け替えの前の道順(東草野
  は初出。後述)となっているので、1717年以
  前の情報。
5)地名は、明治22(1889)年の町村制施行まで
  遡らないと見えないものがあるので、江戸
  後半の情報だろう。
6)人馬が下街道に描かれているのは、下街道
  がより多く利用されるようになっていたこ
  とを反映する描写と思われる。


 ということで、情報に混乱があるが、1717年以降の情報を含んでいるので、1717年以降に描かれたものと推定される。


 この図から得られる極めて貴重な情報は、
●付け替えられた上街道の道のりが明らかなこ
 とである。前報の絵図では、付け替えは明白
 だったがそのルート間では触れられていなか
 った。
●下街道は、内陸側へ平行移動しただけなの
 で、記載情報は間違っていてもルート推計に
 は役立つ。そのことよりも、下街道がより多
 く利用されるルートとなっていることの意義
 は大きい。
●泊―宮崎間の迂回ルートの存在を示してい
 る。
●「東草野」が赤川と大屋の間に現れている。
 これは、「草野」とその「東」が一気に歴史上に登場することを意味する。思うに「草野」よりも海岸沿いに「東草野」が急速に発
 展したものと考えられる。下街道の付け替えに伴い、東草野は再度、その発展中心が付け替え先に移動したと推論される。
●道ではないが、「新村」の記述が散見されるように、多くの集落が形成されている。さらに、まだ名前が付けられていない
 が、上街道筋に街区が形成されつつある。
●このように全体として、地域的な発展の息吹が感じられる。この点は、加賀藩の絵図との大きな違いとなる。
などである。


4.昭和29(1954)年頃の「宮崎村」辺りの地図

表1 明治22年の町村制施行の際の、町村の統合対照表

 この当時の「宮崎村」は、表1にあるように、宮崎村、笹川村、元屋敷の三地区が合併したものなので、我が郷里の「笹川」地区をすっぽりと含んでいる。
 この地図は、私を改めて仰天させた。何度も眺めていたはずだが、ここまで調べてきたことに含まれる曖昧さをいくつか完全に吹き飛ばしてくれる。
1)古来の越中上街道の名残と思えるものは、
  山麓添いのひとつのルートしかない。した
  がって、現在の地図上で特定、対応できる
  はずである。
2)1717以降に付け替えられた越中上街道と思
  えるものは、この地図上でひとつのルート
  しかない。したがって、現在の地図上で、
  特定、対応できるはずである。
3)1717以降に付け替えられた越中下街道と思
  えるものは、この地図上でひとつのルート
  しかない。したがって、現在の地図上での
  特定、対応は容易である。
4)この地図では、前回までで紹介した「旧国道
  8号線」は見当たらない。すなわち、元来の
  「国道8号線」は付け替えられた越中下街道と同じことになる。
5)泊-宮崎間の迂回ルートに対応すると思われる道が、この時代にはまだ辿れたものとして地図上に記述してある(複数のル
  ートが読み取れるが、もっともなだらかなものを海側の青点線で示した)。
6)戦後移住して現在は集落がないことが明らかな、山地間の集落、すなわち「池原」と「奥石谷」が明白に描かれている。
7)長井が、古代からあるはずと予測し、勝手に名付けている「十二社ルート」が、常福寺古墳の脇を通り、この時代でも辿れ
  るものとして地図上に示されている(山側の青点線でなぞった)。


 上記5)-7)は、このロマンの展開に大きな影響を与えるものであるが、ここでは、前回の補足をし、前々回につなげ直すことで、一端締めたい(図5)。


図4 「宮崎村の歴史と生活」に掲載されている地図


図5 現在の朝日町の諸幹線道路

●前回は、北陸新幹線ルートを地図に示すこと
 を忘れたので、新幹線が含まれる地図を改め
 て示す。これを見れば北陸自動車道よりもさ
 らに内陸側に移動していることが明白だ。
  このように現代技術の進歩は、道をより直
 線化し、沿線にある生業とはますます無関係
 な道に帰着する。道がひととひとを結ぶ役割
 を果たすためには、生業ネットワークと直線
 化する幹線との組合せの利用を最大効率化す
 る真剣な工夫が求められる。

●越中下街道、上街道の元のルート(赤点線)
 と、泊の計画的移転に伴うルーとの付け替え
 (赤実線)を同時に示した。
  歴史上で、地域経済の活性化に最も貢献し
 たのは、付け替えられた越中下街道と上街道
 である。北陸本線も当初は大きく貢献した
 が、それ以外の旧国道8号線、新国道8号線、
 北陸自動車道、北陸新幹線は、どちらかと言
 うと、地域の経済的発展への寄与はプラス面
 とマイナス面の合計は、マイナスではないだ
 ろうか。特に新しいほど貢献度は低そうに思
 われる。このままでは、大型公共投資は地域
 経済をますます落ち込ませることにしかなら
 ない危惧が強い。

●元始越中上街道に相当する道しかなかった時
 代が長い。この長い時代の中で、道は遠距離
 の交流、交易と近隣同士の交わりの両方を兼
 ねていたと思われる。近年、遠距離ルートは
 著しく便利になったが、それは近隣交流を捨
 象することで利便性を上げている。古代から
 の越中上街道が果たした役割を考察の結果
 は、近隣間の生業ネットワークを再構築し、
 それと遠距離交通を結び付ける新しい工夫を
 求めているように思われる。

以上。



田舎の2000年歴史ロマン⑪ 泊(とまり)の移住 追加情報 終
サイト掲載日:2015年7月28日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明