※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。
田舎の2000年歴史ロマン⑤
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毛の国の豊城入彦命
この項は、完全にネットサーフィンの寄せ集めである。特に、以下の二つが極めて重要な情報データベースになっている。この二つを合体し、それに他の断片的なネット情報をまとめてみた。
豊城入彦東国派遣
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-21-5toyoki.html
豊城入彦命:玄松子の祭神記
http://www.genbu.net/saijin/toyoki.htm
豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族。豊城命、豊木入日子命とも記す。第10代崇神天皇の第1皇子。母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。垂仁天皇の異母兄で、豊鍬入姫命の同母兄である。東国の治定にあたったとされ、記紀には上毛野君や下毛野君の始祖とある。
崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(第11代垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山に登り、東に向かって槍や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣された。
豊城入彦が東国に派遣されたのは崇神48年となっている。四道将軍(西海、丹波、東海、北陸)が各地方に国造を任命して朝廷が地方統治を始めたのが崇神30年である。朝廷の持つ新しい技術を関東地方に伝えるために豊城入彦が関東地方に派遣されたのではないかとも想定されている。
豊城入彦赴任
関東地方に赴任した豊城入彦は周辺を巡回後、方々に饒速日尊(大物主・赤城神・大己貴命・大国魂・経津主命)を祀り、人々の心を安定化させ、宇都宮に仮御所を作って、配下の者に周辺を開拓させた。
その後群馬県前橋市粕川町月田の近戸神社の地に移り、暫らく後この地で亡くなったと言われている。
御陵と伝えられる郷見神社には次のような伝承が伝えられている。
豊城入彦命が、病を得て薨去されるや、崇神天皇はいたくその死を悲しまれ、せめてその遺体だけでも都へ運び、天皇の側近に葬りたいものと考えられて都から多数の人を遣わせて、命の遺体を都へ運ばした。上野の人民は、この地方開拓の恩人であり、威徳の高い命の遺体をこの地に葬り、長く懇ろにその霊を弔いたいと懇願したが、この切なる願いも入れられず、遺体は都へ運ばれていくので、ついに堪りかねた民衆は遺体を碓氷峠で奪い返し、本街道よりそれ、しかも朝日差し夕日輝く丘を選んで葬った。その地が郷見神社裏山の古墳である。
豊城入彦が亡くなったのは崇神天皇の時代である。崇神天皇が亡くなったのは崇神68年なので、豊城入彦が関東地方で活躍したのは20年に満たない年数であったことが分かる。崇神68年の干支を信じれば、その年は西暦258年もしくは318年となる。
郷見神社の伝承では土地の人々が豊城入彦命を異常に崇拝しており、豊城入彦の派遣は大和朝廷にとって大成功であったことになる。
茨城県石岡市の佐志能神社の伝承でもわかる通り、地方の人々の豊城入彦への崇拝が異常であったことから、その後、大和朝廷は豊城入彦の子孫を関東地方に派遣させることにしたのであろう。
この豊城入彦の地方派遣の成功が第12代景行天皇の地方統治につながっていくのである。
豊城入彦命を祀る神社(祭神のものと合祀されているもの)
佐味一族の起源
佐味氏(佐味君)は上毛野氏の一族のひとつ。佐味の名称は上野国緑野(みどの)郡佐味郷に由来し、畿内における本拠は大和国十市郡(現在の橿原市、桜井市、田原本町境界付近)佐味と考えられる。
豊城入彦命は、『新撰姓氏録』【平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑】によると、上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、大野朝臣、池田朝臣、住江朝臣、池原朝臣、車持公、垂水公、田辺史、佐自努公、佐代公、珍県主、登美首、茨木造、大網公、桑原公、川合公、垂水史、商長首、吉弥候部、広来津公、止美連、村挙首、下養公、韓矢田部造などの諸氏族の祖と伝えられる。
