田舎の2000年歴史ロマン26 笹川開墾の黎明

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン26

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笹川開墾の黎明


 「佐味庄を考える」で、宮崎三兄弟が田舎の当時を理解するための大事なカギだとした。
 大和政権の北陸道への進出の時代、大和政権の律令制度の確立の時代を経て、実効支配が朝廷、貴族による派遣役人による統治から、地方武士団による再組織化の段階を経て、鎌倉幕府によって封建制の時代へと変遷していく。宮崎三兄弟による佐味庄の再編、確立は、派遣役人による統治から、正に地方武士団による実効支配に当たるものではないかと思う。わが田舎でも様々な土着勢力があり、それらの中のせめぎ合いもあったかもしれないが、宮崎太郎を首領とする宮崎党が支配権を握る。その系譜の概略は以下のようになる。
  1)井口家は、砺波に都から派遣された中央豪族の系統で、その末裔の一部が佐味近辺に移住してくる。すなわち、井口家
    は佐味系統ではない。越中西部豪族の勢力拡大(東進)とも言える。
  2)井口家の末裔と思われる系統が、「井ノ口」に井口姓として現存するので、そこが井口の旧拠点と目される。移住してき
    た井口家は、定住を選んだ。多くの来住者は、勢力を失うと引き払っている。
  3)宮崎三兄弟は、井口家で生まれ、宮崎を制するために、「宮崎」とみずから改姓した。
    すなわち、この頃、宮崎が佐味の中心地だったことを意味する。おそらく宮崎港が通商の要として栄えていたのではな
    いか。宮崎城が軍事的要であったことは言うまでもない。
    かくして、佐味の支配者となるに、「井口」を捨てた。
    三兄弟は、「宮崎党」を結び、それぞれの役割分担を決めている
     宮崎太郎(統領として土地だけでなく、食料や工作品などの通商権なども独占)
     南保次郎(南保として、宮崎以南の平野部を支配)
     別符三郎(太郎の補佐として、旧佐味荘を統括)
  4)ここに北陸宮、木曽義仲の物語が重なってくるが、その物語は「木曽義仲・巴と宮崎太郎、あさひ塾
    (http://www.asahi-juku.jp//)」に譲り、ここでは触れないようにしたい。



北陸宮、木曽義仲が遺したこと(宮崎三兄弟との関わりで)

