田舎の2000年歴史ロマン23 九里の起源について

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン23

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九里の起源について


 北海道在住の方からメールが届いた。
「私の曽祖父は九里圭治と申します。我が家に古文書があったため、ルーツ探しをすることになりました。今日、長井様のHPに「九里」の事を発見し、また今まで知らなかった「佐味氏」の事も知りました。」
 ということで、以下の「近江国御家人井口中原系図」を教えていただいた。これをきっかけに、わが町の九里のルーツについても少し詳しく検討してみることにした。
 お互いに違った関心であっても共通のキーワードをもつことは、ネット社会の楽しみの一つだと思った。
 この方のブログ『【九里】を探して三千里 (http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/arcv/)』にも是非ともお訪ねされたい。
 (管理人談:本サイトのTOPページにもリンクを貼っていますので、そちらからもお訪ね頂けます。)


1.近江国御家人井口中原系図

一代目 天武天皇{686没}
二代目 舎人親王(第三皇子)
三代目 舩親王 太宰帥
四代目 葦田王
(四代目 栄井王 木工□)葦田王弟
五代目 豊前王 伊予守 氏部大輔
六代目 弘宗王 讃岐権守 丹後守 大和守 従四位下 越前守 母は佐伯君足女
七代目 長谷 文章生 従五上 讃岐権介 兄弟八人賜 中原真人 仁寿元年(851年)
八代目 長城 正六上 太宰少監
(九代目 是信 佐渡守)是俊兄
九代目  是俊 織部少□
十代目  俊興 散位 余語大夫 天慶二年三月住近江国伊香郡(938年)
十一代目 俊行 近江権介 押領使 従五下
十二代目 成経 従五下 丹後守
十三代目 俊元 伊香郡司 正六上
(十四代目 俊長 余呉大夫)成俊兄
十四代目 成俊 伊香三郎
十五代目 経行 押領使 越前権介 伊香郡司判官代 従五下
十六代目 光経 押領使 伊香大夫
十七代目 経盛 中(小?)大夫
十八代目 経貞 □□□守 甲斐?
十九代目 経賢 太郎大夫
二十代目 賢清 中太 (中原太郎・・長男の意味)
(二十一代目 景経)経任兄
二十一代目 弟 経任 橘次 改橘氏
二十二代目   経久 九里太郎 蓮忍入道 ≪九里の祖≫
二十三代目 兄 経重 九里左衛門
(二十三代目  経季 右馬允)経重弟
二十四代目   秀重 九里彦八郎 唐崎合戦討死(1331没)
二十五代目 兄 秀宅 弥三郎
(二十五代目  乗如 般童寺僧)秀宅弟
二十六代目   秀方 又左衛門 住熊野

以上が九里の祖とそれを含め五代分の系図である。


図 近江国御家人井口中原系図の1代当たりの平均年代

 「二十二代目 経久 九里太郎」が「九里の祖」ということである。この系図で年代が特定できる四点を使って計算すると、平均1代28年(右図)となり、比較的妥当な値である。世間では「一世代30年」が相場である。その結果を二十二代目に当てはめると1274年となる。鎌倉時代中期、いわゆる元寇「文永の役」の年に当る。この辺りが、この系図における「九里」の始まりと推定される。
 近江国守護は、佐々木頼綱の時代に当る。伊香郡、余呉などは、近江国、琵琶湖の東北側、越前との境界に当る地である。当シリーズ「⑤毛の国の豊城入彦命」で示した右下図の赤丸の場所にあたる。



図 伊香郡,余呉の地図

2.「九里」姓の全国分布

 例の「同姓同名」を使って、九里姓の全国分布を調べた結果を次の表にまとめてみた。改めて、現在の九里姓分布は、富山県朝日町に際立って密度が濃いことが分かる。正に右図のような伝播があったとも言える。表で「人数」というのは、正しくは「件数」である。
 北海道、東京、大阪は、明治以降の大量の移転があるので、特別な場合以外は、このような検討から外す。そうすると濃度の濃いところは、上から富山、滋賀、京都、奈良、石川となる。これらは、上図の北陸へ向かうルート上にあり、この方向への伝播は、朝日町で止まったように見える。京都、奈良は、滋賀発で上洛だったとみるべきかもしれない。








表 九里姓の全国分布



3.九里家と脇子八幡

 九里家は、朝日町では、脇子八幡、鹿島神社の宮司として、由緒の古い系統である。少し、復習をしつつ、九里家の到来時期を考えてみよう。


 八幡社は、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇と目される)を祀ったもので、571年に宇佐八幡宮、貞観元年(859年)に清和天皇が石清水八幡宮を建立(開山は翌年)したとされる。このように、大和系の神社である。


◆脇子八幡

 越中(こしのみちのなか)国は頸城郡や大沼郡をも含んでいたが、大宝二(702)年に新川郡と頸城郡との間を越中国境と定めた。大宝2年(702)に高向朝臣(たかむこ)大足が、越中越後の国境の鎮護の神として、現在の城山(八幡山)に誉田別命を祀ったとされている。時代からするとこの八幡は、本山である宇佐からの分祀とみないといけない。
脇子八幡宮が木曽義仲の時代に既にあった。脇子八幡は、天正年間(1573-1592)に元屋敷和倉(泊)に移り、享保2年(1717)の高波で大被害を受け、泊ともども移設し、1720年に現在地(泊1156番地)に移ったとされる。


