※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。
田舎の2000年歴史ロマン⑯
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うら、おもて、かんむく
河川である笹川は、上の図では、上半分にあり、上半分の左上から、上半分の右下に上る。その流域を地名として笹川と呼び、それが長井の田舎である。田舎は四方を山で囲まれ、ある意味、朝陽も夕陽も見たことがない。子供の頃の遊び場は、山であり川であり海だったので、そう表現すれば贅沢な自然環境だったと実は内心では自慢している。
笹川地区に入るには、笹川沿いに海岸から上るか、周りを囲む山(低山地)を越えるしかなかったが、明治以降に笹川下流で泊町に直結するトンネルが開通し、ヒトの流れはこのトンネルの利用が大半になった。それでも大雨で笹川が氾濫した影響でトンネルが利用できなかった期間は、低山地を越える道を通って泊町との間を往復した記憶がある。
笹川上流側の地域を「おもて」または「かんむき(く)」と言う。それに対して、下流側は「うら」と言う。「おもてむき(く)」「うらむき(く)」といういい方も耳にしたような気がするので、「むき(く)」はそのまま「向き(く)」のことではないかと思われる。
京へ向かう方向を「上る」といい、その逆を「下る」というのが一般的だと知った時に、田舎では「逆転」していると思った。町に近づく=京に近づく方向を「裏」とし、その逆を「表」と言うからだ。
郷里史でもこの説明には困っていたらしく、上流側に神が宿る山があるので「神向(かんむく)」でよいではないかという趣旨の記述が見える。地名に「神向」があるのは事実である。しかし、この「神向」は十二神を祀った権現山の麓の礼拝場であることが由緒なはずである。神に向かって「おもて」でその背が「うら」ということだが、これで「おもて」「うら」を説明できるとするのは納得しきれない。裏山道は、同じ聖地に向かう道で、表参道とは別のもしくは正反対の方向の道であり、表が正式となる。田舎でそれを当てはめると、諏訪神社(+正覚寺)の聖地くらいしかない。しかし、上流側からが「おもて」となると、その可能性を否定できないが、いろいろと不具合が生じる。下流側に棲みついた竹内系の主神が諏訪神社となっているので、かれらの参拝道が「うら」となってしまう。
いろいろと思い悩んでいたら、待てよ、古代のみちは上流側が京上り、下流側が京下りだったとしたら、おもて、うらと合うのではないかと20歳頃に思いついた。
実は中高校生時代に友人達との活動範囲(遊び)が広がり、上流側の狭い山道をそのまま辿って行くと山を越えて、黒部川(小川扇状地側)まで続いていることを確かめたことがある。当時の国土地理院発行の五万分の一地図にはこの山道は点線で描いてあったので実地でそれを確かめてみたいという「冒険」だった。
さらに成人後だが、母に導かれて、今は使っていない山道(自然湧水のお寺への誘導路も兼ねていたように記憶する)を辿ったことがある。田舎の下流側の集落は傾斜地にあり、上流側の集落は何本かの河川が集まる小さな盆地にあるが、両者の間は崖地で隔てられている。今は崖地斜面を削り、基盤もしっかり作って、大型車が通れる舗装道路が通っているが、高校生時代までは崖にへばりついた狭い道で、2トン車がやっと通れるほどの難所だったと思う。
そして、実は長年気づかず忘れていたことだが、このルートは下流側の水道用水路でもあった。水路はいまでもあり多用途に水は利用されている。この水路がいつごろ造られたのかはその内に調べてみる必要がある。多分この水路ができるまでは上流側と下流側の交流もなんとなく疎遠だったに違いないが、水利権を巡っての両者の和解もしくは理解が成立しこの水路が作られたはずだ。
さて話を戻すと、この崖地斜面のバイパスができる前は母に導かれた山道が上流側と下流側の交流路だったに違いない。この交流路は下流側から行くと諏訪神社の境内を通って山地の斜面を登り、高低差の少ない切り拓き道を進む。その際、崖地を見下ろしながら進んで、ついには上流側の盆地である「道満」地内に降りる。降りる途中に今は家もないが、唯一宇津姓を最後まで残した宇津本家の前庭も通ったと記憶する。この道を知るまではなぜ宇津家が街道を外れたところに立っているのだろうと思っていたのだが、実はそうではなくて街道沿いの一等地に立地していたのだという発見もあった。