①旧佐味荘(常福寺古墳辺りが佐味統領の中心地)
 一般に、旧佐味荘は、境地区とされる。しかし、境地区で水田開発ができた場所は、大谷川沿いにほぼ限定されると思われる。常福寺辺りを中心地とすれば、水田開拓は以前に述べたように、内陸街道沿いとして、大谷川沿いと反対側の西裏谷、さらに大溝谷、大谷川下流から展開した宮崎地区山麓、山間部などに「谷内田」が広がっていたのではないかと思う。現在の笹川地区(下流・中流域)は、当時は篠郷(ささごう)として未開地ではなかったか。この一帯の差配が別符三郎(別名境三郎)に任されていた。
 常福寺古墳辺りに祀られていた豊城入彦命は、城山の頂上付近から海岸沿いの平地に移設された脇子八幡に合祀された。これ以降は、脇子八幡は九里家によって宮守されてきている。
 同時に、旧佐味荘の住民であった竹内、長井系統は祖先神を失った(おそらく佐味統領の系統は既に絶え、求心力を失っていたのではないか)。そこで、長井には北陸宮が伴ってきた正八幡社をあてがい、竹内には木曽義仲が建立した諏訪社をあてがって落ち着いたように思われる。折谷は十二社を既に祀って、笹川上流域に棲みついていた。
②宮崎城以南
 沼保での水田開墾が進んだのではないか。沼保の水田開墾には、井口系統が持ち込んだ下流平湿地の開墾技術を適用する必要があった。佐味一族は、谷内田開墾技術に長けていたが、低湿地開墾には不慣れだったのではないか。沼保に佐味神社を建立したところをみると、ここの開墾に従事したのは旧佐味荘から移住してきた系統がいたのではないかと推論される。現在までその系統が続いているとすると、最も有力な候補は、大村系統が挙げられる。大村系統は、泊の江戸時代の計画的移住以前から当地に棲みついていたものとその分布から推察される。大村系統と佐味一族の関係性を導く手がかりはないが、井口家とのつながりも見いだせない。近江、越前では、旧佐味一族にゆかりの地に今も遍在していることが何らかの手掛かりになるかもしれない。
 南保では、山麓、山間地の谷内田開墾が先行していたが、井口系統が大家庄などの下流平地での開墾を進め、水田面積は相当に増えていたのではないか。井口系統は元々大家庄周辺を統治していたが、宮崎三兄弟の活躍で、これら一帯を統治するようになり、南保次郎がその統領となり、高畠神社に新熊野(いまくまの)を分祀し、当地の象徴とした。
③宮崎城、宮崎港
 軍事と通商の要だった宮崎城、宮崎港の支配権は、長兄の宮崎太郎が取ったのは当然の結果であり、宮崎太郎は一定の武士団(当時はせいぜい数十人規模でも一大勢力だった)を従えていたのだろう。宮崎党の勢力は、黒部川東側一帯の拡大し、ここに、新しい勢力である佐味庄(現在の朝日町・入善町の原形)が形成された。平安時代の中ごろまでは、東大寺、西大寺など中央権力の支配が一定程度及んでいた地域と思われるが、ここの時点で、武士団に支配される構図に入れ替わったものと思われる。
④篠郷(笹川の下中流域)
 下流の平地には、まず三郎館が置かれていたようだが、そこを北陸宮の居館に改築し、その近辺に本八幡社を建てた。居館の周囲には、北陸宮に随って到来した者たちの住居もあったはずである。本八幡社の世話は長井某(従者の一人)にさせたのではないか。この長井は先住の長井と関係があったとは思えないが、その後、血筋の者が当地に定住し、「清左衛門」と名乗り、農耕をしながら正八幡社の宮守を務めたのではないかと推察する。なぜこの地に館を構えたかだが、まずは宮崎城の麓であり、周囲を小高い山並みで囲まれているので要害の近くにあって、隠れやすく守りやすいという点が考えられる。また、取水、防風などの観点からも穏やかな自然条件を確保できた場所だったと思う。
 中下流の河川敷は、正に篠郷と言われる笹で覆われた荒地だったと思われる。この篠郷の中流域に、木曽勢は駐屯地を拓き、御射山祭神事も執り行ったと言われている。また、対岸の台地に諏訪神社を建立し、そこで北陸宮元服式を行った。
 長井本家がある字北角地は、諏訪神社の近隣であり、木曽義仲の本陣が置かれていたとされる。したがって、北角地辺りも一定の整地をしたのではないか。北角地は、河岸台地的な地形であり、南向きのなだらかな斜面となっている。



北陸宮、木曽義仲が去った後の篠郷

 いずれ木曽義仲は敗退し、北陸宮は京へ戻った。残された跡地をどうするか?移住地としては新天地ではなかったか?宮崎党は首領は失ったが、残されたものは影響力をしばらく保持した。
 それで、竹内、長井の一党が常福寺古墳近辺などから移住してきて、境目を決めて、住居建設と田畑開墾を進めた。竹内、長井家系図からみた旧家群(それぞれ4-5軒)は、固まって住居を作っている。中でも長井一党は、家系図の順序で東側から西側に並んで家作している。宗家の宗三郎だけは一段高いところに家作しているが、それ以外は一段下がった平地に横に並んで家作している。竹内一党は、南向きの斜面に近距離で固まって家作している。
  笹川黎明期の姿を瞑想してみると、竹内(亮)と長井(左衛門)の二家が最初にでき、年を隔てて、分家が家作していくというイメージは描きにくい。この時期に、一気に数軒が家作されたとみるのが適切な気がする。
 竹内は、大溝谷を下り、北野を拓いてきたのだろう。長井は、西裏谷から四倉谷の街道沿いと佐渡谷を下ってきていたのだろう。実は、古い地図では、佐渡谷川のことを「こさとがわ」と書いているものもある。佐渡谷は「さたたん」と発音する。このことも勘案すると、本来は「里谷」と呼んだのではないか。「さとたに」を「さたたん」と鈍るのは自然である。「里谷」とは、里(低地)に下りる谷という意味ではなかったか。後世、何の根拠もなく「佐渡から渡来したので佐渡谷としたのではないか。佐渡に流された平家の末裔ではないか」という俗説がまかり通ったが、佐渡との関係や平家との関係も見出すことはできない。平家と言えば、むしろ源氏の流れを組むと言った方が適切である。
 ここで理解しがた疑問が生じる。伝説では長井のご先祖様は「左衛門」であるのに、現在の宗家が「宗三郎」という不一致である。


