田舎の2000年歴史ロマン21 越中開拓概観

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
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田舎の2000年歴史ロマン21

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越中開拓概観


 平安後期での宮崎三兄弟の出自を述べようとすると、近隣ひいては越中国全体の様子を考えないでは、突然、宮崎三兄弟が「佐味庄」に現れることになってしまう。三兄弟にも親や先祖がいる。どのような系列の中で宮崎三兄弟が登場してくるのかを遡っていくと、結局、越中国開拓史に戻らざるを得なくなる。ということで、この稿を用意した。勉強してみて気づいたことをまず書き留めておく。


 黒部川以東のいわゆる「佐味庄」は、古代の水田耕作開拓の歴史でも(他にもあるのでここでは“でも”と言っている)、越中の他の開拓地と比べて、かなり「異質な」要素をもっている。それが如実に表れるのが、越中国、越中藩、富山県の歴史書の多くにおいて、その具体的記述が他の地域と比べて極めて分量が少ないという事実だ。このように捉えてしまうのは、「僻地者」の僻みと言われてもその指摘は甘んじて受け入れるしかない。みずからが編んだ書物においても、みずからを「僻地」と捉えて出発するものも多いからだ。
 そのようにいくつもある歴史稿の中で、九里愛雄著「郷史雑纂」は、越中の「古代史」を地域に偏らず取り上げている。これも九里愛雄氏が「佐味庄」に由縁の人物であることに依ると実は内心思っている。
 だが、その「異質な」要素を長井がどのように捉えているかを知っていただければ、ひがみからだけではなく、「佐味庄」の勉強からこそ得られる独自の面白さがあることに同感いただけるのではないかと思う。
 九里愛雄著「郷史雑纂」を大いに参考にして考察するので、同書の該当箇所に長井がいくつかのことを書き足した文章を後段につけておくので、適宜ご参照いただきたい。既に同書の著作権は消失していることを申し添えておく。


 第一に、他の地では、開拓者の祖先が中央から派遣されたり、その末裔の者が東進してきたりしたのに、佐味庄は上野の毛野氏から派遣されており、開拓地を探し求めての挙句に当地に就いたとは思えない。同じような個所が、越後の佐味であり、そうなるとこれは越中対策というよりは、越後対策と見える。ただ、佐味氏は越前にその軌跡があると言われているので、その意味では東進している。
   ということもあり、水田開拓が始まったのは、時期的にも他の地より多少時代が下がるのではないかと推察される。


 第二に、他の地では、開拓地が大きな河川の下流の沿岸湿地帯を優先している。九里分類第二区など一部中流の沖積平地が含まれているが、「佐味庄」は「谷内田」開拓が優先したと思われることである。他の地の開拓地の立地条件は、前に紹介した「弥生時代の歴史」に述べてある最近の研究成果に極めてよく合致しているが、当地はその例外となる。他の地とは違った開拓技術を持った集団が着たと思われる。
 これが第一の特徴と重なってくる。すなわち、他の地では縄文時代人との勢力争いは起きにくい地勢柄であるのに対して、当地は縄文時代人との接触が不可避となる。


 第三に、これは第二とほぼ同じことになるかもしれないが、他の地域では出雲勢力との確執がほとんど現れないことである。九里分類第二区は、武内宿禰後裔氏族によるものとされているが、氏族の多さなどを鑑みるとこの第二区は、実は最も古くから水田耕作民が入り、出雲勢力との関係も深かったのではないかと思われる。そのような先人たちの中で、出雲系は地元自然神を加えて先住民と共に祀る傾向があり、大和系は祖神のみを祀る傾向がある。いずれも争わず、融合を優先したようであるので、その中心神社群に武内宿禰を祀らないのも当然かなと思う。または、武内宿禰は後世の創作であって、由緒の古い神社に祀られていないのは自然の成り行きという考えも持ち上がってくる。「古事記」、「日本書紀」以降に「思い出したように」武内宿禰を祀り上げたのではないか。
 「佐味庄」は九里分類の第六区になるが、ここだけは明らかに出雲勢力との関係性が見え隠れする。第六区は出雲と結んだ玉造り勢力の支配範囲にあった地域であったことは間違いがない。この点でも越後的である。


