田舎の2000年歴史ロマン27 下層民の生活

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田舎の2000年歴史ロマン27

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下層民の生活


 高等学校 地理歴史科用 日本史B 教科書、山川出版「詳説 日本史」(1998年版)を時々引っ張り出しては拾い読みしている。おそらく次女が使ったものを残したのではないかと思う。
 自分の高校時代には選択科目に「日本史」を選んだ。大好きな科目だったが深く勉強したかというとそこまでは胸を張れない。


 その99-100ページに以下の記述を見つけた。


 平安時代後期から鎌倉期にかけての武士は開発領主の系譜をひき、先祖以来の地に土着し、所領を拡大してきた。彼らは、河川の近くの微高地を選んで館を構え、周囲には堀、溝や塀をめぐらして住んでいた。館の周辺部には、国衙や荘園領主からの年貢・公事のかからない直営地をもうけ、下人や所領内の農民を使って耕作させた。そして荒野の開発を進めていき、みずからは地頭などの現地の管理者として、農民から年貢を徴収して国衙や荘園領主におさめ、取り分として課徴米などの定められた収入を得ていた。
 彼らの一族の子弟たちに所領をわけあたえる分割相続を原則としていたが、それぞれは一族の強い血縁的統制のもとに、宗家(本家)を首長とあおぎ、その命令に従った。この宗家と分家の集団を当時は一門、一家と名付け、首長である宗家の長を惣領(家督ともいう)、他を庶子とよんだ。戦時には一門は団結して戦い、惣領が指揮官となった。平時でも、先祖の祭りや一門の氏神の祭祀は惣領の権利であり、義務でもあった。こうした体制を惣領制とよぶ。



 何故、目を引いたのかというと、我が田舎には、「一村一家」という文化が根付いてきたと言われてきたからである。
 この記述との一致点は、我が田舎では平安末期に少人数の武士集団である「宮崎党」が勢力を伸ばし、それらが開発領主の系譜を引いていると思われる。確かに館を構え、そして多分、年貢を周辺の農民から徴収していたと容易に想像できる。
 「宮崎党」は歴史のヒーローたちかもしれない。一方、それらに年貢を徴収された農民たち、下人たちが確かにいたことも教科書は述べている。いわば、支配者と被支配者が同じ土地で分化していたことになる。
 さて、惣領制だが、宮崎党を例に上げれば大した人数ではない。周辺全部集めても数十人、家にして二十軒に満たなかったのではないか。その少ない構成員だけで、ここで言われている戦時、平時の日常生活が営まれていたとは到底思えない。間違いなく支配地の農民、下人たちを巻き込んでいたと思われる。
 では、そういう農民たちは、祭祀などでは「お客さん」だったのかと問えば、そんなことはないだろう。動員されていた、虐げられていたとしても、実質の主役ではなかったか?むしろ武士たちが「お客さん」扱いではなかったか?
 どうもこの教科書もこのような観点から言えばヒーロー史観であり、そこに生きたすべての人々に神経を配る点では水準が低いと感じる。


 「宮崎党」は、木曽義仲と共に戦い、一敗地にまみれた。しかし、その負けで田舎の体制が揺らいだということはない。大事なことはそこに定着していた農民たちに、郎党達を支える、一定の自主組織が形成されていたからではないだろうか。武士たちが「役立たず」だったとしも、あまり大勢に影響はなかったのではないか。
 所詮、貴族にしろ、武士にしろ、自らの支配地に定住するということはあまりない。そこで権力を失えば、もしくは一敗血に塗れれば、その支配地から移動していく。支配地に執着し、権威の地位を捨てる、すなわち、「帰農」した人達もいただろうがそれは限られただろう。「帰農」というのは言いえて妙だ。現代のことではない。武士の立場を離れて、土着化することを帰農と表現して違和感がない。十中八九、所詮は農民から這い上がったし、落ちぶれて農民になった訳だ。


 上記の「惣領制」の下層民版ともいえる形が、同時に各地に形成されつつあったのではないかと言いたい。その後も時間を掛けて、その体制が成長していき、地域のまとまりのある田舎になる。我が田舎にも、最終的にはここでの記述まがいの体制が下層民の中に徐々に確立していったと思う。それは、特殊な環境にあったので、そういう要素が強まった、という見方もあろう。だが、そこにいわゆる権力側もしくはその支配代弁者が、下層民の自主的運営体制の構築に、強く介在していたとは思えないので、それが教科書などを読んだ時の違和感になる。すなわち、教科書ではすべてがヒーロー達によって生み出されるようにしか読めない。



