田舎の2000年歴史ロマン34 柳下善一著「泊の地形が面白い」に触発された (番外編)

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
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田舎の2000年歴史ロマン34

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柳下善一著「泊の地形が面白い」に触発された(番外編)

いつか書こうと思っていたが、泊移転と関係する時期なのでここで挿入しました。

「奥の細道」で、芭蕉、曾良は、どの道筋を通ったか?



 西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、松尾芭蕉は門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った。曾良の旅日記に行程等がメモされているが、芭蕉の文章は基本、創作と見た方がよい。というか、そういう創造性の高い文学者だと私は高く尊敬している。
 ところが、文学作品として「奥の細道」に接するだけでは済まない点がある。芭蕉と曾良は間違いなく田舎を通り過ぎたのだ。では、どのルートを辿ったかという全く異質な興味が湧いてくる。
 実は、弁慶と義経一行も田舎を通り過ぎたという話もある。脇子八幡社には、弁慶の足跡という石が残されている。脇子八幡社はその時どこにあったのか?
 脇子八幡は、702年に城山山頂付近に建立され、義仲時代に多分改築し、天正年間(1573-1592)に元屋敷和倉(泊)に移り、享保2年(1717)の高波で大被害を受け、泊ともども移設し、1720年に現在地(泊1156番地)に移ったとされている。義経の平泉への都落ちは1186年から1187年ということなので、もし脇子八幡社に立ち寄ったとすると城山山頂を通ったことになる。しかし、人気者に相応しく都落ちルートには諸説あり、定かではない。
 それに比べると、芭蕉通過は極めて確実だ。それでは、発句と共に、越後、出雲崎から始めよう。



芭蕉は虚構創作の大名人

 出雲崎では、「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と謳い、写実的な美しさが読まれているなどとの解説があるが、文学的ではない私には、この情景が現実のものとは思えない。
 曾良によると、その日(旧暦七月)、朝は快晴だったが、出雲崎に宿をとった夜半は強雨で朝まで降り続いたとある。前々日の新潟、前日の弥彦での宿では夜は良く晴れていたようだ。もし、この時期に天の川を天空に観れば素晴らしい情景だったろう。夜には当然、佐渡は見えないが、昼、見通しが良ければ佐渡を眺めることもできただろう。そして、この時期の日本海は一年で最も静かで、荒海に出逢うことはまずない。荒海とは日本海では冬の情景である。
 このようなことをあげつらって評すると、出雲崎では、冬になると荒海だという日本海は見たことないが、昨日の昼間、静かな海で沖にある佐渡を見たが、昨晩には壮大な天の川が佐渡にわたるように天空を覆っているのを見た・・・を繋げて、「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と読んだ、ということになる。
 このように芭蕉の句には、実際には目に見えていないものをあたかも見えるような構図(創造的虚構)を作り上げる凄さがある。
 いつだったか、宮沢賢治記念館に立ち寄った時に、書棚から井上ひさしの単行本を引っ張り出して開いたら、そこに井上ひさし直筆の葉書が挟んであった。いわく、「日本には三人のクリエーティブな人物がいる。芭蕉、藤村、賢治」と記してあったような記憶がある。思わず納得したものだ。
 芭蕉の句をくさす気は一切ないが、これを単純に写実的と評するのは止めてもらいたいものだ。



田舎辺りで詠んだ二句

 この句に継いで、「奥の細道」に載ったのは、


「一家に遊女もねたり萩と月」
「わせの香や分入右は有磯海」


であり、前者は越後、市振で、後者は越中で、となっており、なんとわが田舎にも芭蕉の句碑が立っている。当然、ここで詠んだと書いてあるのだ。
 以下にもあるように、二人は間違いなく1689年にわが田舎を通った。まずは、本文をそのまま眺めていただこう。


【曾良】十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。


【芭蕉】今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。


一家に遊女もねたり萩と月

(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)


曾良にかたれば、書とヾめ侍る。


【曾良】十三日 市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ 堺、川有。渡テ越中ノ方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ到テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴。申ノ下尅、滑河ニ着。暑気甚シ。


十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不快同然。


【芭蕉】くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かヾの国に入 。


わせの香や分入右は有磯海

(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)



