田舎の2000年歴史ロマン29 渓谷の村 笹川の獅子舞

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田舎の2000年歴史ロマン29

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渓谷の村 笹川の獅子舞


 手元に、昭和45年8月10日発行のガリ版刷りの小冊子「渓谷の村 笹川の獅子舞」があることに気づいた。これは発行者が、笹川青年団獅子舞研究会となっている。村を挙げての発行ではなかったか。
 私の田舎の笹川には、このように地元の歴史や生活を活字で残しておこうする活動が活発だと感じる。その原因というか、どのような歴史背景の中で、このようないわば文化的な雰囲気ができてきたのかに興味が湧くというのが本音だろうか。


 この冊子の目次には、第1章があることになっているが、私の手元のものは、第2章から始まり、目次通り第7章で終わっている。
 第1章渓谷の村、第2章笹川の流れ、第3章三社成立の幻想、第4章諏訪神社あたり、第5章祭、第6章獅子舞、第7章保存の願い、という構成になっており、単に獅子舞のことを記述するのではなく、自然、歴史的背景をまず述べているところが興味深い。


 極めて貴重な文献だと思う。しかし、第4章までのかなりの部分の記述は、文学的な推測の域を出ない内容と言わざるを得ない。第5章に「古老の聞書より」という箇所がある。ここでは長文となるがそのまま、書き写して紹介しておきたい。


 「5-1 祭りの伝承―古老の聞書より」


 諏訪神社の祭礼及びその維持は、春秋の例祭に見られるように一村一体の行事として運営されてきた。現存する地区の古老達が語る伝承を聞書として整理すれば次のようになる。
 古くから神招きの神事は、神主と村役人及び有資格者によって執行され、祭りのクライマックスを盛りあげる様々の祭事は若衆である青年達の手に委ねられて来たという。翌年の祭りの役割は前年の暮れに決定される。秋の祭も終わり、忙しい稲刈りも済んだ農閑期を待って出稼ぎに出ていた若衆達が家で正月を迎えるために、大きな荷物を肩に一人二人と帰って来る頃、渓谷の山々は降り始めた白雪でおおわれる。ほとんどの若衆が顔を揃えるのは12月26日。この日は朝から,若連中の総会が開かれる。会議は20歳を過ぎた幹部若衆によって団務運営の経過や会計の締めくくりの報告が行われ、新年度の役員や行事計画が決定される。事務的な会議が終わると短い冬の日も暮れかかり、やがて風紀の反省となる。そこでは、一年間の若衆の動向が話題とされる。出稼ぎ先での非行、恋愛、勤労状況、年長者に対する朝晩の挨拶や、身の回りの世話などなどが主で、生活態度の優良者に対しては褒章の言葉wp、また極端に悪い者に対しては集団リンチや 時には“若連中除名”という最強の処罰もあった。すべてが終わると、各若衆宿の頭達によって翌年の祭を維持する役割が与えられた。方法としては15~17歳までの若連中を全員起立させ、体格や日頃の言動などを総合的に判断して、15,16歳の若者には道化を、17歳の若者の内、特に長男だけを選んで獅子舞の踊り子(各 四組)の役を与えた。また残った18~30歳までの若連中には、祭りの際の神輿担ぎ、たかはり持ち、笛吹、太鼓タタキなどの役割が与えられ、太鼓持ちにはその年他村から婿入りした若者が選ばれることも多かった。練習は冬の間は若衆宿で毎日のように、夏は祭りの二十三日前から毎晩行われていた。
 明治末年頃までの祭礼は、3月12日に春祭りには、神宮の境内で、また8月27日の秋祭には各家を一軒一軒回っていた。普通は8月27日の朝、諏訪神社の境内で神前の獅子舞(悪魔払い舞と天舞)を終えると、神輿を先頭にして、村の中に向けて神事が行われる。順序としては、まず大寺、次に小寺あとは一般の家であった。大寺および小寺での舞が終わると当時笹川の一番下流にあった一反田(注:屋号、竹内姓)に直通し、一反田より若連中幹部の決めた一定のコースに従って各家へ立ち寄り、舞を披露しながら上流へ向かった。神輿を先頭にした一行の前後には美しい着物を着た多くの子とも達が群がって歩き、一緒になって祭礼を盛り上げていた。一日目の27日は「裏向き」を終わって「中向き」に入る、たいていは忠平ドン(注:屋号、勝田姓)、もしくは利助さ(注:屋号、長井姓)付近で暗くなる。
 暗くなったところで一日目の舞は終える。そして舞い納めの家を御旅所として、神輿を屋内に安置し、太鼓面などの道具もあずけて各自家に帰り、夜8時頃から始まる荷方(にがた)節、仕方(しかた)節などの盆踊りに熱中した。翌28日には、前日に引き続いて「中向き」から「神向き」に渡って各家を回り、一番最後は「雁蔵家」(注:屋号、折谷姓)であった。ここでは前庭にかけられた仮舞台の上でうす暗くなるまで武士舞や芝居なども加えて披露した。やがて長い夏の日も山の端から光を奪い、谷谷に暁闇が立ち込めると舞を収め神幸の行列を組み、たかはりを先頭に、小笹を手にした露払い、神輿、獅子、天狗、村役と続く。行列は山腹を削り開かれた長ホリに通ずる細い道を静かに降りて、諏訪社に渡御する。まさにフィナーレを飾る美しい風景だった。行列はいったん神社の前を通り抜け、最後の家として残した折谷孫右衛門の石段を昇る。そこもやはり前庭に作られた価値舞台のまわりを村中の人が梅、神々とお別れする最後の芸能を演じ、それも尽きぬままに神輿は社に帰られる。すべてが終わると、祭りはあと境内で行う盆踊りだけとなり、その夜は明け方まで踊りまわる。
 各家で演ずるものはその家の地位によって差があった。つまり一般の家は獅子による悪魔払い舞だけ、順に組合頭や有資格の家では獅子に天狗が絡む天舞が加えられ、長百姓の惣代格の家では仮舞台が設けられて、二つの獅子舞、若衆踊り、剣舞、歌舞伎風の道化や芝居までが演じられていた。神輿の訪れた各家では、家の座敷や広縁など家じゅう開け放ち、酒、料理のもてなしをし“ハナ”と呼ばれる祝金も包み、神輿代の下に設けられた窓に投げ入れて奉納金とした。この奉納金は、当時の若連中の重要な財源であったといわれている。
 しかし、昨年と同様に大正元年の大水害で多大な被害をこうむった笹川では、その後の災害の復旧に追われ、大正8年までは祭礼の獅子舞でさえ行う気持ちになれず、神事だけですましていたようだが、村人からの強い声で、大正9年から再開されるようになった。しかし、この時から金銭的負担の少ないようにとの気遣いで、諏訪神社の境内だけで行う現在の形式へと変遷していった。だが、形は変わっても祭と村人とのつながりは8月26日から始まる。村中から各家一人が神社の境内に集まり、落ち葉などで汚れている広場を丹念に掃除し、端に杉の葉をさした杉丸太の招き代(15m)を3本立て、諏訪大明神、十二社権現、正八幡とそれぞれの神旗を掲げて、神に祭礼の行われる場所を知らせる目印にする。
 昔は、26日の夜、諏訪の山頂にほど近い本宮から村の有志、若衆頭や幹部等、祭事責任者が総員45から47名で祭りの主となる神の御霊代を神輿に乗せ、暗い杉木立の山道をたかはりや提灯を先頭にして、ササの葉で露払いしながら祭礼の行われる宮平の広場でお連れしたというが、昨今ではその形も消え、27日の午後、拝殿で祭事をすましてしまう。夜になって拝殿から下の広場までの石段を錬りで御祭幸さて、笛、太鼓に合わせた悪魔払いの舞、熱気と活気を含んだ天舞を行い、住民たちの安全、降伏、平和を願う。28日の夜はいよいよ祭りを終えることで神の御霊代も拝殿での御祈を最後に山の彼方へ帰られる。29日の朝は、神旗の収納や境内の清掃が行われることになっている。



