田舎の2000年歴史ロマン② 道のはじまり(1)

田舎の2000年歴史ロマン subtitle画像 田舎の2000年歴史ロマン title画像

※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン②

※全ての図表は左クリック"1回"で拡大表示します。
表示された画像を拡大・縮小操作した場合には左クリック"2回"で、そのままの場合は左クリック"1回"で閉じます。

  

道のはじまり(1)


    

 インターネット時代は、結構面白い。一番面白いと思うことは、いろんな考え方に直接触れることができるので「自学自習」のための参考情報を発掘できること、それと同じことかもしれないが、自分が体験できないこともアップされた写真等を通じて疑似体験できることだ。かといって、いただいた情報を無条件に受け入れることは避けるべきで、それなりに検証作業をすべきなことは言うまでもない。ただ、情報ごとにいちいち真偽を議論していると分析が発展しない面もある。まあ、万全はないという前提で作業を進めていき、時々、振り返って不十分点を修整、補強できれば良いくらいの気持ちである。

 さて、この田舎シリーズは、「富山県下新川郡朝日町笹川」の2000年歴史ロマンであるので、参考情報は富山県発信のものに自然と偏っていくし、それらの『篤志家』の業績を尊重しないのは失礼にもあたる。だが、すべての篤志家の業績を発掘できている保証もないので、何を参照しているかを予め紹介しておきたい。至らないところは長井の力不足、不徳である。

◎古代からの解説
 富山県生涯学習カレッジ本部
 http://www4.tkc.pref.toyama.jp/toyama/topics_detail.phtml?Record_ID=5436745f641033c77f20662514e3f6be
 第1回 道のはじまり 藤田 富士夫さん

     
富山県下新川郡朝日町の地図

◎大和政権以降の解説
 『向井さんのページ』
 http://www.nsknet.or.jp/~fmukai/
 の二つを大いに参考にさせていただいている。

◎越中古代史については、これ以上の名著はない。
 「郷史雑纂」 九里愛雄 著; 馬鬣倶楽部; 昭和17年
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042125

朝日町の地勢

 「富山県下新川郡朝日町」を東西南北に四分割すると、北西四半部は海、南東四半部は山間地、南西四半部は平地、丘陵(山間地と平地の間)、北東四半部は、山間地とその裾野である海岸線に分かれる。平地は黒部川扇状地の一部である。我が田舎の「笹川」は、丘陵と山間地である。丘陵は明らかに断層活動によって形成されたもので、一応富山平野は大断層の地殻変動ごとに富山湾に沈んでいっていると教わった。等高線図を眺めていると、扇状地に数メートル高さの断層が生じたが、それが気候変動、地殻変動などを経て海面下で均され、その後海面が後退して扇状地が現れたと思われる地形がくっきりと見える。その最大海進線は約50メートル海抜線と目されるので、上記の平地の縄文遺跡は地質的には全く新しい時代である。


縄文遺跡の密集地だった朝日町

 縄文時代は、約1万6000年前から、約3000年前の時代とされているが、前期(約7,000-5,500年前)、中期(約5,500-4,500年前)、後期(約4,500-3,300年前)、晩期(約3,300-2,800年前)と言われる時代まで遡ってみてみよう。
 現在の海抜で言うと、50m以上の平地と約200mの丘陵、さらに山間地裾野海外線にそれぞれ縄文遺跡が密集して、縄文遺跡の上にある町と言われるのが朝日町(図参照)である。
 富山平野では、前期遺跡は海岸線沿いとされ、中期では台地集落、後晩期には低湿地や山間地裾野海岸線に特徴的に現れると分類されている。


(1)前期
 朝日町では、平地は縄文海進(約6000年前、場所によって違うが2-3mは海面が高かったとされている)の海岸線近く、近くと言っても多少の海抜がないと冬季の20-30mを越える高波を逃れなかったと思われるので、50m以上の平地に沿ったのかもしれない。
 特徴的出土品:けつ状耳飾り、黒曜石、打製石斧


(2)中期
 丘陵に特徴的なのは、台地内に水源(池)があることである。


(3)後晩期
 山間地裾野海外線は、現在でも「ヒスイ海岸」と呼ばれており、ヒスイ工房跡を伴う遺跡群である。
 特徴的出土品:ヒスイの原石、加工品、製作途中の未成品など(日本中で加工品が出土)、蛇紋岩製磨製石斧の未成品と加工道具(北は青森県から南は和歌山県まで、全国各地 の遺跡から出土)、多彩な縄文土器(信州地方の曽利式土器、東北地方の大木8b式土器や新潟信濃川流域の火焔型土器(馬高式土器)の影響を受けたとみられるものも出土)


「見えない」弥生遺跡

 縄文遺跡はたくさんあるが、「弥生遺跡」と特定されているものは朝日町にはない。富山県でも弥生時代遺跡と特定されているものは10か所程度しかなく、銅鐸はまだ発見されていない。また、縄文から弥生に同じ場所で移行したと目されるケースが多い。
 まず、縄文遺跡は、北は北海道から南は沖縄まで全国各地に分布するので、南方系とされる縄文人も全国各地に万遍なく分布して住んでいたことになる。そこに遅れてきた北方系とされる弥生人にどう変化していったのか?縄文集落を縄文人が捨てたのを弥生人が引き継いだのか?縄文人から弥生人が実力で奪ったのか?縄文人が弥生人を受け入れたのか?
 遺伝子的現代日本人は、7-8割が弥生系、残りが縄文系で混血していると言われる。日本の人口変遷の研究では、縄文時代に人口が減ったのは寒冷化による食料不足が原因とされている。弥生時代に人口が急増するが、それは稲作の伝来による食料生産力の向上と安定化によると考えられている。
 このように社会的増殖力は弥生人が圧倒的に勝っていたと思われ、縄文人も徐々にその生活様式すなわち稲作を学んで取り入れたのではないか?しかし、絶対的人口差はいかんともしがたくそれが末代まで影響しているのではないか。弥生人が移住しなかったか、独自の文化スタイルを継承した部族(意図的かどうかにかかわらず)は、その血脈的純粋性を保ったことになる。
 海岸線のヒスイ加工については縄文後期にいったん終わり、その後弥生時代後期から再開し、古墳時代まで続いたと言われている。とすると、ヒスイ工房の経営も縄文人から技術を引き継いだ弥生人か、弥生人と宥和した縄文人の末裔になったのだろう。


