田舎の2000年歴史ロマン33 柳下善一著「泊の地形が面白い」に触発された 黒部川扇状地の推移(その3)

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン33

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柳下善一著「泊の地形が面白い」に触発された
黒部川扇状地の推移(その3)


人が棲みはじめる

図5 朝日町の史跡分布と地形

 図5上は、朝日町における史蹟の分布図である。この中には武家時代の城跡も入っているが、ほとんどは縄文期を中心とした史蹟である。注意しなくてならないのは、リストアップしてあるものは発掘調査されたもののみであり、掘ってみればもっとでるだろうと地元の人たちは内心思っている。
 まずは宮崎海岸に分布しているのは、玉造に関係する史蹟であり、ここに多くの人為があったことがうかがえる。この密度高い分布が、私が、少なくとも縄文から古墳時代にかけての経済の中心地はここにあった思う根拠となっている。
 縄文期の居住地などは、平地と小高い山地の両方に分布している。山地には城跡の分布も示してあるのでその詳細を述べるべきだが、我慢していただこう。ただ、平地での分布を下の地形図と重ねてみると、段丘上にたくさん見られることが分かるはずだ。しかも、舟川と山合川の間の分布が顕著であり、ここが現在でも遺跡が再現されているところに相当する。
 扇状地の下流側では、木流川とその西隣の旧河川道の間に、住居地が海岸べりまで点在していることが分かる。この地帯の東側(=沼地)と西側(=おそらく氾濫原)は避けられているように見える。すなわち、ここまで考察してきたように、小川河川道以外の河川道が枯れた後では、この地帯が居住地としては安定していたことを想起させる。



水田耕作の経緯を考えてみる

 既に述べてきたが、「沼保」は湿地帯、沼地を水田開墾した場所を指す地名だと考えている。私は、佐味一族(大村一族を想定)が横尾川などの湧水を水源として、木流川の東側に谷内田から棚田を開墾したのが始まりで、徐々に低地、下流側に広げていったものと思われる。低地側は比較的森林発達が希薄で開墾しやすかったのではないか。これが現在の沼保にほぼ相当し、中心は佐味神社だったと思う。大村一族は木流川東岸の地帯に散在して住んでいる。これらから推測すると、私は木流川を生活用水として使ったが、当初は水田の水源としては利用しなかったと思う。後世、おそらく江戸時代になって

図6 1700年頃の「泊」辺りの図

用水を発達させて水田を広げていったものと考える。
 江戸時代になって、「沼保」につながる広大な低湿地平地の水田化が始まった。これには特に用水建設の大規模土木工事が必要となる。
 今回柳下氏の論考で、移設以前の「泊」の姿が初めて証拠でもって理解することができた。私は、今まで図6の上のように、泊の位置はほぼ想定できても、大きさ、形に関する具体的な情報を持ち合わせていなかった。今回教えていただいた大きさ、形で、図6の下に書き改めた。
 文書ではほぼ同形のまま移設したという趣旨のことが書かれているが、私が内心極めて違和感を持っていたのは住民の大半が農民だったことだ。一体この農民たちがどこを耕作していたのかの現実感が掴めなかった。今回合点がいった。主に木流川東側の新開拓地を耕作していたと確信するようになった。
 さて、集落の形を見るとこれは街道町である。すなわち、道の両側もしくは片側に家作が連続して並び、家の裏が耕作地に直結している。何が言いたいかというと、まず街道があってそこに人々が棲みつきながら水田開墾、耕作を進めたということだ。まず道があったということが大事になる。おそらく越中上街道をショートカットする海沿いの越中下街道が黒部川扇状地の開墾の進展と相まって徐々に発達し、上下街道が合流する場所に店や宿ができ始めたのが、和倉浦から「泊」への移動と集落構成の変化ではなかったか。すなわち「泊」は江戸時代に生まれ、発達したことになる。
 しかし海外浸食が進み、引っ越しを余儀なくされた。この引っ越しが、いっそう「泊」の重要性を高めその発展を促進していった。ここで、朝日町の経済中心は完全に宮崎から移っていったことになる。



泊移転前の原風景が面白い

 大きな集落の移転は、以前にも述べたように
街道筋の付け替えと言う大規模工事を伴った。ということは周辺の集落へも多大な影響を与えたはずである。
 比較的殺風景というか散村集落を基本とした原風景の中に、主街道が開き、その道筋に家作が作られ、さらに水田開墾地が広がっていき、新しい人口が増えていく。それが江戸時代の風景の変遷だろう。
 そうすると泊移転前の原風景がどうだったのかを想像してみる楽しさが残る。その想像を支えるのが地形となるはずだ。柳下氏が示した小字の名前、形、大きななどがその考察のもうひとつのきっかけになるだろう。
 またそこに棲みついてきた一党の苗字も手掛かりのひとつだ。繰り返しになるが、定住するのは農民か漁民だ。武家、商家は必ずしも定住する必要はない。定住する手取り早い選択は、農民か漁民に転じることだ。もしくは先祖返りすることだ。武家、商家では家族を増やす点で農民の繁殖意欲にはかなわない。(本稿終わり, 次回番外編に続く)

田舎の2000年歴史ロマン33 柳下善一著「泊の地形が面白い」に触発された 黒部川扇状地の推移(その3) 終
サイト掲載日:2016年11月13日
執筆者:長井 寿
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