道筋をたどる

1)糸魚川から市振まで(12日市振泊)
 市振の遊女話は臨場感があるがまずは創作だろう。人情、旅情をかきたてる常套手段ではないか。尋ねてみれば市振がとても小さな集落だとわかるはずだ。親不知に近いが、地形的には全く違う。この句のお蔭で、人気は全国区になっている。静かな風情があり、親しみが湧く街だ。
 糸魚川から市振までは、海岸伝いに親不知を通ったと芭蕉は書いている。曾良は特に親不知には触れていない。海岸伝いの経路でなかったら、市振までは山越えの山道を通るので、なんらかの記載があってしかるべきと思われる。海の静かな時期なので、まずは問題なかったのだろう。海岸浸食が進んでいる今日では、海岸伝いはあり得ない。若い時分には、芭蕉にあやかり海外伝いに挑戦した話を聴いた覚えが残る。


2)市振から泊まで
 市振を発って、玉ノ木を過ぎて、境川を渡り、関所で手形改めをして、・・・、泊に着いている。曾良はこの行程を少し詳しく書いているが、境は当然として、意外に思うことは、玉ノ木は記したが宮崎を記していないことだ。玉ノ木はとても小さい集落で境や宮崎の比ではなかったと思う。海岸伝いに泊に向かい、宮崎の街区に入らなかったのだろうか。
 江戸後半には、海岸伝いの街道は一時「閉鎖」状態になり、城山を経由する迂回路が開かれていた。もし、芭蕉らもこの迂回路を通ったとすると、わが田舎の句碑が建っている場所は、正に「山道から出てきて、両脇が田んぼになったと思ったら、右手に有磯海が広がっている」という情景にぴったりとなる。その地は泊(移転前)の目前である。どういう経緯でその地に句碑が建っているのかよく知らないが、ちょっとだけ街道筋から離れたところに句碑が建っている。朝日町のホームページには、1818年に建立したことの経緯が書いてある。 (http://www.town.asahi.toyama.jp/kankojouhou/shiseki/1450750201351.html)


3)泊から高岡まで(13日滑川泊、14日高岡泊)
 泊で一休みしたのか、越中の名所を尋ねている。各地の弟子や名士などのところに立ち寄った行脚でもあったことが、糸魚川で「左五左衛門」のところに立ち寄り、越前の大聖寺の「ソセツ」への言伝を頼まれていることからも分かる。しかし、越中では一切そのようなことは記されていない。
 泊から入善、四十八瀬(黒部川)を越えているということは、下街道を通ったことが明白である。曾良が「雨が続くと山の方(上街道のこと)」と書いていることからもあきらかである。滑川に泊まり、岩瀬を通って、富山に立ち寄らず、氷見に行こうと思ったが止めて、高岡に向かったらしい。その理由は芭蕉が「泊めてくれる宿がないと脅された」ためと書いているが、これも脚色のように思う。
 芭蕉はここに「わせの香」の句を置いた。それがこの句を詠んだ地が岩瀬浜を離れる辺りという有力な根拠になっている。確かに海岸線を離れて内陸に入れば水田地帯に入るのだろうが、どうも「わけいる右は有磯海」の実感が伴わない。「わけいる背には有磯海」というべきではないか。
 まあしかしどこで詠んだかは本質論ではないだろう。全体感からすると、越後から越中に入ったら、行く手の左は水田が広がっている、右には青い海が広がっている、このコントラストが素敵だ、という句になっているのではないか、というのが「妥協点」となっている。また実際に詠んだ句は数えきれないはずだ。「奥の細道」の編集上、ここにはこの句を入れるのが最も良い、と芭蕉が決めただけとも言える。ドキュメンタリーでは所詮ないのだ。文学創作作品なのだ。
 とは言いつつ、未練がましく、郷土愛もあるのかもしれないが、あそこ(句碑のあるところ)で詠めばぴったりだという現場感は拭い去れない。



確かな結論


芭蕉は移転前の泊で一休みして、下街道を進んだ。


この項終わり。

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サイト掲載日:2016年11月21日
執筆者:長井 寿
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