田舎の2000年歴史ロマン③ 道のはじまり(2)

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン③

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道のはじまり(2)


    

 前回は、縄文遺跡の上にある町、朝日町。ヒスイ加工品など(この詳細はさらに紹介する機会があろう)を通じて、おそらく縄文時代の全国的な交流の中心地域のひとつとなっていただろうことを述べた。
 さて、この全国物流ネットワークはこの後どう変わっていくのか?それに田舎がどう巻き込まれていくのか?


 弥生時代 BC400年頃から250年頃
 古墳時代 250年頃から700年頃

弥生時代から古墳時代へのスケッチ(予備的理解として)

 縄文時代末期には、人口は最盛期の1/3以下となったと推測されている。これは戸籍の無い時代なので、それに代わって遺跡での集落の大きさと数から計算されている。いわば戸籍的推測と言ってよい。しかし、今後、さらに遺跡が発掘されると数字が変わってくる可能性もある。ただ、この時期、日本列島は寒冷化したのはほぼ間違いなく、増えた人口に見合う食料調達が困難を極めただろうから、人口減は確からしい。
 本格的稲作は大陸から北九州へ水田耕作に基づく生活様式としてBC450頃に伝わり、その後、100年ほどかけて本州北端まで、200年かけて中央高地まで広まったとされている。中央高地への伝播には品種改良がなされたと言われている。稲作は単に技術として導入されたというよりも、人々の海外からの移住という面も持って、渡来人およびその末裔とともに伝来したものと考えられている。
 水田を作った人々は、弥生式土器を作ったが、石器を鉄器、青銅器へと置き換えて行った。木器も使った。多くの場合は竪穴式住居にすみ、倉庫を持ち食料の備蓄ができるようになった。
 水田耕作は食料増産効果によって集団の大型化をもたらしたが、水田耕作のさらなる拡大のための土木労働の大型化を狙い、族長を中心とする集団のさらなる大型化が生じたとされる。


 ※当時の水田開削は、平地での展開はごく稀で、主にいわゆる「谷内田」が中心だったと言われている。この点、多くの日本人は別のイメージを抱いているようだが、ちょっと違うようだ。「谷内田」である理屈は簡単だ。要するに水源をどう確保するかに尽きる。そして「耕して頂上に至る」工事は難しく、水源から「耕し下りて平地に尽きる」方が土木工事的に計画しやすいはずである。したがって「谷内田」開墾に軍配が上がる。確かに、バリ島の千枚田は日本の千枚田と全く同じ風景である。千枚田は傾斜地にしかできない。平地にはできない。
 平地開墾に不可欠なのは大規模水路の確保である。大規模な水路工事が容易になったのは、江戸時代以降(もしかすると戦国時代に土木技術が大きく発展したお蔭かもしれない)だそうである。


 やがて、クニが生まれ、1世紀中頃の「漢委奴國王」、3世紀前半には邪馬台国女王が中国の正史に登場するに至る。
 そこでは既に全国規模の覇権争いの戦端(必ずしも実力戦でなくてもよい)が開かれているはずである。ここで、覇権争いの勝者である大和政権がばらばらだった先住者達を一路勢力下において、支配息を拡大したのか?それ以外の勢力の全国的拡大もあったのか?という興味が生じる。古事記をありのままに読めば、大和政権に先住した支配勢力が地方地方にあったことがしらっと書かれている。進出を歓迎したものと進出に逆らったものの区別が明確だが、かなりの場合は、進出を歓迎している「異人」達が描かれている。その中でも出雲勢力の存在は無視できない。また、大和政権の「東征」ためにも何度も何度も各地方に「将軍」が派遣されている。
 北陸道へ遣わされたのは、記紀によると、
 ①10代崇神朝の大彦命(おおひこのみこと)。大彦命は、8代孝元帝の長男であり、弟が9代開化帝である。会津までは遠征したことになっているので、わが田舎辺りも通過した可能性が高い。
 ②13代景行朝の武内宿禰(たけしのうちすくね)。武内宿禰は、大彦命の弟の孫。何百年も生きて朝廷に仕えた。北陸道を遠征したことになっている。
 ③13代景行朝の吉備武彦(きびのたけひこ)。日本武尊が関東方面、吉備が越方面と分かれたが、美濃で合流しているので、わが田舎辺りまでは行き着かなかった可能性が高い。
 派遣された「将軍」が功なり名を遂げたと読めるにもかかわらず、いつのまにか「逆賊」になったり、「地方」に閉じ込められたりしていくケースが多いのも記紀の記述の特徴のように思える。大和政権による「くにつくり」記紀物語は、地方の豪族や配下の部族の中で、覇権拡大に功あったものを「後付」で皇族にしたり、巧はあっても最後は従わなかったものを「逆賊」に仕立てたりして、物語性を高めているような気もする。
 もしくは、大和政権の中軸(正統)は、勢力拡大の最前線で血を染めたことがない結果になっている。この点、自ら覇権争いの実力戦の戦端を切りひらいた、記紀編集の指揮者と目される天智天皇との対比も面白い。
 この時代の覇権は武力進出という側面だけでは語り切れない。たぶん実像は、水田耕作に適した土地を確保し、そこを開墾して、移住者たちを定住させたのが主目的ではなかったかと思われる。将軍たちが制覇したところに、その末裔と目される人たちが現在に至るも定住している。末裔とは、血縁を示さず、その土地の後継者達を指す。水田があれば食いつないでいける。水田では水に栄養価を運ばせれば「輪作」も可能になる誠に便利な「固定資産」である。