 語られている中心時代は、明治期のような気がする。明治期は笹川の人口が急速に増えている。後日、触れることになると思うが、灌漑水道が拓かれ、新田が開発されて、分家が増えたのではないかと考える。
 廃仏毀釈の時期に、三社合祀が正式に認められており、廃藩置県で藩外への出稼ぎも可能になった。この渓谷の村は、これらをきっかけにして、その団結力を高めて、大いに発展したのではないか。
 この聞語から、その時代の青年団は15歳から30歳までの男子だったことが分かるが、若衆宿には、男宿だけではなく、女宿もあったと聞いている。それらの自主活動が盛んだっただけでなく、自己規律も相当に厳しかったことがうかがわれる。
 明治26年に祖父は生まれた。まさに血気盛んな時に、この時代の最好調期を味わったのだと思い立った。最も活力があり、同時に最も規律が厳しかった時代という意味となる。成年する頃から、水害からの復旧などの多難を味わうことになるのだろう。出稼ぎは要するに土方仕事で、同郷人で組を組んでその「優秀さ」を雇い主にアピールしたのだろう。次の年も来てくれ、と喜ばれたものだという話を祖父から自慢話を聞かされた記憶がある。このように総じて、我が同郷人は「勤勉実直」の自負が高い。


 そういう風土が意識的に追及されていたと、この「古老の聞書より」を今回、読んで思った。発行年の昭和45年は、筆者が田舎から東京に出てきた年に当る。この冊子の最新情報は、私自身も体験していたことになる。確かに15歳で青年団の一員に加えられたと記憶する。


(本稿終わり)

田舎の2000年歴史ロマン29 渓谷の村 笹川の獅子舞 終
サイト掲載日:2016年9月6日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明