 第四に、これは後世の奈良期以降のこととなるが、他の地はほとんど東大寺との関係性を強めたのに対して、佐味庄のみは西大寺側に組み込まれた。


 以上をまとめると、黒部川東域は、出雲と強く結んだ玉造勢力が強い経済影響力をもっており、なおかつ縄文人が多く現存する山地森林地帯であったところに、大和政権が支配権を広げる対策を立てた。そこで、縄文人との最前線で開拓実績のある佐味一族を派遣し、谷内田開拓と出雲勢力の影響力をそぐ役割を担わせた、となる。このように佐味一族はやはり越中国では新参者であり、後世においては、隙あれば黒部川西側の旧勢力の進出を招くこととなる。



参考1:「郷史雑纂」が説く越中平野開拓史

(長井注:九里氏の文章の特徴は、あちこちに飛ぶということである。ここの記述は最たるもので、第一区から第六区まで分類して、その分類に応じてまとめてあるものと思って読むと全く理解できない。慎重に、どの部分にどの区のことを書いているのかを読者が分類しながら読むと、間違いなく系統的に書いてある。記述順番が整理されていないというだけのことである)


第一区 大彦命 後裔氏族
 大彦命は、第八代孝元帝の息子で、武内宿禰の祖父の兄である。命の後裔氏族は越中ばかりではなく、北陸全体にわたって栄えた。これはいうまでもなく、命が将軍となって、北陸へ向われたことによる。命の後裔に布勢氏がある。氷見郡の布勢郷はこの布勢氏一族の本拠地で、この郷の布勢神社(氷見市布施1826、梅鉢)は布勢氏の祖大彦命を奉加した神社である。
 大彦命の孫に彦屋主男心命と磐鹿六雁命があるが、彦屋主男心命は公の祖で、磐鹿六雁命は臣の祖であって、射水郡の道神社(射水市作道1846、十六八重菱菊、元古墳、道君は加賀南部から移住)にはこの彦屋主男心命を祀ってある。
 婦負郡の多久比禮志神社(たくしひれ、富山市塩690、三つ巴)には、磐鹿六雁命を祀ったのではあるまいか。「神名帳考証」に大彦命とある。しかし、拷領巾(たたひれ)をかけて調餞を職とせる膳臣の氏祖をよって一族の分布が察せられる。
(以下は第五区のこと)
 この布勢族の一部が、拓地の関係より第五区族の黒部流域地方へ移住して、おのが氏を地名に負わせて布勢郷と呼んだのであろう。「延喜式」に布勢駅とあるもまたこれである。もとの居住地で祭祀していた祖神大彦命を、この地にも祭祀した。これが布勢神社(魚津市布施爪947、梅鉢)である。布勢氏には丈部という部民がある。「正倉院文書」天平寶字二年(758)の国司牒に、この部民を越中に乗せている。黒部の東岸に丈部郷がある。かならずここに居住していたもので、布勢氏に隷属して開拓に従事していたのであろう。天平勝寶元年(754)の総券に、丈部村皆伝三十六町四段九十歩とある。が、天歴四年(951)の総券に丈部庄田九十町八段百十六歩とある。着々開墾が進んだことが明瞭である。神護景雲元年(768)の越中の国司解文に丈部村神の分三段とあるが、これはこの布勢神社の領地であったろう。


