田舎の2000年歴史ロマン22 佐味庄を考える(その3)

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン22

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佐味庄を考える(その3)


田舎の2000年歴史ロマン⑲ 佐味庄を考える(その2)で、以下のように書いた(一部、修正している)。
 私は、宮崎三兄弟が田舎の当時を理解するための大事なカギだと考えている。
  1)井口家は、砺波に都から派遣された豪族の系統で、その末裔の一部が佐味近辺に移住してくる
    すなわち、佐味系統ではない。越中西部豪族の勢力拡大(東進)とも言える。
  2)井口家の末裔と思われる系統が、「井ノ口」に井口姓として現存するので、そこが井口の旧拠点と目される。
    移住してきた井口家は、定住を選んだ。多くの来住者は、勢力を失うと引き払っている。
  3)宮崎三兄弟は、井口家で生まれ、宮崎を制するために、「宮崎」とみずから改姓した。
    すなわち、この頃、宮崎が佐味の中心地だったことを意味する。おそらく宮崎港が通商の要として栄えていた
    のではないか。
  かくして、佐味の支配者となるに、「井口」を捨てた。
  三兄弟は、「宮崎党」を結び、それぞれの支配分担を決めている
   宮崎太郎(統領として土地だけでなく、食料や工作品などの通商権なども独占)
   南保次郎(南保として、宮崎以南の平野部を支配)
   別符三郎(太郎の補佐として、旧佐味荘を統括)


今も残る「井ノ口」(集落)と「井口」姓

図 「井ノ口」の地名の残る周辺地図

 さて、地図を眺めていると「井ノ口」が今もあることに気づく。そことその周辺に、今も「井口」姓が住んでおられる。仮に、「井口」姓の現在の分布を「井口党」の勢力範囲とすると、以下の地図のようになる。「明日彦神社」を中心と見なすと分かりやすいが、この「明日彦神社」とは何ものなのかわからない。以前、勘違いして「少彦名神社」と思い込んでいた(一部の歴史書には、少彦名と書いてあるものもある)が、よく調べてみる必要がある。


 この地図の上(北)の方に、「大家庄」の名前が見える。これが、富山平野西部からの進出による「東大寺荘園」の名残りの地名である。井口党がその時代の「大家庄」の中で力を伸ばした一党ではなかったか。


 実は、次の図(以前示したことがある)でみると、縄文時代において(多分後期)栄えた場所とも一致することが分かる。その下に拡大したものを見せるが、縄文期からその後を継いだ弥生期までの遺跡と目される、朝日町では代表的な「不動堂遺跡」の間近でもある。この辺りは、歴史的に、自然の利に恵まれた土地であったことが分かる。 また、目を右(東)に移せば、南保の中心地となった「高畠」も至近である。
 平安期末期に宮崎三兄弟の時代がある。「大家庄」辺りで地力をつけ、まず国境の「佐味」を手中に入れ、終に黒部川東域(=黒東)を統一支配するようになっていった。その際に、北陸宮、木曽義仲が登場してくる。すなわち、宮崎三兄弟が全く独自に支配権を獲得した訳ではないことに着目しておきたい。この辺りの物語は別途紹介したHPなどに「文学的」要素も加えて楽しく述べられているので、あえて触れない。


