※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
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田舎の2000年歴史ロマン30
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渓谷の村 笹川の獅子舞 その2
折角なので、前回紹介の小冊子に書かれているコンテンツで、重要な事実と筆者が感じた点を箇条書き的に紹介し、備忘録としたい。
○春祭りの祭礼日
当初は3月12日だったものが、4月15日に移された。
3月12日は、正八幡社の例祭日と目される。
○夏祭りの祭礼日
8月27日は、諏訪大社の御射山祭の例祭日に当る。
○獅子舞は二部構成
・「悪魔払い」と「天舞」の二部構成
・「悪魔払い」は<獅子><獅子>のみの舞。<獅子>はヘイ(弊紙のことだろう)と呼ばれる白紙短冊を束ねたものを持ち、
これを刀で切りながら、舞場を回る。
・実は、<尾持>という<獅子>の尻尾を担ぎ、獅子を助けている役が<獅子>に付き添う
・「天舞」は、<獅子>と<天狗>のやり取り
・<獅子>も<天狗>も刀一本を持っている。また手には鈴をつけている。獅子は獅子頭を、天狗は天狗面を被っている。
○シナリオ
1) 神輿の渡御 荒々しく登場する
2) 神の御霊呼び(笛、太鼓)
3) 悪魔払いの舞
4) 天狗の呼せ笛 (悪魔を払ったのに悪魔の象徴の天狗を呼ぶのは面白い)
5) 天狗の登場 (天狗は獅子を全身全霊で探す種々の仕草を見せ、場の雰囲気を盛り上げる)
6) 天舞
・天狗が獅子の前面に躍り出て、自分の存在を気づかせる
・獅子は、手振り足振りで、天狗を慰撫するように、ゆったりと舞う。獅子は常に手のひらを下に、天狗は常に上に
する。これは、前者が全能神、後者が祟り神を表しているとも言う。
・天狗が獅子に様々なちょっかいを仕掛ける(鼻汁-獅子の顎下から突き上げる-、ヘイをかます-背からぶつかる-)。
これは水害、風害を意味しているとも言う。
・刃傷沙汰:お互いの腰刀を抜いて、二回、刀同士をぶつけ合い、舞は終わる。
7) 神送り ゆったりと静かに消えていく
○獅子舞の原型
・神が獅子の姿を借りて悪魔を払う「東北系」。平安末期に山伏が北陸一帯に広めた芸能神事の傾向と異なる。
○家紋など
・竹内家は、橘紋。さらに別流と言われる桔梗紋もある。竹内家は朝廷に仕えた橘家に繋がり、元来諏訪社を祀っていた
が、木曽義仲来訪でそれが顕著になったのではないかとの説がこの冊子に書かれている。だが、現在の諏訪社は、竹内家
のテリトリー外にあるので、いわゆる「裏向き」をまとめた地神という考え方には無理がある。最も単純な違和感は、諏訪
社は出雲系のものであり、朝廷の末裔だとすると大きな矛盾が生じる。また、諏訪社はご神体を磐座とする変則系で、天
皇系に通じる社のご神体はご先祖であり、自然物ではありえない。当地の諏訪社のご神体も一応諏訪山という磐座になっ
ている。蛇足だが、1183年に建立と言う諏訪社はおそらく数ある諏訪社の中では最も若い部類の神社ではないだろうか。
すなわち、本冊子で試みられている起源説は、矛盾に満ちている。
・長井家は、丸に剣酢漿草。正八幡を祀ったとされる。八幡が当地に最初に来たのは、8世紀初頭でその系列は、脇子八幡
に継承されている。わざわざ八幡を持ってきたのは、北陸宮周辺の人たちだろうと思われる。正八幡社があったのも北陸
宮在住の三郎館の周辺である。この正八幡社の守護役は、おそらく清左衛門(屋号、長井姓)ではなかったか。また、丸に
剣酢漿草は宮崎(境、別符)三郎の家紋だった伝えられる。その三郎が長井宗家に迎えられ、「宗三郎」家が始まったのでは
ないかと筆者も思うようになっている。長井宗家については、この冊子ではまた、都にあって左衛門尉だったが、当地に
流れつき、左殿(さどの?)と呼ばれ、背後をサドの谷とした云々の起源説を言っている。田舎の訛りからすると、「さどの
たに」は「さどんたん」となるはずだ。現在の漢字表記は「佐渡谷(さどたに)」だが、呼びは「さたたん」である。「さどたに」は
訛ると「さどたん」になるはずだ。このように文字面を合わせた朝廷起源説にはうんざりする。さらに、正八幡社が、いわ
ゆる「裏向き」にあり、それが「中向き」の人たちの精神的中心となったという話にも大きな違和感が生じる。
・折谷家は、木瓜紋。「折谷氏の始原は正に笹川の歴史の始まり」というこの冊子の説には頷く。三社の中で、純粋に自然神
を祀ったのは折谷系のみとなっている。当地の自然とのかかわりで議論できるし、周囲の集落との関係でも考えやすいの
で、起源や原型を考えやすい。
諏訪、八幡はいずれも征服者の側のものであり、土着した民衆にとっては、神に接する単なる場所=聖地と言う意味でしかなかったのではないか。筆者は、竹内、長井も元来は、今は脇子八幡に合祀されている、佐味神(=豊城入彦命)を祖先神として一緒に崇めていたのではないかと想像している。それが崩れたのが、諏訪や正八幡が征服者とともやってきた1183年辺りだったのだろうが、それでも祖先が祀ってある常福寺古墳はそれでもしばらく信仰の対象として継承されていた(=才の神)のではないかと想定している。
このような思いに立つと、笹川の民は、反抗する天狗が好きで、獅子はやってきた征服者を内心であざ笑うには格好の聖人のような存在とも言える。笹川の民の多くは獅子に利用された弱者だが、機転も利き、フィジカルにも敏捷で、征服者を恐れず、付き合う、という地元魂を天狗に、代弁させているような気がする。決して権威には逆らわないが、自立心と自尊心を潜め、自主の精神を育んできたのではないだろうか。
(本稿終わり)
田舎の2000年歴史ロマン30 渓谷の村 笹川の獅子舞 その2 終
サイト掲載日:2016年10月9日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明