※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。
田舎の2000年歴史ロマン24
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越中における「井口」
北海道在住の方からメールが届き、「私の曽祖父は九里圭治と申します。我が家に古文書があったため、ルーツ探しをすることになりました。今日、長井様のHPに「九里」の事を発見し、また今まで知らなかった「佐味氏」の事も知りました。」ということで、「九里」にとどまらず「佐味」を含む、交流が始まった。
その際、「近江九里」のルーツである「近江国御家人井口中原系図」を教えていただき、前回、わが町の九里のルーツについても少し詳しく検討してみた。今回は、「井口中原系図」の内の「井口」について調べてみた結果である。九里だけでなく、井口も共通して存在することを偶然ではないのではないかと思うのは至極自然な発想だと思う。また、このようなロマンが新しい関心課題を与えてくれて、歴史の勉強が展開するというのが面白い。
すなわち、その後、下記のように、近江国を舞台に、井口・・・中原・・・佐味・・・長井のつながりを探そうという両者の試みが続いており、折角な機会なので、もう少し幅を広げて調べて、ロマンが不可避的に持つ弱点である、論理や事実の隙間を少しでも埋めておこうという気持ちになったからである。
「九里を探して三千里」 古代からのつながり(3)から
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/fbd2df1f1f5be5c36b293c078adc3638
「井口系図によれば、もと中原氏より出て近江国に来たり、中原景経を祖と伝えている。(中略)そこで、井口と中原、そして長井とつながっていくような気もするのである。(…と思ったが、年代が合わず残念。)」
長井(私)は現時点では、以下のように考えており、それは、22回で述べている。関係ある点を再録しよう。
田舎の2000年歴史ロマン22佐味庄を考える(その3)から
1)新川郡井口家は、砺波に都から派遣された豪族の系統で、その末裔の一部が佐味近辺に移住してくる。すなわち、佐味
系統ではない。越中西部豪族の勢力拡大(東進)とも言える。
2)井口家の末裔と思われる系統が、「井ノ口」に井口姓として現存するので、そこが井口の旧拠点と目される。移住してき
た井口家は、定住を選んだ。多くの来住者は、勢力を失うと引き払っている。
3)木曾義仲と共に戦った宮崎三兄弟は、井口家で生まれ、宮崎を制するために、「宮崎」とみずから改姓した。すなわち、
この頃、宮崎が佐味の中心地だったことを意味する。
かくして、佐味の支配者となるに、「井口」を捨てた。
三兄弟は、「宮崎党」を結び、それぞれの支配分担を決めている
宮崎太郎(統領として土地だけでなく、食料や工作品などの通商権なども独占)
南保次郎(南保として、宮崎以南の平野部を支配)
別符三郎(太郎の補佐として、旧佐味荘を統括)
今も残る「井ノ口」(集落)と「井口」姓
さて、地図を眺めていると「井ノ口」が今もあることに気づく。そことその周辺に、今も「井口」姓が住んでおられる。仮に、「井口」姓の現在の分布を「井口党」の勢力範囲とすると、右の地図のようになる。
この地図の上(北)に、「大家庄」の名前が見える。これが、富山平野西部からの進出による「東大寺荘園」の名残りの地名である。井口党がその時代の「大家庄」の中で力を伸ばした一党ではなかったか。(以上が再録)
富山県における井口姓の分布
例によって「同姓同名」を使って、富山県における井口姓の分布を調べてみた。富山市と高岡市は人口集中地域であるので、除外してみると、確かに越中西部(南砺市)に集中している。さらに、次は田舎の朝日町に偏析しているのが一目瞭然である。朝日町では、右図の「井口党」の点線で囲んだ領域内に分布しており、地名「井ノ口」とほぼ一致した領域となっている。
富山県には、かって「井口村」があったが、これも「井口系統」の名残だと思われる。そこで、urlを探してみたら以下のようなものがヒットした。