バイパスで広い道が拓かれ、荷押し車も使えるようになると山道は不便になる。山地の田畑や林に向かう場合には、この難儀な道も便利だったようである。確かに近道になるということで、このような山道は随所にあった形跡がある。
今はほとんど使われていない山道を辿ると意外な場所に出ることを何時も発見した。その一つとして、母に導かれた山道の下流側への延伸を想像して辿ってみたことがある。そうすると最後は、宮崎まで続いていた。結局、山道は黒部川扇状地と宮崎を結ぶルートとして機能していた可能性が高い。これ以外にも、越中、越後を結ぶ山地内のルートが何本か存在する。時代時代によって、使われたルートは変化したのだろう。その変化につれて、集落の立地にも変化があったとするのが自然ではないだろうか。
田舎を離れてこの40年の間に、スパー林道などが造られ一見便利になったが、このような先祖たちが拓き利用した昔道が廃れたのは残念だ。このような辿った昔道が、古道だとすると、上流側は京へ向かう方向であり、下流側は京から離れる方向である。そうすると、「おもて」「うら」を自然と受け入れることができる。そうなのである。私の田舎は、越中の平野部から越後の先へ進むための幹線ルートに面していたということである。
今まで論じてきた江戸時代以降の道ではなく、江戸時代までの道についての仮説をいっぺんに描いてみたのが図1である。
「うら」と「おもて」が明白になると考えている。
蛭谷(びるだん)のこと
図1の下部中央に「蛭谷紙」と書いておいた。より詳しく紹介することも後々にあるかもしれないが、ここでは、面白い点と考える点を述べておこう。
①既に報告したように、ここに特徴的な苗字は「米丘(よねおか)」であり、蛭谷神社は十二社系のようである。
→笹川の「折谷(おりたに)」とよく似ている
②名産に「蛭谷紙」がある。
・蛭谷紙は近江国の木地師によって蛭谷に伝えられたといわれる。江戸時代には紙漉きが行われていた記録があるという。
いつ頃伝来したかというと、近江では770年ごろにはじまり、越中からの紙の献上は奈良時代に既に記録があるので、そこ
まで遡る可能性がある。
・東近江市にある永源寺という地区は轆轤(ろくろ)を使って木をくりぬき、碗や盆をつくる木地師発祥の地として知られて
いる。奥へと進むと、蛭谷と君ヶ畑という集落があり、平安時代、都落ちした惟喬親王(844-897)がここに隠れ住み、
住人たちに轆轤挽きを教えたとされている。これが木地師の始まりとされる。惟喬親王を手伝って住民を指導した家来に
「小椋」や「大蔵」という苗字の人がいたといわれます。「大蔵」は蛭谷の対岸の羽入に数軒認められる苗字です。
・笹川の地名にも、蛭谷があり、六郎山(ろくろやま)があり、これらは木地師との関係の深い地と言われている。この地
は、すぐ後に述べる「竹内テリトリー」にあります。
・蛭谷と笹川に共通する苗字は「竹内」です。笹川では古来より、「竹内」が蛭谷と縁組をしてきたと伝えられています。
また、図1の①沿いに、コウゾ、ミツマタを栽培し、近年に至るまで蛭谷紙と交換していたという。
③特産に「バタバタ茶」がある。このお茶の楽しみ方などは、【縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」のお散歩日記】
http://asahiosanpo.blog91.fc2.com/に詳しい(URL内で「バタバタ茶」で検索してください)。長井が注目するのは、このお茶
が「黒色の後発酵茶」という日本では極めて珍しい製法によるもので、お茶の研究家にとっては貴重なものであること。中国
から伝来しておそらく朝廷で親しまれていたものがここ蛭谷に伝来し、ほぼここだけで伝承されたものとされている。木地
師と共に伝わったか、別の機会に伝わったか。
蛭谷は、このように図1の①、①’とは少し離れるが、古来より笹川辺りと共通文化を共有し、大和が拓かれると都と密接な関係があり、産業的にも人の交流的にも笹川とつながっている。そのことは、①①’のルートの実在的有用性をアピールするものとなっている。都との交流が海路を経由する場合にはより一層存在感が増す。
