田舎の2000年歴史ロマン⑰ 柿崎、高崎の長井

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン⑰

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柿崎、高崎の長井


1.柿崎辺り

 つくば市で出逢った散髪屋の「長井さん」の故郷である「柿崎」には足を踏み入れたことはないが、柿崎を通る北陸自動車は何度も通過したし、信越本線も何度も利用したので、地名としてはよく知っている。


図1 姉崎区姉崎辺りの地図

 越後国には滄海、鶉石、名立、水門、佐味、三嶋、多太、大家、伊神、渡戸の10の駅家(うまや)があった。滄海、鶉石、名立、水門は、それぞれ青海(おうみ)、筒石(つついし)、名立(なだち)、直江津(なおえつ)に対応していると容易に推察される。
 上越市木崎山(きざきやま)遺跡からは「佐味」と書かれた墨書土器が出土しており、佐味は柿崎(かきざき)と関連づけられている。木崎山遺跡は、日本海に面した標高16mの砂丘・木崎山(城崎山)に室町期までに造られた城跡ということだが、もっと古くから有力者の本拠地があった場所ではないか。
 縄文の跡が見える遺跡には、柿崎内では、木崎山遺跡以外にも、大久保遺跡、鍋屋町遺跡などがあるらしい。鍋屋遺跡も潟町砂丘列の東北端、現海岸線より約300メートル内陸、標高約48メートルの砂丘中腹にある縄文時代前期の遺跡とされており、海岸に比較的高い丘陵地に先住民たちのひとつの根拠地が認められる。


 丸山古墳というこの地方最古の方墳が、隣の大潟にあるが、どうも柿崎からは少し距離がある。柿崎は高田平野から米山山麓を越えて、新潟平野に向かう際の要所であり、ここに勢力拡大の前線基地を築き、同時に水田開発したとすると、格好の地形を示しているのが、いくつもある小渓谷だ。その中で、名前もその通りの「柿崎区山谷」地区とその延長線の図1の黄色枠で囲った一帯に、長井姓が集中している。やはり、「佐味」開拓に動員された系統であり、我が越中の佐味の長井との共通性が認められる。
 さらに、山谷地区の北隣の金谷地区の金屋には製鉄跡が認められるという。豊城入彦命一族の得意技がここでも発揮されたのかもしれない。


 さて、他に共通性がないか思って周囲を眺めていたら、隣の谷の「柿崎区阿弥陀瀬」に「十二神社」があることに気づいた。まさに十二社系ではないかと考える。そうすると当地に先住でかつ発祥の、我が笹川に比すれば「折谷」に相当するような姓がないかを探し始めた。そうすると引っかかってきたのは、「樫出」だ。「樫出」は全国に37件、新潟県に18件、上越市柿崎に14件であるので、ほぼ当地が発祥の地と断定してよいだろう。「樫」はまさに採集対象の樫の実に通じる姓とも言える。ちなみに長井は柿崎区柿崎に26件、山谷に15件となっており、柿崎には計40数件となる。


 山谷、阿弥陀瀬の二つの集落における「長井」と「樫出」の分布を図2の右にプロットしてみた。


図2 上越市柿崎の長井集中地域のひとつ


 いずれの系統も集中して分布していることは明らかで、なおかついずれも山裾と平地の間の北側を優先して家作している。その家作を結び連絡しあうように道が作られたことも想像できる。


 このように、先住者達と共存して生き延びてきた、もしくは後からの移住者達は先住者達のテリトリーの中に安住知を得て水田耕作を栄えさせて伝授し、共存を図ったという仮説は、ここでも成り立っているように思われる。


(参考)高田平野の地政史
・縄文期は、西頚城丘陵 縁の段丘群と 北側の沿岸部である、潟町 古砂丘上に遺跡が多い。柿崎辺りは後者である。
 潟町古砂丘の内陸側の低地帯は縄文海進の影響を受けて内湾だったと推定され、出土品から漁労中心だった推定される。
 それに対して、丘陵縁の集落が狩猟中心とされる。ナウマン象を追った「野尻湖人」に通じる。
・弥生時代には、標高90m一帯に環濠集落の連なりがあったようである。
・古墳期以降大きな発展を遂げる。前期はラグーンや完新世段丘面の縁に位置している。後期になると平野南東部から南西部
 の段丘や扇状地上に小規模ながらもたくさんの古墳が建設されている数十~数百基の古墳群がみられる地域がいくつかあ
 る。前期は低地(北・西部の沿岸沿い)、後期は丘陵地(南東部の内陸)ということ。
・奈良期になると段丘面の開発が盛んになり、条里制の地割が現在でも残っている。いずれも南半部の丘陵近縁であって、
 北半部では認められない。
・平安期になるとラグーン性低地帯および氾濫原以外の、段丘面の北半部もこの期になって開発された。佐見荘など荘園開発
 が盛んであった。
 高田平野は、時代が下がるにつれて丘陵部から海岸に向かって次第に生活の場が移っていくが、ラグーン性低地は気候が再び寒冷化して海水準が若干低下した江戸期まで開拓は行われなかった。
 以上、柿崎辺りは、縄文期、古墳前期に既に定住化が進んだと思われ、奈良時代に駅家が設けられたが、本格的な開墾は平安時代となったと思われる。



2.高崎辺り

図3 佐味君の勢力範囲を示した図

 図3を再録する。そして、図4に現代の地図上に想定区域を投影してみた(黄色)。さらに図4で高崎市辺りでの長井姓の集中地区を図示してみた。
 高崎市には、
 上大類町55件、江木町8件、貝沢町20件、東貝沢町8件、井野町12件
と集中地区があるが、これらはすべて隣接して連なっている。少し離れて、前橋市箱田町に2222件集まっている。ここは、地続きのところの「飛び地」のようなものである。
 この集中域は、利根川と鳥川の大きな川に挟まれた氾濫平野で、井野川流域(支流域も含む)の上流一帯となっている。図3で佐味君の勢力範囲は、同じく利根川と鳥川の大きな川に挟まれた氾濫平野の下流側ということになるが、図3を詳しく眺めてみるとこの領域も佐味君の勢力の及ぶところと見なしても無理はない。


 ついでに竹内姓の集中地域はどうなっているのだろう。
 高崎では図示してみた(図4の赤茶色)。新町35件(図4右下)、井野町25件(図4左上)、高浜町22件(図左欄外)である。完全な一致は見ないが、かといって長井の分布と無関係とも言えない。
 柿崎は、柿崎区柿崎で6件、同川井(図1の左下隅)で4件である。竹内姓の全国での数の多さから言って、これらの数字が集中していると判定しかねるのが本音だが、関係があるとも言える。


図4 長井姓の集中地域(緑色)

 最も大胆な仮説は、佐味君の中で井野辺りに入植していた一党に、越の国への派遣が命じられた。彼らは、長井、竹内の一族を含み、土木、軍事、稲作などに必要な技術を自給自足できるチームが編成され、越前、越中、越後へ派遣された、という話になる。越前には、長井-竹内の痕跡はほぼ残っていないので、別のチームが派遣されたかもしれないし、開拓後、別の集団に譲り、越中へ早速移動したのかもしれない。


 いずれにせよ、田舎の長井のルーツは、図4の辺りと思っておくことにしよう。竹内のルーツについては、複数の可能性を考慮する必要があるように思っている。そのことはまたの機会にふれよう。







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サイト掲載日:2015年10月16日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明