『越中・井口城』
富山県南砺市池尻字勘定島
http://www.hb.pei.jp/shiro/ecchu/inokuchi-jyo/
『延喜年間(901年~923年)頃に井口三郎光義によって築かれたと云われるが定かではない。井口氏は南北朝時代には南朝方の桃井直常に属し、応安2年(1369年)北朝方の能登吉見氏によって攻められ落城した。文明年間(1469年~1487年)頃には今村氏の居城で、城主今村小太郎の頃に再び落城したという。戦国時代末期には一向一揆の拠点となっていたが、天正9年(1581年)佐々成政によって攻め落とされたと見られている。』
『南砺市指定史跡 井口城跡』
http://pcpulab.mydns.jp/main/inokuchijyo.htm
『応安2年(1369年)に桃井直和(直常の子)が再び富樫氏を攻めていますが再度失敗に終わり、逆に能登国守護の吉見氏に追撃されて同年9月24日、井口城は越中国千代ヶ様城と共に落城しました。桃井勢はこれに伴い越中国松倉城へと逃れ、井口氏もそれに従って越中国大家庄(現富山県下新川郡朝日町大家庄)へと拠点を変えたと考えられます。しかしその時期が井口城が落城した時なのか、それ以前なのか、あるいは南北朝期より前に既に移っていたのかは判然としません。もしくは元々同族が大家庄に居住していたという可能性もあるかも。』
もうひとつ、「九里を探して三千里」さんから教えていただいたブログ。
「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」
http://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/1e8a5e6143d1ce284caa9cef816a1d70
注:下線は長井による
「福井県の藤原氏の猛将藤原利仁は「今昔物語」の「芋粥」にも登場する大変民衆に人気のある武将で妻は敦賀の女だった。
✳「藤原利仁」:平安中期の人。左近将監を経て延喜11年(911年)上野介。翌延喜12年(912年)上総介。下総介・武蔵守と関東の国司を歴任。同15年(915年)に下野国で貢物を略奪した群盗数千を鎮圧した話は有名。(『鞍馬蓋寺縁起』)この年に鎮守府将軍。
その子の加賀介三郎叙用の兄の太郎有家は斎宮頭に任ぜられ「斎藤」の祖となり、弟の有頼は越中井口氏の祖となった。叙用の五代後の貞宗は林氏の祖となり、弟の家国は富樫氏の祖となった。七代目貞宗(傍流)の子の貞光の娘は、東大寺大仏の創建に際して米五千石、荘園百町歩を寄進したあの有名な越中の利波臣志留志の末裔の利波豊久の息子の石黒権大夫光久と婚姻し、光久は貞光の猶子となり藤原氏を称した。更に貞光の孫の林太郎光明の娘と利波豊久の孫の石黒太郎光興の息子の光弘も婚姻している。このように林氏と石黒氏は二度にわたって婚姻しているが、藤原利仁の嫡流で六代目石浦五郎為輔(加賀国石川郡石浦村ー金沢市の兼六園の傍に延喜式内社石浦神社✳「元は三輪神社」がある)の系統は九代目光景の時に前記の佐兵衛石黒太郎光弘を猶子として迎えて藤原利仁直系を継いでいる。(✳「諸家系図」、「石川県史」、「林一族」北国新聞発行 参照)
●「静岡県立図書館」の蔵書の「葵文庫諸系図」の中に徳川家所縁の「石黒氏」「井口氏」の系図がある。「井口氏系図」に拠れば井口氏は元々、「江州浅井郷の者」とされており、滋賀県浅井郡が本拠地だと云う。この系統は江州井口氏と呼び、舎人親王を祖とすると云う。この系統は祖先が異なるが、一部に藤原氏を名乗りこの系統から藤堂氏が出ている。
藤原利仁系統の「井口氏」は鎮守府将軍藤原利仁の末裔と云うがこの人物は延喜式が定められた900年代に活躍した人物である。北陸各地に藤原利仁所縁の豪族の名前や神社等の施設があり、石黒氏も途中から藤原利仁の末裔を称している。赤丸に鎮座する「浅井神社」は何故「浅井神社」で、何故、延喜式に掲載されているのか? 石黒氏は「角鹿臣 ツヌガノオミ」(※敦賀の語源)と同族と云われるが、古い時代に敦賀や近江で近親関係はなかったか?