第二区 武内宿禰 後裔氏族
 武内宿禰は、第八代孝元天皇の息子彦太忽信命の孫で、彦太忍信命は大彦命の弟である。武内宿禰の後裔氏族は、越中に最も栄えた。これも、武内宿輔の北陸視察が原因となっている。宿禰はいかに大きなカを越中に用いたかが察せられる。
 武内宿禰には七男があった。長男が波多八代宿禰、二男が許勢小柄宿編、三男が蘇設石川宿禰、四男が平群郡久宿扇、五男が木角宿禰、六男が葛城襲宿禰、七男が若子宿禰である。
 長男の波多八代宿禰は、臣・波多臣等の祖である。氷見郷に箭代神社(氷見市北八代787、箭違い)がある。この所在地は波多氏の耕地で、祭紳は八代宿禰であろう。「神社厳録」に葛城襲津彦とあるが、いかがか。砺波郡の八田郷は波多郷で、氷見郡の波多氏の一族が、分裂してきた郷ではあるまいか。なお砺波郡には拝師郷もある。林臣の住んだ地であろう。その地に林神社(砺波市林525、輪宝)もある。祭神は「神社要勘」に波多八代宿禰とある。
 二男の許勢小柄宿禰は、川上氏の祖である。砺波郡に川上郷がある。延喜の「官倉叉替記」に川上村がある。川上氏に縁があるのか。
 三男の蘇我石川宿禰は射水郡国造大河音足尼の親で、大河音は射水氏の祖である。武内宿禰の後裔氏族中、越中ではこの射水氏が最も勢力があった。天平勝宝四年(753)の越中の国牒に射水郡三島郷戸主射水氏があり、また「官倉交替記」に擬大領従八位下射水臣常行があり、また仁和二年(887)紀に新川郡擬大領正七位上伊彌頭臣眞益などがある。また宿禰姓を賜ったものに、康平二年(1065)越中の大掾射水宿禰好任がある。この射水氏の勢力は、加賀の国境より黒部の流域まで及んでいた。黒部流域以東は、頚城国造の治所であったらしい。この蘇我石川宿禰には、射水氏の外に田中臣・石川朝臣・久米朝臣などがある。天平神護の国解に田中氏あり、天平宝字二年(758)の総券に石川朝臣豊成というものがある。これらの氏族も開拓に従事していたのであろう。豊成の所有土地があった。射水に久目神社(氷見市久目3229、木瓜)がある。祭神を「諸国神名帳」に久米氏の祖大来目命としてある。が、あるいは蘇我石川宿禰ではあるまいか。「姓氏録」に久米朝臣は、武内宿禰の孫稲目宿禰の後とある。
 五男の木角宿禰は坂本臣や白城宿禰などの祖である。砺波郡に坂本駅があり、また白城駅もある。これらがその居地と思われる。
 六男の葛城襲津彦は、生江臣や布師首などの祖である。天平神護三年(768)の越中の国司牒に少初位上生江臣村人があり、射水郡に布師郷がある。この葛城襲津彦を、氷見郡の箭代神社に鎮祭したのは、あるいはこの生江・布師の二氏族で、地名の八代を社名に負わせたのではあるまいか。氷見郡の阿怒郷がある。「萬葉集」に射水郡大領安努君廣島なる人も見えている。氷見郡はもと射水郡の域内であった。「日本地理志料」に、安努氏は、なんによって云ったかは知らぬが、天暦四年(951)の「東大寺封戸目録」に、阿努郷五十戸とある。阿努はまた阿尾とも云って、「萬葉集」に英遠とあるのはすなわちこれである。この阿尾付近には実に武内宿禰後裔の、各氏族に密接なる関係があったところらしく想われる。
 (武内宿禰を祀る神社がないことを九里は不思議に思っている)
 武内宿禰の後裔氏族が蕃衍した跡を訪ねてここに至ったが、実に了解に苦しむことがある。それはこんなにも栄えて権勢があったにもかかわらず、その祖廟が無いことである。越中の開発については、大国主命の御功績はある、大彦命の御功績もある、吉備武彦もまた功績があったろう。しかし武内宿禰の御功績に至っては、実に偉大なるものがある。その偉大なる御功績ある、武内宿禰を鎮祭せる神社がない。余は決して無いはずが無いと思う。国幣射水神社(高岡市古城1-1、八つ花形に稲穂、瓊瓊杵尊)の御祭神は「神名帳考証」に大河音足尼といっているが、一歩進んで大河音が創設した神社であると想う。ただしその以前からあったものを、国造が奉仕するようになったこととも察せられる。このように御祭神は武内宿禰であると想うのである。しかし直覚的にかく思うので、なんの徴証するところも無い。おおかた諸賢は否定されるであろう。さて天平神護の国解に、須加庄・成戸庄・鹿田庄などがあるが、氷見郡と射水郡のいずこかにあった庄で、これも当時既にあった墾田地と見てよろしい。


