田舎の2000年歴史ロマン⑱ 佐味庄を考える(その1)

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
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田舎の2000年歴史ロマン⑱

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佐味庄を考える(その1)


0.ようやく「佐味神社」を訪問

写真 佐味神社の神紋(三つ巴)

 沼保地内になる佐味神社に足を運んでみた。田舎の実家からは車で10分もかからないので、いつでもいけると思っていると、なかなか行けない。意を決して寄り道をしてみることにした。縁起を探したが何も説明書きはない。それなりにしっかりとした造りだ。神紋が目立つ(写真上)。三つ巴だ。確かに豊城入彦命由来だ。
 本殿が真東を向いているので、裏に回って真東を眺めた(写真下)。沼保の水田がある。真東は、有名な馬鬣山かと類推していたが、確かに写真の右手に頂上が見るが、真っ直ぐに当たっているわけではない。帰って、地図を眺めてみようと思った。
 帰宅して地図で確認(下図)したら、確かに真東を向いている。太陽が昇る真東を向いているのかもしれないが、何かしらの「ご神体」を向くことがままある。



写真 佐味神社から見た真東の風景  図 佐味神社周辺のの地図


 そこで、真東を延長してみたのが、次の地図である。


図 佐味神社から見た真東の延長地図


 偶然かもしれないが、丁度、「才の神」があったとされる地点を指している。この「才の神」は当時の「佐味の神」が祀られていた場所と想定されているところである。時代が移り、1180年前後に、旧「泊」の脇子八幡に合祀された。この頃には、かなり存在感を失っていたものと考えられる。
 そうすると沼保の佐味神社の創建はいつ頃になるのだろうか?沼保の開拓に伴って建立されたものと考えたいが、ここの開拓を任せられた佐味系統(おそらく大村系統を主としたものと思われる)が、既に廃れつつあった本家「佐味の神」から「分祀」したのではないか。そこで、丁度真東となる神聖な場所を選んで、建立したものではないかと推理する。建立時期としては、平安末期より少し遡るのではないか。基本単位たる「沼保」が確立したのは平安末期と目されるので、それ以前としたい。その後、本家の祖先神は木曾義仲の応援もあって、脇子八幡の移転に伴って、合祀、引っ越しとなる。
 沼保はもともと海岸沿いの低地で沼地、湿地だったもので、埋めるなどして水田に変えて言ったのではないか。谷内田の開墾とは少し違う技術も必要だったと思われる。
 今回は、佐味庄の起源をおさらいし、佐味庄の変遷を木曾義仲前夜辺りまで類推してみる。



1.律令制が地方に及ぶことは何を意味するか

 平城京は日本が律令国家として整理されていく出発点であり、終着点でもある。まず、古代道が整備され、支配地域と平城京を結んだ。中央の命令は古代道を伝って駅馬で地方に届けられた。受け取る役人が地方に配置される。区画割がされ、納税の根拠が作られた。派遣役人は納税額を農民に示し、農民は役人を先導に古代道を伝って、平城京に納税した。古代道は、地方支配すなわち納税のための制度としての機能が律令国家からして最も大事なことであるはずだ。
 古代道を伝って都の文化が地方に拡散していっただろうが、それはここでは見ない。地方に拡散していったもうひとつは、中央における権力争いの地方化である。皇室は、税さえ集まればよい。地方の支配・管理・運営は、派遣役人にできるのか。納税の基本は米などの産物である。
 律令国家となる前は、地方豪族に任せきりにしたと言って過言ではない。それがあらゆる地方に古墳群として残った。「常福寺古墳」もそのような時代に出現したものだ。そうすると、その時代には既に、当地には入植者達がおり、それなりに繁栄していたことを意味する。それが佐味庄の原形であろう。開拓者達とその首領という一統が想定される。
 このような地方豪族をどう従えるのか?使うのか?はたまた別の手法を編み出すのか?区画割がされ、納税義務が課せられるとなると、これは荘園経営とならざるを得ない。より多くの開墾地を入手し、区画割の際に、登録してもらうことで、中央のお墨付きをもらう。
 こういう構図の中で、派遣役人が中央で直接、斡旋を通じて権力を行使するという図式は考えにくい。実際に、越中の各荘園を見ても、ほぼ平城京の寺社領として登録されているようだ。その中でも、東大寺系が圧倒している。要するに藤原氏の権力基盤ということになる。平安期に藤原全盛時代が続く経済経営と支配構図の基盤はここにあると納得してしまう。


図 豊城入彦命、佐味系統の痕跡地の連なり


 東大寺系があれば西大寺系がある。佐味庄は西大寺系で、ものの本には黒部川以東は西大寺系が手を伸ばしたとある。それに対して、黒部川以西は東大寺系が圧倒している。ところで、道鏡(700-770?)は、いろんなスキャンダルにまみれているが、天武系列最後の天皇(女性)に仕え、藤原氏興隆に抗した人物としてみると興味深い人材である。仏教に通じ、政略にも長けていたのだろうが、あにはからんや経済的背景が弱かった。西大寺(765年創建)に発展の基盤を求めたが間に合わず、結局、皇位に就くには至らなかった。藤原系の謀略の餌食となり、失脚したものだろう。実質的な流刑地は、現在の栃木県下野市である。
 九里氏「郷史雑纂」には、『宝亀年中(770-780)の「西大寺寶財帳」に新川郡佐味荘の田園一巻とある。が、もってはやく開墾されていたことが明晰である。』とある。西大寺領となった経緯に、道鏡が関与していたのではないかと推察する。流刑地も考慮すると道鏡は、豊城入彦命系列では無かったかと思われる。ちなみに、生まれは現在の大阪府八尾市である。
 おさらいになるが、佐味駅は越中-越後の国境が定められた702年には設置されていたと思われる。また、「常福寺古墳」は遅くとも6世紀中には建造と想定される。したがって、佐味への入植はそれ以前となる。



2.大家庄の成立によって、非佐味勢力が入ってくる

 平安時代は、要するに地方における土地(=農耕地)拡大で権力が決まる。武力で他の土地を奪うというよりは、新地開拓を競ったものと思われる。開拓有力の谷内田の開墾はそれなりに進んだので、次は扇状地などの低湿地帯に目が向いたのではないかと思われる。平地で水持ちも良いというのは利点だが、これには独自の技術開発が必要だったのではないか。水はけの確保(排水路)、客土(栄養分の補給)などが思いつくが正確なところは分からない。いずれにせよ、財力に余裕があり、さらに耕作民を把握できる力を持ったものが優位であったに相違ない。
 黒部川以東で考えると、佐味庄は主に谷内田開拓で伸長したものと考えられる。開拓地は、山間部、山地の平野裾部などに集中していたと思われる。黒部川以東を考えると、開拓地は扇状地よりは、東-北側に遍在する。そこに東大寺系列が手を伸ばしてくる。それは、広大な未開拓平地が残っていたからに相違ない。海岸近くの低湿地帯(典型的なものは丈部庄、入善町最大)から始まったに違いない。朝日町地内では、「大家庄」が皮切りではないかと思われる。ここに入植したのは、既に越中国西部に古くから入植し、発展していた系統である。
 詳しくは後述する。彼らは、平地の適地に水田を造成できる技術を有していたものと思われる。一方、旧佐味系統はそのような技術を持ち合わせていなかった。(つづく)

田舎の2000年歴史ロマン⑱ 佐味庄を考える(その1) 終
サイト掲載日:2015年11月18日
執筆者:長井 寿
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