広域の「交流」があった縄文時代

 既にお気づきのことと思うが、縄文時代にはかなりの広域の物流があったことが分かる。象徴的なものは黒曜石であり、ついでヒスイ加工品である。さらに、塩などの必需品も考慮すべきではないかと思う。
 物々交換などの交易があったのか?商人という仕事があったのか?という興味がわく。
 黒曜石は、100キロメートルは離れた長野県和田峠辺りから運ばれたものであることが分かっている。旧石器時代から使われていたということで、朝日町はおそらく新潟県姫川沿いに長野県大町辺りを通り、諏訪湖の北方にそびえる霧ケ峰にある和田峠に至るルートが開拓されていたものと思われる。この姫川沿いルートは後世「千国街道」別名「塩の道」となった経路に一致する。
 さて、黒曜石はどのように「拡散」していったのか?石器は猟と生活の必需品であったので、最初は、その原材料産地に集落ごとに直接採取に出かけたものと考えられている。その後、集積地が現れているので、かなり時代が下がってから「交易」が始まったとされている。
 驚くべきイメージは以下のようになる。集落で「ミッションチーム」が結成される。そこには経験者を含むが、屈強な若者も選ばれる。チームは、集落で数年以上必要な量を採取する任務を帯びて、決死の出発をする。出発儀式などもあったはずだ。季節的には、春先か紅葉期の積雪期と高温期の間とかが選ばれたのかもしれない。チームは、自給自足が原則で、途中途中の立ち寄るべき集落への特産品のお土産なども担いでいったのかもしれない。万が一の場合は、戦いも辞さない決意だっただろう。経路は継承されていただろうが、いつのまにか「けもの道」的なルートが形成され、それが定着、整備されて、お互いの利便性を高めていったのではないか。この決死の任務の途中には、何かのきっかけで「聖地」や「休養ポイント」なども生まれていったのではないか。何日の難行だったか分からないが、無事、任務を終えて帰宅したチームは大歓待を受けたに違いない。また、不幸な場合は帰宅がままならなかったミッションもあっただろう。集落によっては成人儀礼としても位置付けられたのかもしれない。生き延びと繁栄のために不可欠で、このように継承されていったのだろう。


集落周辺の収穫みちのネットワーク

 集落のテリトリー内には、食物確保のための踏み分けみちのネットワークができていたとも推測されている。テリトリーは、他の集落のテリトリーと接していたところも、一定離れていたところもあっただろう。テリトリー争いもあったかもしれない。テリトリーの大きさは歩行の効率性から半径10キロメートル以内だったと想定されている。短い半径であればあるほど自然条件に恵まれていたことだろう。


ヒスイ

 ヒスイの原産地は、姫川支流の小滝川だと1938年に特定された。しかし、原石から加工するということではなく、姫川から日本海に流出し、沿岸流によって流され、小石となった原石を海岸で採取し、それを加工するということになる。ヒスイ加工跡は、姫川の河口から西側に分布(海岸流は北東側から南西側に優勢している)している。日本海の荒波の後に海岸を散歩すると今でも原石を発見できることがある。長井も特に夏の海水浴時期は、泳ぎの休憩時間はひたすら海岸の砂利をいじって小石を探していたものだ。運がよければ確かに見つかった。
 「金属器のなかった縄文時代にこれだけの大きな硬玉が加工され遠隔地に運ばれているのである。それは、東北や北海道にまで検出されている。硬玉製大珠以外のヒスイ製玉類も含めたヒスイ製品は全国で約370か所の縄文遺跡で出土している。」(藤田富士夫さん)
 ということは、「千国街道」のような物流ネットワークが、縄文時代に既に全国規模でできていたといわざるを得ない。陸路について例示したが、海路があったとしても全く不思議ではない。
 また、ヒスイ加工品をここから全国に運んだわけだから、この辺りには住人以外の人々が往来したことは間違いない。
 そこで小さな疑問かもしれないが、ヒスイ工房の人たちはどうやって食料を確保していたのだろう。物々交換で確保できたのだろうか?半工半漁のような生活スタイルだったのか?周辺の縄文集落と食料とヒスイ加工品や何かとを交換したのだろうか?
 我が田舎の「笹川」地区は、ヒスイ工房に近く、かつ縄文人遺跡跡が、ほぼ三か所に集中している。二つが丘陵にあり、一つが山間地の狭い河岸平地にある。往来する人々と全く無縁な立場だったのかもしれないし、そうではなく交流することで何かのメリットを得ていたことも考えられる。
 さて、この全国物流ネットワークはこの後どう変わっていくのか?それに田舎がどう巻き込まれていくのか?(続く)


田舎の2000年歴史ロマン② 道のはじまり(1) 終
サイト掲載日:2015年4月5日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明