空白の弥生時代

 弥生時代の遺跡としては、姫川河口以西海岸でのヒスイ玉作り遺跡はみつかっていない。だが、海を隔てた佐渡に集団的な玉造遺跡が発見されている。古墳時代の初期のものとしては、福井県坂井町河和田遺跡・石川県加賀市片山津玉造遺跡などがある。しかし、これらの遺跡はヒスイ原石地からは離れているので、広域の流通、交易が続いていたことが分かる。
 だが、田舎周辺では、少なくとも1000年から1500年の「史実」空白期を間に持つこととなる。しかし、人が住まないところとなっていて、全国の動きと全く無関係になっていたとは考えにくく、全国的な現象が進行していたとするのが分かりやすい。ただ、縄文末期の人口減少による集落の縮小を経て、そこにいつかの時点で、水田技術を持つ集団が田舎周辺にも入植してきたに相違ない。


古墳時代中期(西暦500年頃)に「再登場」

 1964年に宮崎海岸で子供がヒスイの勾玉を発見したのをきっかけに調査が行われ 海岸付近の高台に「浜山玉つくり遺跡」が発見された。ヒスイの勾玉工房跡2基と、多量の玉類の完成品、未完成品、工具類が出土したことにより、日本で始めてヒスイの玉造りの存在が証明された大きな出来事だった。西暦500年辺りと想定されている。
 これが縄文期の玉造りおよびその関連技術が当地で継承されていたと思う一つの所以である。この玉造りが進出人の新しい技術によるものとは思われないからである。玉造り技術は基本、海洋性の定住民達による生活・経済活動と見なしたい。人口が増え、全国需要が復活したので大規模化したものと思う。


前方後円墳もある(今は円墳しか残っていない)

 境地区から大谷川を上流に登った高台の平地に「常福寺古墳」がある。現在は円墳跡しか残っておらず、従前は「常福寺」というお寺の鐘楼があったと言われる。ところが既に「常福寺」もない。この土地は古来「才の神(さいのかみ)」と言われるようになっており、ここから「佐味」一族首領の墳墓と解釈されている。その一つの根拠は、「才の神」に豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が祀られていた事実があり、この辺りが当時、「佐味」と言われていた史実があるからである。
 この族長は当時としては常識であるが、稲作技術のリーダーだったはずである。また、当地ではヒスイを初めとした交易の利益も独占していたのかもしれない、そうでないかもしれない。この族長のイメージをどう具体化するかが、このロマンの最も大事なカギとなる。
 現在の「道」からみるとルートから離れた高台になんでぽつんと古墳があるのだろうといういぶかしい気持ちになるはずだ。この怪をどう理解し、ひも解くかが、このロマンの展開の一番大きな鍵となる。すなわち、この辺りに当時のメインルートが通り、しかも豊かな水田が広がっていたというイメージが必要となる。しかし、豊城入彦命が北陸道に遣わされたという史実はない。
 古墳時代は3世紀半ば(西暦250年)過ぎから7世紀末頃(西暦700年)までの約400年間とされており、地方で作られた前方後円墳は、大和政権から派遣されたかもしくは従った豪族が築造を許されたもので、6世紀末頃までのものとされている。
 さて、前述のように、この二つの史蹟の首領が同一だったか全く違った人たちだったかにも大きな興味が湧くが、ここで、「古事記」の有名な話を登場させておく。


