田舎の2000年歴史ロマン⑲ 佐味庄を考える(その2)

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン⑲

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佐味庄を考える(その2)


3.佐味庄として、沼保、南保の設立に至るまで

 父親の同級生でもあった郷土史家の竹内先生は、「佐味駅」の場所を現在の「沼保」辺りと類推された。そこには、確かに「佐味神社」があり、国境地帯に入る手前の平野部の最後となるので、それなりの類推根拠はある。
 その案に対して「境と宮崎の間」説も多く、竹内先生も佐味庄の本拠はその辺りとされている場合が多い。
 私はそのような有力な意見がいくつもあることを認識しつつ、「みち」がどこを通っていたか、先住者達がどこにいたか、何をしていたか、当時の新規入植者を含めて、それらの末裔は今もいるかいないかというような視点で検討し、佐味の最初の中心地を「常福寺古墳」辺りと考えるに至った。「常福寺古墳」のみが当時の有力者の存在の唯一の物的証拠であることが大きな意味を持っている。
 また、境-宮崎辺りは、縄文の時代から古墳時代に至るまで、継続的に玉造基地であったのは自明である。それを担った人々は海人であり、漁労を糧とし、細工、交易に長けた工商集団と思われ、姫川ひいては諏訪に通じ沼河姫-出雲系に通じる系統を判断するべきで、大和から派遣されたものとは思えないことを考察した。信仰は海人系のものだったものと思われるが、原型を類推できるものには辿り着いていない。水田耕作を糧とする大和派遣集団とは全く重ならない。その末裔は「水島姓」を中心として、現在に至っていると思われる。平野部では海岸の河川河口付近に同様の海人集団が展開していったものと思われる。これらの系統は大和派遣集団と概略宥和していただろう。逆に言うと、大和派遣集団は財力的に全く敵わなかったものと思われる。
 内陸の先住者達は、豊かな森林からの食料を糧として、山間の丘陵部に定住地を求め、数か所にそれぞれ安住の生活を得ていたものと思われる。近年まで、十二社系の自然神を祀っていた人たちがそれに対応付けられる。寒冷化と共に丘陵部から平地というよりも谷間の小盆地に移住した、棚山→蛭谷(米丘)、三峰→笹川上流(折谷)、?→大平(根建など)にその類型を見る。これらの他にもあると思われるが、それは今後の分析に掛かっている。海岸沿いは舟で交流したことだろう。内陸部は、これらの先住者達を結ぶ経路が、山間部を縫って自然とできており、それが交流路であり、例えば、黒曜石が通ったルートにもなったのではないかと考えることにした。

図 佐味神社から見た真東の延長地図

 大和派遣集団の最も大きな任務は、水田開拓だったと思う。当然、軍事的な役割もあったが、屯田兵的に「自給自足」であり、そうすれば、主たることは水田開拓となるはずだ。先遣隊に根拠を作らせ、追派遣したか、現地で「増殖」させたかになる。経済的基盤、すなわち、税を徴収できるだけの規模となれば、役人を派遣することになったのではないか。そうだとすると、
 (1)まず開墾、(2)次にそこの首領の派遣(任命)、(3)中央役人の派遣と段階を追っていったのではないか。「常福寺古墳」は(2)の段階、「佐味駅」は(3)の段階となる。「古墳」の首領一族の勢力範囲が十分に広がっておれば、「佐味駅」の設置場所の候補地は広がる。一方、そんなに広がっていなければ、本拠地近辺となっただろう。そうするとまず、(1)の開墾地はどこだったのか?
 自然と(2)の常福寺辺りとするのが自然だが、現代人はこんなところで水田の開墾をするわけがないと思い込んでしまう。平地がたくさんあるのに好き好んでこんな山間地はないだろうと思うのは非難しがたい。
 しかし、ここで冷静に分析すべき点が二点ある。ひとつは、水田の開墾は森林の伐採(破壊)を伴ったこと、もうひとつは、歴史上最初の開墾は谷内田だったということである、このいずれも現代人には想像しがたいことだろう。だが、思い返せば、谷内田は水源確保の観点から、「耕して頂上に至る」の逆で、「開墾して裾野に至る」が工事上、最も楽だ。しかも、森林の伐採も同様だ。上からの方が楽だ。場所としては、既に安定した道が拓けている周囲の谷内田を開墾することが、軍事上も要点を兼ねて一石二鳥となる。また、先住者達の領域