「浅井神社」の祭神「八河枝比売神」は近江の琵琶湖に祭られる水神と云う。藤原利仁の妻は敦賀の人であり、加賀林氏も加賀に来る前は福井に住んでいたとされる。井口氏は越中井口村を拠点としている為、越中を出自とする様に考えられるが、井口氏の出身地が近江で有れば、むしろ浅井神社の神は近江の古代豪族浅井氏の祭神であり、その神が藤原利仁の直系の井口氏により赤丸にもたらされ、次いで藤原氏建立の鞍馬寺が赤丸に勧請された可能性がある。」
(以下は長井の文章)
ということで、築城の起源を、平安中期延喜年間(901年~923年)とすれば、近江→越中西部(砺波平野)→越中東部(大家庄辺り)という転進ストーリは年代的には成立しそうである。
ただ、砺波平野への最初の到来は、もっと以前にあった可能性を残しておく必要がある。越中の古代歴史家はどちらかというと後者の立場に立っているように思える。だからと言って、それは平安中期の転進を否定するものではない。このいわば先発隊も、江州浅井(今の滋賀県北部)から、到来したとしても何の不思議もない。
ところで、現在の「井口」姓が南砺市のどこに分布しているのかを丹念に調べてみた(説明はしない)ら、面白いことが分かった。54件の内の半数以上が、梅原地区に偏析していることだ。梅原は旧福光町梅原である。井口城は平地に築城されており、現在その周辺に在住されている「井口さん」は10件程度であり、かつ散らばっている(砺波平野は散居村落で有名だが、そのような意味ではない。住んでいる地区が散らばっている)。
これを「素直に」解釈すれば、ご当地の「井口党」は敗残して、平地から山地の梅原地区に逃げ延びて生き繋いできたということだ。井口党の敗残は、1369年落城の際とみてよいだろう。敗残先として、大家庄へも足を延ばした人たちがいた可能性は残しておいてよいだろうが、既述のように「井口家」から「宮崎三兄弟」が出たのは平安末期であり、砺波平野での井口党の敗残よりは200年ほど遡る。
また、この井口城が井口系統の越中における最初の地だとしたら、ここは小矢部川の上流域に当たることを認識しておくべきだと思う。律令国家は越中内ではまず、大きな河川の下流域への弥生系の進出地に展開した古代豪族(古墳時代)達の活躍地帯数珠つなぎに駅家を設置している。河川中・上流域への展開は、荘園の拡大期の奈良以降に本格化したものと思われる。したがって、その頃に当地に入植し、実力を蓄え、平安中期の延喜年間に築城したというストーリの展開に大きな無理はない。駅家の展開は越後まで伸びていたので、越中東部への転進は、古墳時代から段階的に進められていて、井口系統の東進も延喜年間以前に既に始まっていたと思われる。
さて、話題は変わるが、目を凝らして井口村の地図を眺めると、池田、池尻、蛇喰、井口の地名が入り込んでいる。これは何かが歴史的にあったとの空想が展開する。まず、蛇喰(じゃばみ)というのは土木の専門家に言わせると、過去に土石流のあった跡地に共通して名づけられている、と言う。その先入観を持ってみてみると、土石流が流れ下り、被害を受けた地域一帯が浮かび上がってくる。それと地名の入り込み方から類推すると、以下のような仮説が浮かぶ。
①当地に大きな池があって、その東岸を「池尻」と言い、そこに井口系統が入植して「井口城」を建てた。
②その周辺を「井口」と呼ぶようになった。
③その後、大きな土石流が発生し、池は埋まったが、城は危うく難を逃れた。土石流地帯を「蛇喰」と呼び、後世に危険情報
を残した。
④その後、新田開発が進み、それを「池田」と呼んだ。
