田舎の2000年歴史ロマン32 柳下善一著「泊の地形が面白い」に触発された 黒部川扇状地の推移(その2)

田舎の2000年歴史ロマン subtitle画像 田舎の2000年歴史ロマン title画像

※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン32

※全ての図表は左クリック"1回"で拡大表示します。
表示された画像を拡大・縮小操作した場合には左クリック"2回"で、そのままの場合は左クリック"1回"で閉じます。

柳下善一著「泊の地形が面白い」に触発された
黒部川扇状地の推移(その2)


小川の河道の変化

図2 小川地域の拡大図

 前回の図1を眺めていたらさらに一つの妄想が浮かんだ。
 黒部川も小川も縦ずれ断層発生以前にも当然、扇状地の浸食を続けていた。現在の小川の流域内でも複数の河川筋があって、図1のように三本程度が措定されている。古黒部川扇状地においてこれらは黒部川の河川筋の一部だったのだろうか。750万年前頃には海面が現在の海抜30m辺りだったとすると、三本程度の河川筋はその時点ではまだ無かったことになる。その時点では小川が関係する扇状地面積は小さいので、そこでの小川起因の河川筋は未発達だったが何本かはあったと想定するのが妥当である。
 図に描いた三本の源流、すなわち、小川源流に繋がる上流側の川筋はあったはずである。その時点では、三本に優劣はなかった(深さ、広さも同等という意味)。その後の隆起、海面変化で、現在の扇状地が海面上に現れた。それにつれて、三本の源流はさらに海側に徐々に延伸していったことだろう。
 だが、東側の二本の河川道の上流部は措定されない状態となっている。これについては、柳下氏の「土石流で埋まった」という考え方が最も合理的だと思う。土石流については、その発生時期と発生場所を考えておく必要がある。発生時期については、扇状地がほぼ今のような状態になってからでないと、下流が措定されていることを説明できない。しかし、人々が住み始めてからではないと思われる。人が住み始めてからだと、十中八九、土石流にちなんだ地名が残っている。我が笹川には、「蛇喰(“じゃばみ”、なまって“じゃばむ”となっている)」という地名があり、これは明確に土石流の跡地を指している。他の名前で残っていることもあるが、そのような地名はこの一帯にはないように思われる。東側の山地は今でも地すべり要警戒地帯である。ある時に、結構大規模な山すべりがあり、河川道も埋まった可能性がある。それで、二つの河川への小川源流の流入が途絶えたのではないか。
 その後に、縄文人が住みつく時代がやってきたと想像する。



富山平野の沿岸の出入りと縄文人の居住地の推移

図3 藤井による最も海進が進んだ時代の射水平野のイメージ

 ところで扇状地での堆積は「洪水」なしにはありえない。今で言えは、土石流、氾濫が繰り返し起こったことを意味する。そのことを勘案すると、棲みついた縄文人はそのような河道の一帯に住居を作るのは避けたと考えるのが合理的だ。図2で言えば河道が安定するまでは段丘地帯に住んだことになる。段丘地帯の森林は、黒部川の氾濫の影響も少なく豊かだったのだろう。
 朝日町では図2の黄色の部分が縄文遺跡の密集地と重なる。ここまでの考察の結果からすると一番安心な場所だったということは明白だ。氾濫原にある河川道はより安定化していく。すなわち浸食の進行と共により低地に移行していったのだろう。


 2万年前はマイナス120m、1万年前にマイナス40mの高さに海面があったということになる。そうなるとその時代には、扇状地は台地で海岸に切り立った崖があり河川が滝のように流れ落ちていた光景が広がってことになる。この地帯では現在の海面下40m地点にかつて森林地帯があったことがほぼ明確になっている。その後、6000年前には、海面は今より5-6m高かった。すなわち、1万年前にマイナス40m地帯まで広がっていた森林は、6000年前には、プラス5-6mまで水没していた(図3)。その頃、縄文人はプラス5-8mより高い砂礫段丘帯に棲みついていた。徐々に海面は低下したが、水没したところには泥炭層が形成されたり湿地帯が残ったりした。一方、砂州などの新しい陸地が生まれるとそこに縄文人は移り住んでいった。この縄文人達は海人系と言うべきだろう。段丘地帯では狩猟・採集系が残っていくことになる。


 図3と同じことが朝日町辺りではどのように起こったかを図4を元に考えてみよう。
 まず、元来の海岸線はもっと広かったということを思い出してほしい。水色部分が海抜プラス6mである。ここまでかつて水没していたことになる。それが陸地化したが、ここに湿地帯、沼地が広がっていたことになる。江戸時代の初めころは、海岸が今よりも100mほど海側にあったと言われている。ということは、湿地帯、沼地がかなり幅広に広がっていたことになる。当時の「沼保」のつながりはもっと広かったのではないかと思い当った。水があれば水田を作るのに適した土地が広がっていたことになる。その際の水源としては、水量の多い河川であればその河川敷の平たい土地でよいが、河川敷がないなら沼地に流れる小河川がある平たい土地が利用しやすい。そのように見ると、三つの河川道の辺りよりは、「沼保」つながりの沼地の方が有利である。確かに、山地から供給される水源や湧水を水源だった小河川(黄色で表現)が「沼保」辺りには発達していたと読める。



木流川東側の「沼保」の原形

 柳下氏は、木流川の屈曲に触れているが、その屈曲の成因については特に触れていない。図4の元来の木流川の河川道を見るとそこには屈曲がない。山地などから供給される湧水を集めた小川が木流川に注ぎ込み、それが今の木流川になってその合流点が屈曲を作ったことがよく分かる。つまり以前は支流だったものがその合流点から上流の主流に水がながれなくなったため、支流が本流の一部になったということだ。
 より細かく小河川を拾っていくと、西側にもいくつも水路を見つけることができる。しかし、それらの上流を辿っても、人間が作った用水以外はその源流は小川には行き着かない。湧水を集めて水路を形成しているように思われる。これは扇状地特有の現象と言えるのかもしれない。すなわち、低地では水源確保が比較的容易である。
 赤川、東草野、大屋など木流川と小川の間の集落は海人系起源、すなわち、漁師さん達である。木流川以東の沼地は特異的に早くから稲作系の対象となったのではないか。
 私の想定では、この稲作系の人たちは谷内田開墾技術に長けて、わずかな水源を活かし棚田を広げ、山裾までを水田化するのが得意だった。「沼保」は地形的に谷内田の延長ともみなさせる格好の土地だったのではないか。(続く)


図4 朝日町付近の等高線,河川道,小河川跡など

田舎の2000年歴史ロマン32 柳下善一著「泊の地形が面白い」に触発された 黒部川扇状地の推移(その2) 終
サイト掲載日:2016年11月6日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明