図 富山県下新川郡朝日町の地図



宮崎三兄弟は誰を祀っていたか

 そこで、全く違った角度からこの時代をみつめてみたい。「宮崎兄弟の守護神は誰だったか?」などとこのような疑問を考える人はまずいないように思う。私が最初に違和感を持ったのは、宮崎太郎が宮崎の将来を担うことを誓い、「宮崎神社」で元服して「宮崎」に改姓したと言われていることだ。元服と同時に「生まれ変わって」いることが面白い。同時に「信仰」も変えた訳で、崇拝神を容易に変えるという文化がこの時代にはあったのかと思った。
 おそらく、前報で紹介した「武内宿禰」系統に井口(父方)、石黒(母方)が属すると思われるが、この系統には祖先神として武内宿禰は登場しない。すなわち、武内宿禰を祀らずに、それぞれ自分たちの祖先を祀っていたようだ。ということは、時代変遷と共に祖先神(=先祖)が不明確化して行っても不思議ではない。結果、誰を祀るかについては、柔軟で、最も「有利な」神様を選択しても問題がなかったのではないかと想像する。「宮崎神社」は現存しないと思うが、それが「脇子八幡」を指すものか、今は「鹿嶋神社」に合祀されている「宮崎の神」を指すものか、どちらかだろう。
 南部次郎は、後に、「高畠神社」を立ち上げるが、これは「新熊野神社」から分祀してきたものと思われる。どうも、南部次郎は早い時期に一度京に上り、そこの新しい文化に触れたのではないかと想像される。新熊野神社は、平安時代末期の永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された、熊野信仰の新時代版だった。もしかすると次郎が与えられた所領にあった「高畠神社」の前身が、十二社系の磐座信仰だったのではないか。それは熊野信仰に通じるものがあり、南部次郎は京の新潮流に肖ろうとしたのではないかと想像すると面白くなる。
 別符三郎は、どうも宮崎太郎と一緒に住んでいたが、後ほど、北陸宮の警護と旧佐味の実効支配を任されていたのではないかと思われる。北陸宮が持ってきた信仰は、正八幡社である。今は無いがこれが笹川の下流の北陸宮居館の近くに、随伴してきた長井某の管理によって維持されたものとされている。ということは、別符三郎もこの神社を祀ったのではないかと想像される。この想像が三郎を長井系統が吸収していったのではないかと思うひとつのきっかけとなっている。
 ところで正八幡社は、石清水八幡の分祀であり、宇佐八幡の分祀である脇子八幡とは別の系譜をもっている。宇佐八幡が石清水に遷座したのは、清和天皇の貞観2(860)年であり、これには、道鏡も関わっていたことになっている。清和源氏は八幡という起源である。これをもっても、長井が平家の末裔とはとても思い難い。
そして、面白い点だが、木曽義仲は、石清水八幡で元服(1166)している。


このように想像だが、三兄弟がそれぞれ全く違った神様を祀っていて、たまたま会う時には、それをお互いに自慢し合っていたのではないかと思われる。



北陸宮は、諏訪神社で元服する

 木曽義仲は、木曽の八幡宮で挙兵した(1180)と言う。なるほどそうだろうと思うが、それなのに、我が田舎にいた北陸宮を元服させる(1182)ためにわざわざ諏訪神社を建立する。並行して、脇子八幡の遷座(再建)なども行ったとされているので、なんで諏訪神社なのか???と疑問符がいくつもついてしまう。
 大和朝廷のかつての宿敵であった出雲勢力の代表のひとつである諏訪神社で元服させるというのはどうも異常としか思えない。木曽義仲はバカだったのか?と思ってしまうが、特別の理由があったことになるだろう。
 その理由として、挙兵を支えたのが諏訪系の地元豪族だったというのが一番わかりやすい。史料を眺めていると、どうも信濃大町に勢力を保っていた仁科氏が大きく関与しているようだ。仁科氏をもってくるまでもなく、信濃と佐味を結ぶ道筋が信濃からも佐味からも歴史的な生命連絡線だった。種々の玉の原石とその加工製品、海と山の特産物の交流が沿道の豪族達にとって蓄財の金づるだったことは想像に難くない。そうすると、それらの豪族間の交流、連絡、そして婚姻関係などが密接に継続し、発展していたとしても全く不思議はない。
 宮崎は、玉作りが絶えたとしても、海上の屈指の交易港としての地位は高かったろう。宮崎太郎も元服の際に、宮崎の権益の保護と拡大を誓ったのだから。
 信濃豪族を利用することはすなわち諏訪神社を利用することであり、さらに手っ取り早い上洛は、佐味勢力を利用することではなかったか。結果、木曾義仲は北陸道を利用することになる。


 もうひとつの疑問は、何故、北陸宮は宮崎の笹川に落ち延び隠れたのか?偶然か必然かと疑ってしまう。北陸宮は越前のどこかに隠れていたのをみつけて、宮崎に連れてきたとされている。やはり、ここにも仁科と宮崎太郎の関係性が見えてくる。「錦の御旗」を宮崎に連れてこようと言う話は、仁科と宮崎太郎の間で仕組まれたのではないか。その際に、どのような人脈を生かして、北陸宮に辿り着き、人質を得たのかということに興味が湧く。
 多分、宮崎の人々は、交易を通じて、京にそれなりに通じていたのではないか。また、佐味つながりがまだ残っていたとも考えられる。納税義務は破綻していただろうが、平安時代でも京への納税が義務だったはずだ。海路、陸路(北陸道)を伝う人間関係があったはずだ。そうでないと何日もかかる納税行路を生き延びることはできなかっただろう。