図2

との徒な摩擦は避けたい。
 と言う考察で、私は「常福寺古墳」近傍にベースキャンプを張り、そこから「道」沿いに、谷内田を両方の低地に向かって切り開き始めたと類推する。「常福寺」を起点として、いずれの方向にも地名「大谷」がある。まず、これを都からの下り方向に「竹内系」、都への上り方向に「長井系」が分担して開墾を始めたと考える。これが現代に至るも水田、山地等の所有者に基本的に継承されている。「竹内系」は低地に下って、海岸縁まで到達し、その後の山裾に沿って、開墾を進めたのではないか。「長井系」は、低地に下って、まず「折谷系」に出逢い、さらに「みち」沿いに、それを越えて「四倉谷」の開墾を進めたのではないかと思う。
 「長井系」の開墾地と目される谷の名前は漢字で「西裏谷」で「にすぶら」と発音する。この「西裏」が意味が興味深い。文字通りに受け取れば、「西側の裏」となる。何に対して「西」で「裏」なのか。これに対する私の大胆な仮説は、「元祖佐味神社」のちに「才の神」とされ、主神は脇子八幡の横尾移設に伴ってそこに移された豊城入彦命を祀った社もしくは屋敷が当地にあり、正面が東向きに建てられていたのではないかというものだ。その西側の裏に続く谷を「西裏谷」と呼んだのではないかというものだ。後に、竹内系は、その北側に連なる別の谷を開墾していくが、その谷は「おんぞ」という、漢字では「大溝谷」もしくは「御衣谷」と書く。「おおみぞ」が「おんぞ」に訛ったのか、最初から「おんぞ」のままなのかということになるが、ロマン的には、「御衣」を採りたい。屋敷裏の西日の当る側に、首領家の洗濯物(=御衣)を乾していたというイメージが出てくるからだ。
 いずれにせよ、「竹内系」「長井系」が谷を分担して開墾したのは相当確かだと思う。現代に至るもその土地に所有者(途中で売買があったことを含んでも)が、恐ろしくそれぞれ「竹内系」「長井系」に一致する。しかも、系図上で古いものから順番に、高いところから低いところへ所有地が移っていく傾向が認められる。
 その当時は、多くてそれぞれ10家族に満たない程度だったと思われる。時には相互協力もして、難局を乗り切ってきたのだろう。年月を重ねて、開墾地を増やしていったものと思われる。我が家の「地神」を先入観無しで眺めると、握り飯を片手に鍬を担いで坂を歩くご先祖様に見える。相当時代が下っても、開墾の遺伝子は受け継がれたものと類推する。



4.木曾義仲の時代前夜

 木曽義仲の時代に一気に話は飛ぶが、その時代には、当地には「北陸宮」と「宮崎三兄弟」がおり、それが木曽義仲を呼び込むことになる。私の田舎に以下のHPがある。


 木曾義仲・巴と宮崎太郎 あさひ塾(http://www.asahi-juku.jp/)


 このHPは平易にまとめてあるので参考にしていただけると良いが、記述事項間の時代考証があまり正確とは言い難く、テレビドラマ風に脚色されている部分があるように思われる。状況を大掴みにするには格好のHPだと思う。このように、私の田舎には歴史研究に熱心な人たちがたくさんいるらしいのは、鼻が高い思いである。


 私は、宮崎三兄弟が田舎の当時を理解するための大事なカギだと考えている。
 1)井口家は、砺波に都から派遣された豪族の系統で、その末裔の一部が佐味近辺に移住してくる
   すなわち、佐味系統ではない。西部豪族の勢力拡大とも言える。
 2)井口家の末裔と思われる系統が、「井ノ口」に井口姓として現存するので、そこが井口の旧拠点と目される。
   移住してきた井口家は、定住を選んだ。多くは、勢力を失うと引き払っている。
 3)宮崎三兄弟は、井口家で生まれ、宮崎を制するために、「宮崎」とみずから改姓した。
   この頃、宮崎が佐味の中心地だったことを意味する。おそらく通商港として栄えていたのではないか。
   佐味の支配者となるには、「井口」を捨てた。
   三兄弟は、「宮崎党」を結び、それぞれの支配分担を決めている
    宮崎太郎(統領、食料や工作品などの通商権独占、主な水田領域)
    南保次郎(南保とは何か?)
    別府三郎(別府とは何か?)


 「保」とは、律令時代の行政単位のひとつであるが、ここでは、平安末期頃に、地元の有力者が国の所有地を開墾し、農地化したもので、有力者に支配権を委ねたものに相当すると考える。田舎に今も残る地名に「沼保」「南保」がある。
 「別府」とは、基本的には「保」と同じで、所有権も与えられた。


