田舎の2000年歴史ロマン⑳ 「弥生時代の歴史」を読む

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン⑳

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「弥生時代の歴史」を読む


 藤尾慎一郎(国立歴史民俗博物館)著、「弥生時代の歴史」(講談社現代新書, 2015年8月20日発行)を読んだ。
 自分の中では、小中学校の教科書で習った「登呂遺跡」がそのままほぼ弥生時代の水田耕作イメージになっている。弥生式土器の現物や写真をたくさん見てきたが、しかしそこから当時の生活実感を掴めるほどの力は持ち合わせていない。縄文時代もしかりで、狩猟、採集と、縄文式土器のイメージしかなく、そこから当時の生活実感を抱くことはまずない。「縄文」、「弥生」というのは自分にとっては、社会科の試験の答案に書く「文字」以上の実体的意味は持たない。
 また、田舎の越中および朝日町では、弥生土器が縄文遺跡跡から発掘されても、独自の弥生遺跡はほとんど発掘されていない。すなわち、田舎では遺跡的には弥生時代は空白となっているので、余計に実感が伴って来ない。



1.縄文時代のおさらい

 ところが近年、これらの日本の前史時代の研究が進んでいる。丹念な発掘による記録の積み上げと、科学的方法を駆使した、いわば「証拠調べ」の積み上げの賜物ではないかと思う。テレビっ子としては「科学警察」の「証拠調べ」と同じような感覚でとらえてしまうが、その分だけ「生活実感」が浮かんでくるようになった。いわば「古代史のエンジニアリング」の時代が到来したように感じるのは自分だけだろうか。


 ここでわざわざ「古代史のサイエンス」ではなく「エンジニアリング」と言うのは、人類の歴史を科学的にひも解くのを「サイエンス」とすれば、その成果を現代および未来の在り様にフィードバックしていく視点をより強く持って欲しいからだ。「昔はそうだったんだ」の知識だけで留まるのは「サイエンス」にとっても心外だろう。「温故知新」こそ歴史学の真髄という話は学生時代からよく聞かされたものだ。だが、この真髄を発揮するには相当の目的意識が必要であり、そこには価値観も伴うことになる。さすれば割り切って「(古代史の)エンジニアリング」を標榜してもよいのではないかと考える。実はそのような視座の構築を念頭において、この田舎シリーズを展開しているつもりだ。


 近年の縄文研究の成果の中で自分が最も驚くことは、縄文人は、狩猟・採集を基本とするも「定住社会」構築を志向したということだ。これはすなわち〔自然力との共生〕を求めたことになる。〔自然力との共生〕とは「自然との共生」とは少し異なる。すなわち、ありのままの自然を受け入れるのではなく、「自然の自己再生力」を伸ばし、その範囲内で生活の充実を意識的に求めたとする見方だ。例を挙げるとすれば、栗林を造林し、おそらくその中で優良品種を伸ばすなどして生産効率を高めることで、集団定住化を進めていったということだ。これは耕作そのものとも言えるが、周りの自然の形そのものを人為的に変えることがないという点で、「採集」段階としておいて良いだろう。また、これを現代と比べて「遅れた技術」と見下すような見方は避け、むしろ「洗練された先端技術」と見た方がよいと思う。


 産地が限られる黒曜石などが広く縄文遺跡に分布している説明として、縄文人のそれぞれの一群があちこちに移動することによって広まっていったとしてもよい。しかし、それぞれの一群が「定住化」を志向したとすると黒曜石がそれとして独自に拡散していったことになる。その説明としては、それぞれの一群が限られた山地に採集に行ったか、ある人たちが「行商」したか、もしくは、集団間での物々交換によったか、・・・などが考えられる。ここで、少なくとも「情報」の「拡散」「交流」が集団間にあったことが分かる。
 前に紹介した藤田富士夫さんの著書を読んでいて、注目したことのひとつは、「縄文尺があったのではないか」というご指摘だった。これは、縄文遺跡の家作における例えば柱の間隔などにほぼ全国共通の基本長さがあったと思わざるを得ないほどの共通性があるということだ。これを自然発生的な共通性のある知恵と言うこともできるが、一方、「情報」の「拡散」「「交流」が集団間にあったとすることと矛盾しない。
 さらに、今年読んだ新聞記事に、縄文人のDNAには地域性があったことが明らかにされたとあった。これは「定住化志向」と合致する。全国共通性の高いDNA分布ではなく、地域性が明確だったということは、血縁的な交流が限られて、それぞれの集団が長い年月にわたって「独自に」発達したことを想定させる。
 それぞれの集団が〔自然力との共生〕を達成して「定住化」し、血縁的にも独自性を保つが、『文化』の交流は広範囲であったという縄文時代のイメージが形成されていく。そうなると、このような状況に見合った「宗教的」在り様があったことになるだろう。ここからまた新しい興味が湧いてくる。おそらく、八百万の神の土台は縄文期に形成され、それがその後の人たちにも精神的には継承されていったものと想像する。その点で「定住化」が極めて大きな要素になるはずだ。自然の大きな姿は、そこに住む人が変わっていってもまずは不変である。「定住化」する人々は、そこの地の自然の大きな姿に圧倒され、馴染んでいくものだ。