図 豊城入彦/佐味のつながりルート

右図は、以前作成した、豊城入彦/佐味のつながりルートである。人数は、長井姓の件数である。黒丸は、豊城入彦を祀る神社、十字印は、「佐味」地名の残るところである。


 宮崎三兄弟は、日本史に記録を刻んだが、木曽義仲の敗北(1184)と共に、散っていった。特に、宮崎太郎係累は他の地に移っていった。南保次郎係累や別符三郎係累はどうなったのだろう。従軍した者の多くは帰参せずにそのまま散っていったのではないだろうか。
竹内先生は、負けて隠遁のために戻ってきた者もいたはずだと考察された。その中で象徴的な例は、木曽義仲次男、義重は木曽から逃れて木曽軍の残党と共に、笹川の北陸宮の元に逃れ、姓名を変えて、笹川の民になって難を逃れたとされた。もし、そうだとするとどの系統にその末裔が当たるのか興味が湧く。
 そして、北陸宮は京に戻り、皇籍を離脱し、出家して生涯を全うした。
 その後、宮崎党の子孫の一部が、宮崎城を中心に勢力を残すが、承久の乱の中で承久3年(1221)に北条軍に対峙したが、負けて敗残したという。一部は、礪波八幡山へ逃げたという話も残っている。
結局、宮崎党は、頼朝、北条勢に利用された上で、滅ぼされた。



「木曽義仲」のもたらしたものは何か?

 「有史」に田舎が歴然と登場したのは、この事件が最古と言ってよい。越中-越後の境を定め、八幡社を鎮護のために置いた800年初頭から約400年経過している。
 その間に、おそらく水田開拓は進み、荘園が拡大し、それについて在所豪族も力をつけていったのだろう。そして朝廷および貴族の支配力が弱まり、武士団が経済をも支配するようになっていく様が、我が田舎では宮崎三兄弟の台頭と「木曽義仲」の挙兵への参戦だったことになる。
 もし、木曽義仲が権力を握っていて、北陸宮が天皇に就いていたら、田舎の歴史はどう変わっていただろうか?「聖地」のひとつとして崇められていたかもしれない。しかし、負けた。宮崎党の支配も承久の乱までだった。宮崎党の主力は、「安住の地」に移住(伊那地方)したが、一部敗残者は、家名を捨てて土着化した。


 この一連の歴史事件は、我が田舎に何をもたらしたのだろうか?
 この時期に少なからず京の文化の息吹がもたらされたものと思われる。私の田舎の方言には、京の宮中言葉が残存していると言われる。言葉の拡散については別の説明の仕方もある。京言葉は拡散していくが、東への拡散で我が田舎は、最後に行き着き、沈殿する場所なので、京言葉が残っているという見方である。この説明も合理性を持つ。
 だが、ここで見たように、直接京人間が辿りつき居住し、一部は土着化した形跡がある。そして確かに、閉鎖性の高い土地なので、その分、色濃くその当時の京言葉が残存していてもおかしくない。
 高校時代の国語の教師が、「長井は笹川か。尊敬の助動詞『す』(四段活用)が残っている珍しい土地だ」と言って下さった。そのとおりである。「○○をさす」とは、「○○をおやりになる」という意味で話す。「やらっせまん」とは「やって下さい」と言う意味である。とても局地性がある方言が含まれているということは、「流れ着いた先」説だけでは弱いのではないだろうか。
 暮らし方に何か影響があったのだろうか?それを考える手掛かりすらないが、今後、いろいろと思いめぐらしてみたい。
 ただ、祀る神様が「整理」されたことは大きい。佐味の祖先神だった豊城入彦命は、脇子八幡に合祀されてしまった。その代わりに、竹内には諏訪社、長井には八幡社が与えられたことになる。ここでかなり不思議なことが起こる。八幡社が長井のテリトリーではなく竹内のテリトリー内にあり、諏訪社が竹内のテリトリーではなく長井のテリトリーと折谷のテリトリーの間にできたことである。ただ、八幡社の世話は長井清左衛門が担当したが、諏訪社は折谷が世話している。これらの関係は極めて不自然なことになる。どうも諏訪社の世話をしている折谷家は、もしかすると木曽義仲由縁の系統ではないかと思われる。折谷姓を名乗ることで定住したのではないだろうか。当の折谷一族は、十二社権現を継続して祀っていたようである。
 そして、最も大きな変化は、「笹川」がこのタイミングで生まれたのではないかというロマンである。この話は次回に回すこととする。木曽義仲軍が「笹川」の整地をしてくれて、そこに竹内と長井が入植したというロマンである。
                                                  (本稿終わり)

田舎の2000年歴史ロマン22 佐味庄を考える(その3) 終
サイト掲載日:2016年2月26日
執筆者:長井 寿
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