第三区 日子刺肩別命 後裔氏族
 「古事記」に、日子刺肩別命は大彦命の叔父と言っているが、一説に大彦命の叔父稚武彦はすなわち日子刺肩別命で、吉備武彦の祖父であると云っている。余もまたこの説を採るのである。
 (以下は第二区のことである)
 第二区の砺波平野には、他氏族の拓地が無いではないが、その多くは砺波氏が開拓せるもので、砺波氏の独占地と云っても過言ではあるまい。砺波郡には荊波神社(うばら、砺波市池原南山601、三つ巴)があり、「萬葉集」に夜夫奈美の里があり、天平寶子三年(759)の総券に伊加流伎野地がある。天暦四年(951)の封戸目録に、狩城とあるはこの伊加流伎のことであろう。今これらの名義についての先賢の諸説を総合して考察するに、砺波の地は木竹の叢生せる荒野で、鳥獣の巣窟であったのであろう。砺波は鳥網(となみ)で伊加流伎は狩猟するところを言ったのであるらしい。これをもって古代における平野の状態は想像できるだろう。
 神護景雲(767-770)の総券に、伊加流伎野に八段三百四十歩の墾田ができた。天暦四年(951)に至って、石栗(いざわ)に百二十町、井山に四十町の墾田ができている。実に広い耕地のできたことになる。天平勝宝二年(751)に国守が砺波郡の墾田地調査をやっている、国守が砺波郡の開拓を怠らなかったことが窺われる。
 砺波氏には天平十九年(748)紀に砺波臣志留志に従五位を授くとあり、また天平勝宝六年(755)の「官倉交替記」に砺波少領従五位下利波臣虫足があり、また宝亀二年(771)に同軍大領正〇位利波〇眞公あり、延暦十年(792)同軍擬大領正六位上利波臣大田があり、大同二年(807)に擬大領従八位上利波臣田人があり、また同年に擬少領利波臣豊成があり、天長七年(831)に擬大領正八位下利波臣安眞があり、元慶七年(884)に擬少領従八位上利波臣氏高があり、延喜十年(911)に擬少領従八位上砺波臣保顕や擬少領従八位上利波臣春生がある。もって代々砺波氏が、砺波郡家に居て郡政を執って居たから、権勢があったことは明晰である。その族類の繁衍せることも、また推して知られるのである。その郡家は、荊波村にあったと思う。「萬葉集」に国守が夜夫奈美の里の主帳の家に宿泊せることを書いているが、主帳は群家の役人である。この荊波に在る荊波神社は、砺波氏一族の宗廟で、いうまでもなく日子刺肩別命が祭神である。一説に荊波は利波の誤りであると。


第四区 可美眞手命 後裔氏族
 可美眞手命の子彦湯支命が、近江の川枯姫を妻として出石心大臣を生んだ。出石心大臣が、新川小楯姫を妻として大矢口宿禰を生んだ。大矢口宿禰の孫は伊香色謎で、これが大彦命の弟開化帝の皇后で、崇神帝の母である。さて彦湯支命の妻の川枯氏の後裔が、第五区の黒部流域地方の上部すなわち布施郷と丈部郷の東南部を開拓した。これがすなわち川枯郷である。
 また伊香色謎の弟に伊香色雄というのがあった。その子が大新河命である。この大新河命かまたその後裔かが新河郷を造った。新河郷は第三区の常願寺流域地方である。新河の郷名が後に郡名となったところより考察するも。砺波氏と同様権威のあった氏族であることが明瞭である。またこの流域地方に長谷郷もある長谷部氏は大新河命より出た氏族である。この氏族の開拓地であろう。
 「大同方」に新川宿禰佐美麿なる者が見えているが、大新河命の後裔であることは勿論である。この地に新川神社(富山市新庄町2 丁目13-47,鷹の羽違い)がある。新河氏の祖霊社である。
 (物部氏のこと)
 大新河命は物部連姓を賜った。物部氏から三島氏が出ている。射水郡に三島郷がある。天平宝字三年(760)の「越中国解」に三島縣主宗麿なる者がある。この族類の人であろう。射水郡に物部神社(高岡市東海老坂字川田1068、梅鉢)がある。これは物部氏の遠祖美眞手命を祀ったので、物部氏より出た新河氏や川枯氏・長谷部氏・三島氏等の大氏神である。この物部神社の鎮座地は、物部氏の本貫地であったことはいうまでもない。