「沼保」と「南保」
 沼保はもともと低湿地すなわち沼地を開墾したものであり、排水や木流川の整備などを伴うと思われるので、土木技術の発達があった時代の開墾ではないか。ここには、「大村姓」が優勢であるので、「大村系統」が開墾に当ったものと思われる。その時代がいつ頃かということになるが、「沼保」となったのは早くて平安末期としてよいのではないか。平地での比較的広大な耕作地として、宮崎太郎の直轄の新開地ではなかったかと思われる。資金を運用してさらに耕地を拡大することになったのではないか。
 南保は、小高い山々の裾野(およびそれに連なる谷内田群)の開墾地であり、後世における平野部の山沿いルートの根源となったものと目される。土木技術的に難しさは感じられないので、早期に開墾が入り、やはり平安末期に新開地も拡大し、次郎が支配したのではないかと思われる。実家の井口家は「大家庄」と言われる平野部で別途に先行開拓され、南保に隣接したところにある。「大家庄」の開墾が先で、「南保」が後とも言えない。逆に「南保」が「佐味庄」として先に手が入り、後から到来した井口家などが「大家庄」を支配したが、後年、その支配中心を「南保」に移したとも言える。「南保」と名付けられた時代は、平安末期かもしれないが、山裾のそれぞれの地域は早くから開拓されたのではないかと思われる。次郎が本拠地としたのは、南保地区にある集落の内の高畠である。
 ここで私が興味を持つのは、何に対して「南」かということである。やはり中心地を起点に方角を考えるのだろう。中心地としては、北側に位置する宮崎城(すなわち城山)とするのが自然だが、後ほど別の仮説を提案する。
 別符三郎は、別名「境三郎」とも言われたとされるので、これは最も安定していた旧佐味庄の耕作地の支配を任されていたものと思われる。居住地は宮崎館と言われ、どうも笹川下流の一等地にあったものと言われている。この地に逃れてきた北陸宮とその一党を世話したのも三郎の役割だったようだ。家紋が「丸に剣カタバミ」だったと言われているが、これが私の実家の「宗三郎」の家紋に一致する。ちなみに豊城入彦命を祀る本社の宇都宮二荒神社の新紋は「三つ巴」であり、これは沼保の佐味神社の神紋も同じである。北陸宮の付き人の一人が長井某であり、正八幡を開き、その守護を務めたと言われる。したがって、これを持って「長井系統」の嚆矢とする説もあるが、これはむしろ祖先を同じとする長井某が、佐味一族の縁を辿って当地に行き着いたとも言える。北陸宮はまず越前を経由してきたという点も、極めて細い糸を辿った可能性を思わせる。
 私は、この長井某が、「清左衛門」の先祖ではないかと考えている。長井系統の集中地とは離れ、宮崎館近くに居地を持ったことがそれを裏付けると思う。そしてひとつの可能性として、木曽義仲の没落後、係累が及ぶのを恐れて、別符三郎が「長井系統」の頭首「宗三郎」として迎えられ、長井系図の上で、本来の頭首であった「太郎左衛門」の上に位置づけられたのではないかと想像している。「左衛門」に婿に入って「宗三郎」となったということもあり得る。「清左衛門」はこの時に「太郎左衛門」の分家として入ったことになる。このような系図の書き換えは、お互いの利益を守るために、度々生じたのではないか。書き換え後、長い年月が経てばそれが「実態化」する。
 この書き換えが、実は笹川下流の開拓の出発点であり、ある意味、笹川の起点となったのではないかと思う。それには木曾義仲が大きく関与したと考えているが、その詳細は次回以降とする。それまでは、竹内系統も長井系統も「常福寺古墳」近辺に居住していたのではないかと思われる。もしくは、竹内系統の一部は、北野台地を居住地とした縄文時代からの先住者の末裔だが極めて少数だったので、竹内系統と宥和し竹内系統とひとつにまとまったのかもしれない。長井系統は、笹川上流の先住者である折谷系統と共存する選択をしたと思われるが、それは十二社を祀るなど折谷系統がそれなりに大きな集団としてまとまっていたからではないか。
 いずれにせよ、佐味系統だったのが、だんだんと祖神と疎遠になっていくことになる。このタイミングで、長井系統には正八幡社、竹内系統には木曽義仲が拓いた諏訪神社を氏神とすることになっていく。一方、祖先神たる「才の神」をお互いのご先祖として忘れなかったか、年間行事化して形式的に敬いを続けたのか、は別として、「才の神」も笹川の人々の意識の中には生き続けた。さらに「常福寺古墳」こそは忌みの場所として、近年に至るも形はないが崇められていることは間違いない。
 私の祖父はこの時期になると、暗いうちの早朝に起きだし、日が暮れてから帰宅する、というのが日課になっていた。雨の日はくすぶっていた。やまいも(自然薯)堀りに出かけるのだ。自分の島があり、帰宅して自分の島が荒らされていると悔しさを隠さず、何度も愚痴を言っていた。その祖父の口癖に「常福寺さまだけは、草木を切ったり、土を掘ったりすると血を流すなどの祟りがある」があった。どうも、後年の言動を分析すると、自分はちゃっかり常福寺古墳でやまいもを掘っていたようだ。どうもそういう「確信犯」的な性格があったようだ。やまいもほりも家族のためというよりも、自分のたばこ銭稼ぎが主目的だったことは明らかで、家族には「くずいも」しか回ってこなかった。それでも美味であることにはかわりない。むしろその方が特徴的な味が出るような気がするが、調理する側からすれば手間暇が余計にかかりたまったものではないのも明らかだ。他にもほぼ犯罪と言えるような武勇伝があるが、他人のため、地域のためなら犯罪も厭わないという任侠的な資質があったようである。「あなたのおじいさんには人には言えない世話になった」という話をそれまで知らなかった人から聞かされたことがよくある。

田舎の2000年歴史ロマン⑲ 佐味庄を考える(その2) 終
サイト掲載日:2015年11月29日
執筆者:長井 寿
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