八千矛神による沼河比売への求婚

 古事記によると沼河比売は高志の主と目される。高志(こし)は、当然、越の旧名である。
 「続日本紀」には、律令施行時の大宝2年(702年)3月17日に、越中国の4郡(頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡)を分ち越後国に属するという記録があるそうだ。これが文献上の越中国の初見で、越中国は礪波郡・射水郡・婦負郡・新川郡の4郡で構成され、現在の富山県とほぼ同じくなる。これは多分、大和政権の「越の国」の範囲が、徐々に北上していくに従い、「越の国」の分割線を変更したのではないか。
 玉作り遺跡が分布する地方には、沼河比売を祀る奴奈川神社が分布している。すなわち、高志の沼河比売の勢力圏はこの範囲を主とし、比売は古代ヒスイを掌握した女王であったとみるべきだろう。というか、「沼河比売一族」は、ヒスイ加工業を掌握して、そこに棲みついていた人たちだろう。そこに出雲政権が勢力を拡大してきて、同盟を結ぶ、もしくは勢力下に入ったことになる。
 古墳時代末期から古代にかけては、島根県玉造温泉を代表とする出雲の玉作集団の存在が知られ、出雲国庁跡からも多量の原石や玉の未成品が祗石と共に出土している。  出雲勢力が大和政権の前に「越の国」に独自に勢力拡大したのか、大和政権の意向を受けて先乗りしたのかの議論があると聞いているが、私は、出雲勢力がそれなりの統一力を持ったものとして、大和政権前に出雲政権として存在していたと扱った方が様々なことを理解しやすいのではないかと考える。出雲政権は、戦よりも、調略、交易に優れていたような印象を持つ。また、交通手段は、陸路だけでなく海路技術にも長けていたのはほぼ間違いないだろう。大和政権側からしても、武力打倒するのではなく、この経済運営力を取り込むのが得策だったはずだ。記紀における両者の戦は極めてあっけなく、全面戦争は全くなかったことになっている。
 ただし、出雲政権の「越の国」進出の経路は、まず能登から入り、今の富山県、新潟県・・・となっており、大和政権派遣部隊の経路も全く同じである。もしかすると同じ話を二重にも幾重にも記紀は作り替えているのかもしれない。
 古事記の記述の三分の二が、出雲政権もしくは、スサノオノミコトとオオクニヌシ王の話である。大和政権が王権に就く正当性を述べるためにも、出雲政権の実力と成果を無視できなかったのではないか。
 八千矛神と沼河比売の一子に建御名方神がいて、この神が諏訪大社のご祭神というおまけまでつく。高志の沼河比売と縁続きの神が諏訪に根拠地をもっているのである。これも、出雲政権の勢力範囲が諏訪地方まで拡大していったということだろう。その感触をより高めるためには、「信仰」もしくは誰を神として祀っていたのかが鍵となってくる。
 沼河比売勢力がもともと海洋性の人々であり、出雲勢力も海洋技術に長けていたものと私は思っている。別の機会に紹介するつもりだが、沼河比売勢力と現在の大町地区(木崎湖がある)、諏訪地区(諏訪湖がある)の間には、ヒスイなどの加工技術だけでなく、漁業技術(舟、糸、網など)などでも共通性が認められ、塩などの通商なども常識的にあった。そこに、出雲勢力がまず勢力を拡大してきたのが、順序としては自然である。
 諏訪大社が建御名方神の到来によって初めて建立されたのかどうかという話もいろいろな研究があるようである。これも実は先住者達の神聖な土地をそのまま引き継いだというのがもっともらしいと思う。
 黒曜石時代から、「千国街道」でもって諏訪と高志が繋がっていた。諏訪地方に「高志招河比売」を祀っている神社が散見されるのも、諏訪と高志の間には人と物の交流が綿々と続いていたことの名残ではないか。
 この詳細はさらに今後展開する予定である。神社が行動「経路」の痕跡となっている。


時代の中心地が「笹川」に近づく

富山県下新川郡朝日町の地図

 右図をみて欲しい。浜山玉作遺跡、常福寺古墳は、田舎の周辺にある。いよいよ、時代の中心地になっていく。ただ、これはドン伝返し風の話だが、この時代に「笹川地区」は未開拓地に近く、遅れて開墾されたのではないかということになる。
 越中が定められた702年には、越中の国司が越後との国境の警護のために、八幡山(城山)に誉田別命を祀ることになり、正式に大和政権行政の地歩が築かれる。八幡山(城山)も近い。多分、警護部隊も当地に置かれたのだろう。
 私のロマン仮説は、出雲とつるんだ海人族によるヒスイなどの加工品をはじめとした交易グループと遅れてやってきた大和政権派遣の稲作技術集団が当地でそれぞれ勢力拡大を繰り広げていくというものである。しかし、両者には本質的な利害関係はなく、相補的であり得たはずなので、大和政権の強化とともに、中央集権への関係が深まっていった。その中に、第三の勢力として縄文時代、弥生時代を「ヤマのヒト」として生き繋いできた人々の末裔も存在感をもって共生していたのではないかと思う。
 ここに、古代街道が開かれ、駅場が設けられることなり、律令国家のシステムに強引に組み込まれていく。
(続く)


田舎の2000年歴史ロマン③ 道のはじまり(2) 終
サイト掲載日:2015年4月12日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明