第五区 天押日命 後裔氏族
 (第五区の中心勢力は既に第1区の項で触れており、その他の氏族で第五区と関係するものを紹介していることに注意)
 天孫の降臨に陪従せる天押日命より大伴氏が出た。「大同方」に新川郡領大伴臣なる者がある。越中の大伴部を率いていたのである。「類衆國史」に弘仁十二年(822)大伴宿禰を改めて伴宿禰と称す、人名地名共に廃すとある。これより大伴郷が伴郷となった。
 大伴氏から佐伯氏が出た。「官倉交替記」に佐伯宿禰という人が見え天平神護三年(768)の国司牒に、佐伯宿禰御形という人も見えている。
 また日理(わたり)氏が出た、「延喜式」に日理湊があって、敦賀までの船賃を書いている。今の伏木港である。古駅もまたここだった。
 (以上は第一区のこと、以下は第三、四区のことである)
 さてこの天押日命の後裔氏族中、大伴氏も新川郡領となったほどであるから栄えたことと思われるが、最も栄えたのは佐伯氏である。佐伯氏は第四区の中新川郡平野を独占していたようである。この平野に日置神社(立山町利田日置104、桜)がある。これがこの後裔氏族の祖廟で、天押日命を奉祀している。元来日置は「出雲風土記」に言うがごとく、戸君(へぎみ)で戸籍の校勘を職としていた。この地の佐伯氏は、多くはこの職を報じていたから、祖廟を日置神社と称したのであろう。付近に日置職の職田すなわち日置田の地名が存していまいか。「後宇陀帝の御領目録」に日置神社年貢萬匹とある。これ近世のものなれども、遡らして古代における平野の墾田状態をおぼろげながらも推知せられるでもない。


第六区 豊城入彦命 後裔氏族
 大彦命の弟開化帝は、大新河命の伯母伊香色謎を皇后として崇神帝を生まれた。豊城入彦命は、崇神帝の第一の皇子で、弟の大入杵命は能登の国造である。婦負郡の姉倉比賣神社は、「越中史」に石動山の権現とは陰陽の神であると言っている。能登の石動山の神はこの大入杵命である。と、故栗田博士が言っておられるからこの妻神であろう。越中には何か縁故があるのではあるまいか。
 さて豊城入彦命の四世の孫が荒田別で、荒田別が毛野氏の祖となったのである。毛野氏から佐味氏がでた。また大野氏も小野氏も車持氏も毛野氏から出たのである。吉彌候部氏は毛野氏の部曲の後裔で、岩瀬氏はこの吉彌候部氏からでた。天平宝字三年の越中の総券に上毛野眞人があり、砺波郡に大野郷があり、小野郷もある。同総券に小野朝臣も見えている。「萬葉集」に大野路がある。
 天長六年の越中の俘囚に吉美候部江岐麿なる者がある。新川郡の石瀬は石瀬氏の居地であろう。石瀬には古駅もあった。また新川郡に車持郷であり、「萬葉集」に車持娘子という者もいる。この郷の人ではあるまいか。砺波郡に川合駅があり、婦負郡に川合郷がある。これらも毛野氏からでた川合氏の居所であろう。
 (以上は第六区とは関係ない)
 しかし以上の各氏族中最も権勢ありしは佐味氏で、第六区の境川以西の沿海平野すなわち佐味郷がその根拠地で、古駅もまたここにあった。越中の他の古駅の伝馬は五疋であった。が、この佐味駅ばかりが八疋で、朝集使が越後へ行くにはこの駅から伝馬に乗ったのである。この地にまた一族の祖廟もあって、豊城入彦命を奉祭していた。今は、泊の八幡宮へ合併されている。が、跡地を今に才の神と呼んでいる。才は、佐味の訛りであることは勿論である。「大日本史ノ国郡史」に、佐味はすなわち佐味氏の所居で越前の足羽郡の解に見えている。とある。天平神護二年の足羽郡の解に、正六位下佐未朝臣吉備麿とある。越前にはこの氏人が多いが、この郷はこれら佐味氏族の開拓地であろう。宝亀年中の「西大寺寶財帳」に新川郡佐味荘の田園一巻とある。が、もってはやく開墾されていたことが明晰である。



参考2:長井が独断と偏見に基づいて図示した九里分類六区と古代道駅の設置場所

 青色域が、各区に想定したところ(六区以外は、主要河川下流、沿海部、平地湿地帯を想定)
 赤丸が、各区の中心神社の位置(比較的標高の高いところに立地しているようだ)
 黄四角が、古代道の駅の想定位置(“白城”は描いていない)
 これらの対応関係が意外と良いというのが実感。


図 九里分類六区と古代道駅の設置場所

田舎の2000年歴史ロマン21 越中開拓概観 終
サイト掲載日:2016年1月12日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明