【武運長久祈願の宮 脇子八幡宮のしおり】からの抜粋
①大宝二年[702]高向朝臣大足【たかむくのあそみおほたり】が越中・越後の国境を改めるために来て、神濟川(かんわたりか
 わ)(今の境川)をもって境界とした。そこで国境鎮護の神を境川近くに祀る必要を痛感し、今の朝日町の城山に脇子八幡を祀
 った。脇子八幡には誉田別尊、即ち応神天皇が祀られた。当時この峯を脇子の峯と称した。御祭神は寛平元年[889]に正六位
 上より従五位に叙せられた。
②なお、治承年間[1177-1181]に宮崎のサミの神を当宮に合祀している。この神は崇神天皇の皇子で豊城入彦命のことである。
 今日当地方に広く拡がり住んでいる佐味氏の祖神である。
③天正のころ[1573-1592]、この城には小塚権太夫が城主としており、家臣の水島兵庫を社殿に奉仕させていた。越中国に前
 田氏の勢力が及ぶと、この城を毀したので、その後は参詣者も稀となり、山麓の海岸に転築をした。このあたりに九戸の家
 があり泊と称していたが、当宮はこの泊の氏神と崇められることになった。前田藩はこの社を藩の東涯の守護神として境の
 関所の武士達に警備と営繕の責任を負わせていた。また社の前で市が開かれ、市祭が行なわれるようになった。町は次第に
 家数を増し、やがて山と海に挟まれたこの地が家を建てる空地もなくなり、隣接する西側の笹川沿いに移り住む者も多くな
 った。
④なお、現社家は城山御鎮座当時にも神勤し、天正の頃四代九里知海が泊で別当となり、今日まで続いている家である。


 今まであまり着目していなかったが、④にしっかりと書いてある。天正年間の遷宮より以前に脇子八幡に務め始めており、遷宮後に宮司(別当)になったのが、四代目だと。
 最初の図からすると、これは初代九里太郎からすると30代目前後に当てはまる。務め始めて四代目だとすると初代は、1460年頃となる。
 この時期の越中国守護は畠山氏だったが、越中一向一揆が文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、越中の瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となって猛威をふるった。
 小塚権太夫は、一向一揆が前田勢に沈静化されて、また上杉対応の必要もなくなった時に、浄土真宗の寺院(=正覚寺)を我が田舎に開いている。小塚党は武家として脇子八幡を守ってきたが、武家が去った後の脇子八幡はむしろ民衆の信仰対象として生き残ることになり、それを差配した指導者が、九里から出たのではないかと思われる。



4.朝日町における九里姓の分布

図 現在の「九里」姓の分布図

 現在の「九里」姓の分布は面白い。右図に分布を示す。小在池、坊、宮崎の三集落に集中している。
 神社との因縁の深い九里さん達は、宮崎地区に集まっている。脇子八幡は、一軒だけがその場所を変えていく。ということで、この宮崎グループは、室町の時期までに武士化した一団で、宮崎城に仕えたのではなかったかと思われる。
 主力は、地図では南側の「山崎地区」にある、小在池、坊に集中している。ここに集まっているグループは、古代道(想定)に沿った立地をしている。農業を生業として定住化した集団である。



5.九里はいつごろ佐味にきたのだ
  ろうか?

 山崎地区は、鎌倉時代に、敗北した宮崎党を一蹴した後、越中西側に勢力があった有力豪族である利波一派(武士団)が進出してきてその本拠地を築いたところと目される。この時期に、一緒に兵站部隊として到来したとすると、それは、近江九里系統の末裔であっても、矛盾は生じない。ここの地で勢力を蓄積し、室町時代にその一部が地方支配の一端を担うようになり宮崎に移ったということも可能である。


 そうではなく、もっと前から、すなわち佐味一族の一員として到来したとすると、近江九里系統の末裔という線はなくなる。その場合、どう考えるとよいのだろうか。
 近江九里系統と同じルーツを持つと考えることも面白い。古代における氏、苗字とは、現代の姓とは全く異なり、個人を特定するというよりは、血縁+地縁のつながりを確かめ合う符牒(合言葉)のようなものだったという。天皇から賜姓された場合は、トップダウンの社会的意味をもっていたが、一族郎党が守る氏、苗字はボトムアップの社会的意味があったのではないか。そうすると昔話を語り伝えるように、「自分たちは、九里だ」と語り繋いだ人たちがいたのではないか?
 大胆なひとつの仮説として、九里は佐味一族の首領として当地に到来し、常福寺古墳に祀られており、「佐味駅」の駅頭を務めた、というのはどうだろう。駅頭の所有田は、古代道沿いの一等地を保有した。このように、律令国家化の過程で、中央から派遣される中央役人の補佐役を務め、中央役人の守り神である脇子八幡の管理なども任せられていった。武家時代でも同様となる。
 派遣された役人は、任期が終われば、またどこかへ移る。どこかに移ることは分かっている以上は、そこで子孫を反映させる必要はない。一方、定住化すると食料確保のためには子孫を増やさないといけない。そのためには、田畑を開墾、耕しつづけるしかない。農耕の必要がなく、移住が前提となっている人達は、一族の数をある程度抑えておかないと破綻する。
 九里は古いルーツを持つが、行政(軍事)などの能力が長けており、農耕のために定住化する必要がなかったのかもしれない。ほぼ唯一、農耕定住化した越中の朝日町で人口を増やしたのではないか。
                                                      以上

田舎の2000年歴史ロマン23 九里の起源について 終
サイト掲載日:2016年3月15日
執筆者:長井 寿
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