 国土の大半は森林に覆われているのが「生活風景」の基本であり、当時の「まほろば」は「たたなずくあおがき」だった訳で、水田が平地に広がる田園風景は現れていない。水田風景が広がり始めたのが弥生時代の始まりである。水田づくりは当時としては先端技術の輸入であり、これは日本各地において、自然発生的にあちこちで始まったという訳にはいかない。どこから始まり、どう広がり、それが地域的にどう違ったのかを概観させてくれるのが本書の魅力であり、そこから縄文から弥生への転換を現実的にイメージできることになる。



2.本書のポイントに強い共感を覚える

 本書は縄文時代の生活の在り様を上記のように描いている自分の疑問や基本的考え方に対して、弥生時代がどのように展開するかについて、極めて的確に確からしい答えを与えてくれる。p.44にひとつの総括的意見が書いてあるので、少し長くなるが引用してみたい。・・・は(略)であり、小生の処置である。


 「日本列島で最初に水田耕作が始まった九州北部・・・登場するのは朝鮮半島南西部から海を渡ってきた水田稲作民と縄文後・晩期からこの地で暮らしていた・・・在来民・・・。水田耕作民は、・・・作物がコメだったというだけでなく、稲作を効率的に行うために適した労働組織や物資交換の仕組みを備えた人びとである。・・・一方、在来民は、特定の食料に頼らずに採集・狩猟・漁撈などあらゆる食料獲得手段を駆使して生活する点に特徴を持つ。・・・在来民は、・・・採集・狩猟・漁撈に農耕を加えた・・・園耕民であったと予想されている。園耕民は・・・平野の中・上流域を中心に暮らしていた。・・・水田耕作民が下流域で暮らし始めるまでの約6000年間、下流域は在来民にとっては魅力のない土地だった・・・」。


 このような縄文と弥生の「棲み分け」がその生活様式からの必然として始まり、この「棲み分け」が利根川以西では基本的だったということだ。水田耕作は、このように西から東に拡大していく。利根川以北では、縄文人がみずから稲作を始めた形跡が認められるそうである。
 下流域の低湿地が水田の好適地だった予想されている。縄文海進で一端海没した沿岸森林が地球の寒冷化に伴い再度地上に戻り、そこに低湿地が日本沿岸のあちこちに形成されたと推測されている。さらに、有力河川下流域での氾濫等によって形成された平地域、河岸段丘に伴う水源確保の容易な平地などが格好の水田開拓の対象になったのではないか。


 いずれにせよ少なからず「森林を切りひらき、そこに水を引いて水田を造る技術が高度なものである・・・が、・・・自然を大規模に改変する発想・・・縄文人には食料を獲得する目的で大幅な自然改変を行うことはない(P51)」ので、縄文人の気が変わったということはまず考えにくく、朝鮮半島南部からの到来人による仕業とするので納得できる。これに付随に宗教的にもその分だけ「異質な」ものが入ってきたと思われる。


 さらに、この著者の観点に大いに賛同できるのは、
 「精神的な転換を伴う水田耕作をこのように一度始めてしまえば、あとは何が何でも水田耕作にしがみついてコメを作り続けるしかなくなる」(p.51)
ということである。