図 正式に伝わる長井家系図の一部


 上図は正式に伝わる長井家系図の一部である。5代以上続いていると目される屋号だけを載せている。全部書くと一ページには収まらない。5代に満たないと目される屋号は、最下段に丸数字で軒数のみを示している。宗三郎を宗家として、「太郎左衛門」と「宗左衛門」の二大系統が描かれている。宗家を含めて、三つの系統が軸となっている。
 各屋号を色分けしてあるが、笹川地区では、下流から上流に向けて、1部、2部、・・・5部、6部と六つの班に分かれている。一部、未判明な屋号は、色付けしていない。長井系統は、3部を中心に家作している。「宗左衛門」も元々は3部にあり、竹内との境界に居たが、後世、上流域の四倉谷からの外来者の監視のために6部に移ったと言われており、元来は3部にあった。すなわち、長井系統は北角地から展開していったことが明白である。


 それぞれの系統に属する屋号の数を数えてみた。「宗三郎」は6軒である。「宗左衛門」は17軒、「太郎左衛門」は36軒である。これはいかにもアンバランスである。圧倒的に「太郎左衛門」が多い。
 そこで、それぞれの系統での分家が年代的に同数になるように、家系図をいじってみた。下図が、その一例である。面白い結果は、「太郎左衛門」が最も古く、4分家、「宗左衛門」、「利右衛門」、「宗右衛門」、「清右衛門」の5家が第二世代となる。「宗三郎」、「清左衛門」は、第三世代で現れると、家系図全体のバランスがよくなる。こうなると、「左衛門」の嫡流が「太郎左衛門」「宗左衛門」であり、傍流が残りの三つの「○右衛門」という整理になる。
 そこで、私の推理は以下のようになる。
 ①元々の宗家筋は、「太郎左衛門」であり、木曽義仲当時には、「宗左衛門」、「利右衛門」、「宗右衛門」、「清右衛門」の5家があ
  った。
 ②篠郷開拓の差配は、宮崎(境)三郎が執った。三郎(たぶんその嫡流も三郎を名乗っただろう)は、木曽義仲敗退後、宮崎太
  郎筋と一線を画し、いわば長井系統へ婿入りした。北陸宮に随ってきた「清左衛門」も長井系統に婿入りし、「太郎左衛門」
  の分家となった。長井系統は、力関係のバランスを考えて、三郎を宗家に担ぐことにし、「宗三郎」を長井家の統合の中心
  に据えた。三郎の家紋が「丸に剣かたばみ」だったと言われる。それがそのまま「宗三郎」に受け継がれた。これらの宗家筋
  の墓は、最禅と呼ばれる山側の斜面の麓にそれぞれ離れて並んでいたらしい。当地の最初の寺院は、禅宗だったと言わ
  れ、それが最禅という名前の由来とも思われる。その後、浄土真宗に宗旨を変えていき、寺院の位置も変わり、墓も移設
  していくが、最禅に並んでいた墓は、そのまま長井系統の支配地を示していると言える。竹内系統の墓も同様に並んでい
  たということである。
 ③竹内、長井が主体となって、義仲勢の整地した土地を水田化していった。そこの開拓が終わると対岸の谷々に谷内田を開
  墾していったものと思われる。開墾地をどのように分けたのか、もしくはどのように予定地を分けたのか、という観点で
  見ると、どうも、本家筋から順に、居地から近いところを分けていったように思える。その席次が今回乗せた家系図にほ
  ぼ随っていることに驚かされる。
 ④「宗三郎」家(私の実家)にある地神は、どこかから移設してきたとも考えられるが、鎌倉期以降に造られたとする方が良い
  と考えている。何をかたどった石像かについては諸説あるが、私には段々畑(谷内田)の開墾に、片手に鎌(鍬)、片手に握
  り飯を持って、日夜勤しんだご先祖様と映る。この地神を心から崇拝していた私のおばさん(父の長姉)は、蔵の鍵と玉だ
  と力説していたが、私は笑って聞いていた。さて、地神の前に立ち、周囲を見渡すと、城山、諏訪山、権現山のすべての
  整地を望むことができる。信仰心が篤いものにとっては、スピリチュアルな場所である。


 このように、佐味系統の一族は、笹川に定住地を見つけたと思われる。西暦1200年頃のことである。佐味駅が設置されてから400年が経っており、今から800年前のことである。後日、触れることになるであろう「一村一家」の原形が出来上がったと思う。田舎では親戚のことを「いっけ」と言う。平安時代から地方に形成された「一家」は「いっけ」と呼ばれた。その名残ではないか。


図 夫々の系統で分家が年代的に同数になるようにいじった家系図


(本稿終わり)



田舎の2000年歴史ロマン26 笹川開墾の黎明 終
サイト掲載日:2016年5月15日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明