鎌倉期以降の田舎での出来事

図 親鸞の遊説ルート

 木曾義仲以降もいくつかの系統の武士たちの痕跡が、田舎でも見える。その詳細は、次回に譲るとして、武士以外の影響について、ここで述べておきたい。それが、支配側のヒーロー達ではなく、むしろ支配への反逆者ヒーロー達が活躍する場面が現れるからだ。それが、下層民による地域社会の自己形成と結びついていく。


 まず、親鸞が通過したらしい(下図参照)、ということにどうしてもひかれる。もし、この時期、田舎に仏教があったとしてもそれは禅宗系だったろうと思われる。すなわち、浄土真宗に宗旨替えしたのが、戦国時代を終えてからだったのは明らかだからだ。
 それに付随して、確認のしようのない話で、おそらくありえないようなのだが、親鸞の妻の恵信尼が越後に向かう際に、沿道に衆生が見送ったという伝説が、越中-越後上越間に伝わっている。
 だが、上記のように、親鸞の時代に、浄土真宗の教えが田舎に強く伝来したとは思えない。



蓮如の教えとその組織

 親鸞のおよそ250年後、蓮如は、文明3年(1471)に、加賀と越前の境界に、「吉崎御坊」を建立した。蓮如は、「仏教は人々を差別しない。阿弥陀如来を信ずる人は、みな平等に救われる。」と説き、「同朋精神」を強調し、また職業にも関係なく、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、仏の慈悲により現在や未来が明るくなると説いた。この教えは、在地の有力者である土豪は勿論、今まで恵まれない生活をしていた農民や手工業者、行商人にも、急速に広がったらしい。蓮如は、信者が集まって話し合う場を「講」といい、それをボトムとして、本山、本願寺をトップとするピラミッド構造を造った。これが一向一揆に発展する。


 筆者のイメージでは一揆と言えば、ムシロ旗だが、どうも一向一揆はそういう側面だけではない。「百姓の国」を作って自主運営していたということに度肝を抜かれる。「百姓の国」の中にたとえ領主の部下たる武士がいても、その執行権は百姓(=一向門徒)に奪われていたということだ。いわば、パリコンミューンが、北陸地方一帯に展開していたとなる。そういう風には学校で習ったことがないので、なぜ一向一揆が織田信長に徹底して嫌われたのかよく分からなかったが、こう理解してしまえば、絶対君主を目指した信長が抹殺したかったのは必然という理解もできる。火攻め、皆殺しという絶対悪の手段を選ばせるほど信長には邪魔な存在だったのだろう。


 我が田舎は越中にあっても、明確な一向一揆の版図からは外れ、むしろ越後の武家勢力の支配の延長上にあったようだが、それでも一向宗の影響は高まっていたに違いない。また、上記のように、教えを受け入れる素地は整っていたように思える。国境にあったので、軍事的面から「百姓の国」に加わるには無理があったとも言える。歴史にもしもはないが、上杉謙信が高田にいなければ、高田まで一向一揆が拡大して、わが田舎も一向一揆に含まれていたかもしれない。


 物心がついて、田舎の浄土真宗のお寺(お隣さん)で、お坊さんの説話を聞く機会があった。そこでの「講」の話が極めて印象的だった。「講」は、門徒が問題提起し、他の門徒がそれに自分の考えをぶつけるものであり、お坊さんがコントロールするものではない、ということだった。そんなに熱心に勉強しているのはどんな人かと疑問に思ったが、普通の百姓さんが、百姓をしながら考え、農作業の合間に考え、また門徒同士の議論の中で考え、そこで自分なりの解釈に至ることが大事であり、他の門徒の考えを頭から否定するのはよくない、違った結論であっても自分の信仰、理解の深まり、正しさを自覚できるまで考え、議論することが大事なのだ・・・のような話は衝撃的だった。


 今、ダイバーシティ、多様性の尊重のような考え方が重要視されるようになっているが、蓮如は500年以上前にその原型を作っていたとも言える。戦国時代を終えて、我が田舎は、浄土真宗に全村挙げて宗旨替えすることになる。


 下層民は、特に農民は、その土地、すなわち水田にしがみついて生き抜くしかない。これが、日本史の最近までの主要な側面だったことは間違いないが、何故か歴史の本は、ヒーローのみ、支配者のみを追いかけるので、読み物としては面白いが、物事を深く考えるにはほとんど役に立たない。それなら歴史文学の方の価値が高いのではないか。


(本稿終わり)

田舎の2000年歴史ロマン27 下層民の生活 終
サイト掲載日:2016年8月17日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明