佐味君は、以下の二つの地図を見比べると、現在の玉村村、高崎市南東部の付近を担っていたと考えられる。
現代に残る「佐味」
・奈良県磯城郡田原本町佐味
・奈良県御所市東佐味 西佐味
・奈良県御所市鴨神 佐味(さび)城
・石川県七尾市佐味町
・滋賀県伊香郡高月町柏原47 佐味神社
式内社の佐味神社は、余呉町と高月町の当社の
二カ所ある。当社は今でも藤の宮と呼ばれてお
り、佐味神社を名乗ったのは明治五年のことと
言う。 祭神の豊城入彦命は近江国人志賀忌寸
の祖にあたり、佐味朝臣が祀ったとされる。
境内周辺に佐味田、佐味屋敷と言う地名が残っ
ているが、佐味氏が居住した記録は見あたらな
いようだ。『近江伊香郡志』によると「創建は
光仁天皇宝亀年中(770~781)、佐味朝臣が垂仁
天皇の皇子の豊城入彦命を祀る。」と書いてあ
るそうだ。
・滋賀県長浜市余呉町今市339 佐味神社
・富山県下新川郡朝日町沼保325 佐味神社
・(参考)「佐味」さん:全国に44件。石川県七尾市
に11件、奈良県大和高田市に4件、東大阪市に
3件。
古代の佐味
・西大寺領佐味荘 新潟県上越市吉川区赤沢
柿崎川とそこに合流する小河川の河口部に位置する港町。中世、関東と越後府内を結ぶ街道の宿場町として栄えるとともに、河川水運によって西方の潟湖水運につながり、荘園・佐味荘の倉敷地・外港でもあった。
正中二年(1325)、 御家人・大見資家が「佐味荘柿崎宿うわミせ」以下の所領を資宗に譲ったことが史料にみえ、鎌倉後期、柿崎には「宿」が形成され、そこに各地から商人が集まり「うわミせ」(上店棚)が並んでいたことが分かる。発掘調査でも鎌倉期から室町初期にかけての建物や井戸の遺構が確認されており、柿崎には町場在家が発達していたことが窺える。
また木崎山遺跡からは「佐巳」と墨書された土器が出土しており、柿崎が佐味荘の倉敷地として機能していたという推定もある。遺跡からは他にも珠洲焼や古瀬戸、越前焼、宋・明代の磁器、大量の宋銭、明銭などが出土しており、逆に日本海を通じて様々な物資が柿崎に運ばれていたものとみられる。
永禄四年(1561)三月、柿崎の問屋に出された制札では、「関東・海道往復の輩」として「猿楽ならびに桂斗荷物の事」を挙げ、猿楽師や「桂斗」(遊女?)らが公儀の御用と称して伝馬・旅送を命じても朱印状のないものに対しては応じなくてよいことが示されている。戦国期においても柿崎は関東への街道、及び日本海航路の要衝として多くの様々な人々が往来していたのであり、柿崎の問もまたその中で物資輸送に携わっていたことがうかがえる。
・西大寺領佐味荘 富山県下新川郡朝日町
・越前の佐味氏
733 丹生郡領は佐味浪麻呂であった。
佐味一族は越前丹生(にゅう)郡や足羽(あすわ)郡の出身で、天武朝に一族とともに朝臣姓を賜っていた。佐味氏の中の丹生氏はいわゆる工業民で初期の水銀鉱発掘と朱砂生成に関係する氏で、古墳での葬送儀礼の特殊な祭りに参加する人々で、朱色を扱った土師氏と部分的に重なりがあるという考え方もある。佐味はサビに通じ、彼らは製鉄にも関係すると言われている。大和にも漢係渡来人である豪族佐味村主がいる。先に述べた毛野氏との関係はわからないが漢氏が百済系であるからやはり毛野氏と同系とかもしれない。
丹生は、群馬県富岡市にも残る地名である。
長井とは、臣籍降下により賜姓により生まれた名字のひとつ
今の世の中にも通じることだが、天皇が二人の男の子を作れば一人は皇太子となって天皇を継ぐが、一人は宮家を起こす。そして、次の世代にも同じように男の子が二人出来れば、宮家は三つに増える。昔は、早死にする人も多かった代わりに、子供の出来る数も多かったので、このように何代も続くと宮家(当時で言う皇親)は膨大な数になった。そのために行われたのが臣籍降下である。その際に新しい名字を与えるのを賜姓と言う。
この賜姓として、三園・近江・晴海・志賀・浄原(きよはら)・長井・長谷・山科などの15種類の姓が使われたそうだ。
延暦24年(805)2月15日 船木王[左京人]長井眞人(『日本後紀』延暦廿四年二月乙卯)
様々な可能性
豊城入彦命の東国派遣は、記紀を信じれば、3世紀のこととなる。
前々回に、北陸道への大和政権の派遣について、
・10代崇神朝の大彦命(おおひこのみこと)。大彦命は会津までは遠征したことになっている。