 安定的に高効率に稲作が可能な地に辿り着けば、水田耕作民もまた「定住化」するはずだ。大胆に言えば、そこにしがみつく耕作民で子孫が絶える家系があっても、その耕作地を譲り受け、耕作を継続しただろう。したがって、血縁の継続よりは耕作地の継続が優先されたに違いない。ましては、ある縁で集団をなして開拓すれば、開拓した耕作地を継承するために、集団の中の個々の家の存続が養子縁組、婚姻関係の樹立などを通して、図られたものと私は考える。


 さて、縄文時代での定住化では貧富の差が大きく拡大する基盤とはならなかったが、弥生時代の定住化では富の蓄積が進み貧富の差が拡大する基盤ができることになる。これが次の段階の歴史を準備する。しかし、この時代の変化は、利根川以西で顕著となり、以北の東北地方などでは多少進行が遅れたようである。平野下流部で水田耕作民がより隆盛になり人口も増やすが、上流部の園耕民の相対少数化が際だっていくことになる。
 このようにして、縄文人の生活様式を受け継いだ“ヤマのひと”と東北地方の“蝦夷”が、到来して土着した水田耕作民からみて「異質」の存在になっていったのではないか。


 本書では、弥生時代は、紀元前950年頃から紀元250年頃まで、古墳時代の前までの1200年間と整理されている。そして、この期間を通して、全国規模で見ればいわゆる縄文文化は併存し、縄文文化の明確な影響は、東北北部、北海道では現存したものとしている。
 まだ、中央政権に連なる系統は現れないが、地方地方にそれなりの豪族が現れていくのは水田耕作民の文化と生活力からして必然だったのではないか。それが古墳時代の到来の基礎となり、ようやく「古事記」の時代に重なっていくのではないか。
 宗教的な観点から見ると、縄文人のそれは純粋に自然神であったものが、弥生人のものは稲作の豊作を司る力のある自然神が中心に据えられていったと想像する。そこに祖先神が重ね書きされるようになるのは古墳時代を待つことになろう。



3.富山平野の弥生時代は?

 本書では残念なことに、越の国(越中、越後)の弥生時代に関する記述は希薄である。富山平野では、弥生遺跡が発見されていないので無理ならぬことだが、富山平野でも明らかに水田耕作はこの時期に行われていたとされている。


「郷史雑纂」(九里愛雄)は、戦前の執筆なので、ここで述べたような弥生時代の歴史を背景に考察することは叶わなかった。そこで、古事記、日本書紀の記述を基に「古代」を整理している。しかし、現代まで残る土地土地との対応関係を念頭に整理しているのでその点で具体性が保たれている。
 そのあらすじは、出雲勢力の強い地方であるため、大和勢力の進出が遅れ、「四将軍」の派遣と整合するように、富山平野開墾の歴史が始まるとなる。その見方と、本書「弥生時代の歴史」の基本的視点と整合するように纏めてみると、以下のようになる。


 弥生時代が進むと共に、元々出雲勢力の影響力が強かった越の国でも、黒部川以西での低湿地帯への水田耕作民の進出が進んで、水田耕作民の勢力を確実に拡大した。しかし、それでも出雲勢力の影響が特に根強い黒部川以東の領域を中心に「未開でまつろわぬ人々」の領域が残ったのではないか。時代が移り、「蝦夷」平定に名を借りた権力派遣の対象となり「四将軍」の派遣、さらには、谷内田開拓に長けた勢力が「派遣」される時代がやってきて、黒部川以東の水田耕作が展開されるようになったのではないか。それは、弥生時代であってもその後期であり、もしくは古墳時代に入ってからの可能性が高い。いわゆる僻地であっても、軍事上の要所を確保する必要性が生じるのは、中央集権化が進行する時代背景がないと説明しにくいからである。


 以上が、本書を読んであれこれ考えた今の段階での「結論」である。今後、さらに縄文時代や弥生時代、さらには古墳時代の研究。分析が進むと思われる。同様の研究が朝鮮半島でも進むだろう。時代が相当数んだところで前史時代が具体的に掴めるようになるというのは実に面白いことだ。
                                                 (本稿 終わり)

田舎の2000年歴史ロマン⑳ 「弥生時代の歴史」を読む 終
サイト掲載日:2015年12月22日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明