田舎の2000年歴史ロマン25 頚城の佐味について

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン25

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頚城の佐味について


 越中の佐味は私の田舎だが、頚城にも佐味があったことは何度も述べた。しかし、この頚城の佐味に関する記述はネット空間では極めて少ない。
 そこで、「17 柿崎、高崎の長井」で若干、考察を加えて、それでとどまっている。長井姓の密集地が谷内田開墾と関連して残っており、近くには十二社系の系統も存在する、という共通点が柿崎周辺で認められる、また古墳時代以降の信仰、軍事の中心地が、木崎山という小高い山である、などの地勢的な共通点があるという結論である。
 今回、「九里を探して三千里」さんからのヒントもあり、国会図書館の書誌データベースをさまよってみたら、

郷土史稿 三崎四郎編 (大正7年、1918年)

に遭遇した。これは現在の新潟県の米山以西、まさに頚城の古代史を考察したものである。その中に、「佐味郷及び佐味駅」の項がある。これだけまとまった記述には初めて出会った。そこで、全文を現代仮名遣いに改めて引用してみる。丸数字は、長井が整理のためにつけたものである。


(五)佐味郷及び佐味駅
①佐味という地名は全国に多くある古地名である。大和国南葛城郡佐糜(日本書紀)伊勢度会郡佐味之山、越中下新川郡佐味郷
 (倭名鈔)備後国蘆品郡佐味郷(倭名鈔)上野国多野郡佐味郷(倭名鈔)同国那波郡佐味郷(倭名鈔)等あり、このほか古地名では
 なけれども、遠江浜松の北方浜名湖の東岸の沼地を犀という。その地名の起こりは明らかではないがその起源はよほど古き
 ものと見える。上野国多野郡佐味には豊城入彦の子孫が土着して、佐味朝臣を称えたること姓氏録に見えているのでも分か
 る。
②考えるに佐味の原は佐比なるべく、佐味と書いてサヒと訓じたるは、越中新川郡の佐味は佐比と訓ずべき旨、倭名鈔に注し
 てある。しかして佐比はサビと読みてサヒ(イ)と読みたるにはあらずと思わる。しかしてサビはいかなる意味なるかと言う
 に、鉏にて、土地低く、水たまり、水流れずして、地の鉏(さい)のごとき状態を成ししかば、サビすなわち佐比と言いたる
 ものなるべし。古事記にも鉏を佐比と記しし箇所あり、日本紀(推古紀)にも鉏を差比と記ししとあるよし、国語大辞典に見
 ゆ。わが郷土の後世の夷守(ひなもり)郷の一部および大瀁(おおぶけ)は沼地にして、俗語にいうフケにて、地の鉏というに
 よく叶っている。また遠江の犀もよく似た地形である。ことに越中下新川の佐味はその地勢、地質、位置、皆ことごとく似
 ている。すなわち位置は越中越後の国境の峠に近く、また水たまりらしき状態などはすこぶる類似している。ことに面白き
 は今のその地方に大三位、三位などの地名あり、その海岸を西浜(さいはま)と言ったこともあり、西(さい)は佐比より移り
 しものにて、わが郷土の海岸に犀浜(さいはま)あるとよく似ている。そして、その国の郷名をなししとも、延喜式の駅の所
 在地にありしことまでよく似ている。
③今遠江の犀、越中の三位、およびわが郷土の犀潟(さいがた)、犀浜などを比較して、ここにわが郷土の佐味郷、佐味駅は後
 世の大瀁郷地方で、駅はおそらく今日の犀潟付近にあったものと推定せらるる。なお地名辞書に越中の佐味の注に、佐比と
 あるのは誤りにて、佐美なるべきとあるが、これこそかえって間違いで、倭名鈔の注はなんら誤謬と認めるべきものでない
 ことは、以上の説明で明瞭であろうと思う。
④「さひ」という魚、鯉に似て稍々小なるものにて、池沼などの地の鉏に産するをもって「さひ」と名付けしにあらずや、はじめ
 わが郷土の犀潟付近の沼よりこのみごひというもの多く産せしかば、その地方を佐比すなわち佐味というに至りしものかと
 考えしが、それは全く転倒せし説なることが明らかとなった。