・13代景行朝の武内宿禰(たけしのうちすくね)。武内宿禰は、大彦命の弟の孫。何百年も生きて朝廷に仕えた。北陸道を
遠征したことになっている。
・13代景行朝の吉備武彦(きびのたけひこ)。日本武尊が関東方面、吉備が越方面と分かれたが、美濃で合流しているので、
わが田舎辺りまでは行き着かなかった可能性が高い。
が記紀での記載事項と紹介した。
※現在の富山県には、大彦命の末裔氏族に連なる姓がたくさん残っている。
※現在の富山県には、武内宿禰の末裔氏族に連なる姓も多く残っている。
※現在の富山県に残る、豊城入彦命の末裔氏族に連なるのは、黒部川以東、すなわち下新川郡に集中している。
右図は、豊城入彦命を祀る神社の分布(黒丸)、
「佐味」の分布(十字印)、長井の分布を重ねて書い
てみたものである。
豊城入彦命勢の「東国派遣ルート」はどうだったの
だろう。
①河内→近江→(中山道)→毛の国
②河内→近江→越→(信濃)→毛の国
という二つのルートが想定される。
また、
③毛の国から、大和に呼び戻されたり、他国に
派遣されたりした後世ケース
さらに、もともと論として、
④東国に「派遣」されたのではなく、毛の国の大豪
族を大和政権の系図に入れたなどの可能性も否
定できない。
④についてもう少し突っ込んでみる。赤城神社は、赤城山の麓で利根川と渡良瀬川に挟まれた地域にたくさん分布している(http://magnoliachizu.blogspot.jp/2014/03/6.html?view=timeslide)。関東を中心に全国で300社ほどある。同様に、飯玉神社が、佐味地域に数多く分布している。これらは、大和政権が到来する前に崇められていた土地神と考えるのが妥当だろう。豊城入彦命一行は各地の土地神を支援し、水田耕作を含む諸技術も伝え、先着の人たちと宥和していったものだろう。前記の多くの由緒がそれを物語っている。ということで、④は捨てがたいが、もともと栄えていた「毛の国」に宥和的な皇族が来たとしておこう。
「東国派遣」に絞って考えてみよう。
①のルートが最短だが、美濃、信濃に一切の形跡がないのも不思議である。①のルートの開拓は遅れ、景行朝の日本武尊時代まで未踏ルートだったのではないか。諏訪地方の平定に手間取ったとも言える。
②のルートは、大彦命のルートと重なる。開拓ルートを辿るのが実質的に最短とも言える。東海ルートは、どうも毛の国は通らなかったようなので、そうなると②のルートが有力である。
大彦命が開拓したルートを辿った際に、なんらかの痕跡を残したとも言える。水田耕作も伝えたとすると開墾した水田とそこに定住させた人々も痕跡以上のものとなる。ところが、各神社の縁起などを注意深く読むと、奈良、近江の北側、伊勢、北陸、常陸などは、後世ケースに属するとみた方が無難な気がする。これは「舞い戻って」きたとも言えるし、全く新しく到来したともいえる。
日本の古代道路は、7世紀に整備され、646年に「駅伝制」が制定されている。駅となる、越中佐味、越後佐味は遅くとも古墳時代に入植しており(いずれも古墳がある)、この時点では既にその母体となるものは存在していたと考えられる。
そして、ひとつの結論
このような勝手な考察のひとつの結論は、以下のようになる。
○3世紀:豊城入彦命一行は、大彦命開拓の北陸ルートを利用して、毛の国に入り、宥和政策を展開した。
○4世紀以降:それが大成功したので、全国制覇の要所に「ノウハウ」を波及させようとした。その一連策として、佐味一族
が中央に召喚されたり、北陸に派遣されたりした。
○その一部は中央政権にも認められたり、政権争いに直接関与したりし、それぞれ成功、失敗があった。
○越中、越後への佐味一族の入植は、古墳時代に既にあり、その一族のある同系集団が、後に「長井」の姓を使うように
なった。
●何世紀にもわたって、遠隔地と情報交換、情報共有する仕組みがあったということになる。
高崎、柿崎、笹川のつながりが、何世紀も受け継がれた仕組みがあることになる。
こうやって、越中・越後国境が決められた後、702年に中央政権の正統的象徴であった八幡社が創建されます。この頃、佐味
駅も設置され、明確に中央政権の制度的支配下に入り、その要衝と位置付けられるようになります。
田舎の2000年歴史ロマン⑤ 毛の国の豊城入彦命 終
サイト掲載日:2015年4月26日
執筆者:長井 寿
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