ということで、池尻、井口、蛇喰、池田の順で時代が下ると読みました(全く史的根拠はありません)。
「木曾義仲も中原系ですよ」(”九里を探して三千里”さんから)
との『ささやき』もいただき、これは頭に残った。確かに、義仲は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて木曾谷に逃れた、と言われている。そこで、その辺りの井口姓の分布も調べてみた。これは、面白い。表は長野県の分布を示すが、静岡県、新潟県にも多く分布している。結論を急ぐと、まず諏訪大社を起点とする天竜川沿いに、偏析地が並び、それは静岡県まで続いている(伊那谷沿い)。さらに、諏訪大社の西側の安曇野辺りに広がっているが、木曽地方に及んでいない。さらに新潟県では、長野県の遍在地からは少し飛ぶが、魚沼地方に相当遍在している。
現在の日本における井口姓の分布全体をみると、瀬戸内海-滋賀、岐阜、静岡、長野、新潟の帯に集中している。瀬戸内海各県を除けば、内陸側が好きな系統と思われる。単純に言えば、縄文系(+出雲系)の棲み処に重なっていることになる。と、さらにここで想像を逞しくすれば、系統は縄文系と和合した出雲系であり、早い時期に大和勢力と融和したルーツを持ち、その結果、井口中原系統は大和勢力によって出雲の聖地と定められた①大和の三輪山、②信濃の諏訪大社の周辺に押し込められ、二つの古代ルーツを持ったのではないか。押し込められても発展し、ここから、周囲に転進していったのではないか。①からは西(瀬戸内海)と北(近江、越中)へ。②からも南(伊那谷下り)と北(越後)へ。
すなわち、「近江国井口中原系図」では記録されていない前史が「井口中原系統」にはあり、それは天武天皇をはるか越えて遡るルーツをもつのではないかという飛び跳ねたロマンである。
それぞれの姓氏系統の歴史が文字で記録されるようになるのは、平安中期以降であり、それ以前はそれこそ口誦で伝えられた記憶しかなかっただろう。文字で記述できるようになるといい加減な話は難しくなる。できるだけ確固とした系図が必要である。そこで出発点をどこかの時代の天皇から始めるという「創作」によって、「血筋の伝統」をお化粧し、自らの精神の落ち着きを得たのではないかと憶測する。このお化粧はあらゆる系統に共通し、日本人の祖先はすべていずれかの天皇に遡ることになる。ごく冷静な頭脳で考えれば、幾代も血筋の純潔を守り抜くことは実質不可能である。人類とはそういうものだ。だが、すべてのホモ・サピエンスの原点が、遺伝子的にはアフリカの草原に出現したアダムとイブに行き着くということが科学的に明確になっている現時点からみると、荒唐無稽な創作と見るよりは、アダムとイブをより身近に引きつけて、素晴らしい精神の拠り所としたものとして尊重してよいのではないか。もし、将来、より精密な系図が明らかになる時が来たら、その部分だけ書き換えればよいだけのことだ。
長い時が過ぎて、平安後期となるが、宮崎三兄弟と諏訪周辺の井口系統とは、当時連絡つながりがあったと考えることも無理な話ではない。義仲が木曾谷に逃れたという木曾には、木曾谷以外の解釈があるようで、「安曇野の木曾」という話もある。義仲が金指党と結ぶということであれば、土地としては安曇野で出逢った方が都合良さそうである。金指大祝の指示の下、ここの井口と越中の井口(特に宮崎)は思いが通じ合っていた可能性が
あるということである。
以上。
田舎の2000年歴史ロマン24 越中における「井口」 終
サイト掲載日:2016年4月12日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明