がっかりしました

 長井は何度も読み返してみたが、これは「歴史」ではない。単なる言葉の遊びに過ぎない。まず、ヒトは登場しない。登場する動物は魚だけ(④)だが、これは筆者自身が関係ないと結論づけているので、何のために書いたのか疑問符が残るだけである。
 主題は、地名と地形の関連づけに終始腐心しているというだけである。要するに、「さい(ひ)」は「沼地」を指すということと、「佐味」は「さい(ひ)」と発音するということをそれぞれ説明し、したがって、「佐味」は「沼地」であると論考しているだけである。そして、終には、「佐味」は「犀」だとしている。
 そこに古代、集まった人たちは、「沼地」に駅家をつくり、棲みついたということなのだろうか?長井にはその歴史考察センスが理解できない。歴史には人間の息吹が聞こえないといけない。そこに棲みついた人たちは、何を食べていたのか?みずから何かの食料を生産し、入手していたはずだ。支配者はみずから生産活動に従事しなくてもよいだろうが、日々の食事のための原料、また富の蓄積のための生産手段がなくては、支配する基盤が生まれない。どのような生産活動をしていたかをバックに考察しない、人の時代の歴史研究は無意味だろう。
 弥生時代の始まりの稲作は、大型河川の下流の湿地帯の水田化からだと今は理解されている。中上流の平地、緩やかな傾斜地に灌漑を施す技術が全国に広まったのは、なんと江戸時代とされている。その中間の時代に、谷内田の開墾があった。いわゆる棚田にもなる。これは森林の伐採を伴うもので、また縄文人の棲み処を奪いかねない事業でもあったはずだ。
 「下新川の佐味」では、そこに棲みついた人たちは、豊城入彦命を祀ったことが明白に史実として残っている。すなわち、佐味一族由来と見なすのが妥当である。「佐味」の呼び方が様々に訛っていったとしても、それは致し方ないことであるが、ルーツは「さみ」である。
 長井が、頚城の佐味と下新川の佐味に共通点があって欲しいという願望を持っているのは事実だが、これはなかなかしっかりと実証できないと感じた。例えば、豊城入彦命を祀っていた神社があるとか、かってあったとかの事実があれば話がまとまってくるが、今のところ、そのような事実は発見できていない。


興味深いこと(③)

 しかし、「ことに越中下新川の佐味はその地勢、地質、位置、皆ことごとく似ている。すなわち位置は越中越後の国境の峠に近く、また水たまりらしき状態などはすこぶる類似している。ことに面白きは今のその地方に大三位、三位などの地名あり、その海岸を西浜(さいはま)と言った」という記述は新鮮だった。というのは、下新川の佐味についての地形的な説明は、田舎には残っていないからだ。したがって、中心地は古墳あたりとされているが、佐味駅はどこにあったかは定まっていない。
 この時代には、「佐味」が特定できていたのだろうか?と疑問が残るが、冷静にフォローしてみよう。
1)位置は越中越後の国境の峠に近い
2)水たまりらしき状態
3)その海岸を西浜(さいはま)と言った
ということだが、
1)国境は実は境川という河川である。峠とはどの峠を指すのだろうか?古墳から直接、越後に向かうルートは峠道で、下ると
  境川である。
2)水たまりというが、古墳のあった地域は、標高の高い盆地の湿地帯だった可能性がある。
3)西に浜があるのは、古墳のあった地域を中心とすれば納得がいく。
ということで、ここの記述に三つとも合致する場所は、古墳のあった地域と特定できることになる。確かに、古墳あたりは佐味の中心であった傍証となりえる。だが、駅家の場所については何らの記述もない。
 だが、越後の現在の糸魚川市の山側に当たる地帯を峠と言えばその通りになるし、いろんな要素をつまみ食いにすれば、場所が特定できるほどの確かな情報とは言うのは憚るべきかもしれない。


 以上、期待は空振りに終わったが、伊勢度会郡佐味之山、備後国蘆品郡佐味郷は認識に無かったので、今後、少し、勉強を進めてみようかと思う。伊勢度会郡の近くには今でも豊城入彦命を祀った神社がある。この神社は後世のものと伝わっているが、佐味系統となんかの関連があるのかもしれない。
                                                 この項、おわり。



田舎の2000年歴史ロマン25 頚城の佐味について 終
サイト掲載日:2016年4月24日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明