仕切り谷の伝説
田舎の伝説によると笹川に移り住んだ竹内と長井の祖先たちが出くわし、そこで、お互いの境界線を決めて、一緒に祝い踊ったとなっている。そして、「仕切谷」「地踊」という地名が残っている。
最盛期には200戸程度の集落になったが、大きく分けて、うらが折谷、おおてが竹内、なかが長井で棲み分けられているが、実際には細かく混在している部分もある。その分布自体にいろいろと想像を巡らして興味が尽きないが、あるとき、いったい、それぞれの一族は、どのように居住地を拡大していったのかわからないかと思うに至った。
そこで、田舎の残る家系図に基づいて、その順番を空想してみることにした。家系図というのは、各系統の家々の本家-分家関係と分家順番を系統図にしたものである。
実際はどうだったか不明だが、一応この家系図で、最初の5戸当たりの家(中心家としておく)の存在位置を現在(引っ越した家もあるので最近の、と言った方が正しい)の位置でプロットしてみた。それが図2である。
なんと明白、中心家は固まっている。そこから分家したものは他の土地に家作していったものも多いが、中心家はものの見事に固まっている。
竹内系中心家は、実は斜面に散らばって家作されているのに対して、長井系中心家は、平坦な地に並んで家作されている。
この図に、図1で描いた①‘の道と、最初の寺院と目される「最禅坊」の跡地とその昔の長井系の墓地跡を書き加え、さらに仕切り線(伝承を延長したもの)を描いている。
なぜ、追加情報を書き加えたのか?その理由は、この地への入植時期を考察するためである。
書き入れた①’の道と竹内系、長井系の入植はどちらが先になるか。自然には、先に①'があったとみたい。もし①’が後だとすると、それは、居住地の間を通るのが自然だ。だから、①’が先と考える。
古寺はいつごろ来たか。これも①’の後としたい。禅寺(古寺はそういわれている)が全国に拡大していったのは、奈良期以降とされているので、平安初期には建っていたのかもしれない。その際の「檀家」はなんだったか?最初から竹内系、長井系だったかもしれないし、それは後年のことで、最初は、八幡山を祀った中央役人やその家族の菩提寺だったのかもしれない。
後に戦国時代に建てられる正覚寺は、八幡山の守護隊の城主が出家し、しかも浄土真宗に改宗したとされる。これも図2の①’沿いに建てられた、それ以前の木曽義仲建立の諏訪神社もこの道①‘沿いに建てられている。
ということで、長井は①’の道ありき、と考える。竹内系、長井系がこの地、すなわち笹川渓谷下流に入植したのは、遅くても木曽義仲直後ではないかと想定される。最も早い時期は、平安期のどこかではないかと思っている。
特に、長井系中心家が、枕を並べていることに注目したい。これが一気に移住してきたのではないかと思われるからである。それに対して、竹内系中心家は、分家の中で順次、家作を加えていったという印象を受ける。
すなわち、竹内系は長井系より早くから当地に棲みついており、長井系は別のところで繁殖し、ある時にここに一気に移住したのではないかと空想する次第である。竹内系統は、縄文遺跡があった「北野」の所有者であり、「北野」の高台にあった「古寺=最禅坊」の管理者であった可能性が高い。そうすると、竹内系統は折谷系統のように、先住系を起源としている可能性がある。また、武内宿禰後裔一族に属するとしても違和感はなく、大和遠征の早期の先遣隊であった可能性もある。玉虫色解釈では、先住系が同化した系統とも言える。この系統は、「北野」に根拠地を置き、特に道①’に沿ってその周辺を開墾したのではないかと思われる。
長井系は、佐味一族の系統(のひとつ)として、常福寺古墳辺りを最初の根拠地として図1の①に沿って開墾し、入植したのではないか。折谷系との融和が大事な点ではなかったと思われる。
その時、既に竹内系統とは棲み分けていたが、開墾が進むと両者のしっかりとした境界が必要になり、また、開墾地をさらに広げるために、笹川渓谷下流(うら)に目を向けたのではないかと考える。
まとめ
図1の道①(+①’)は、
・古来より山地間に点在する既住系統(十二社系)を結ぶ「幹線」だった。折谷系。
・①'は、宮崎港(玉造の中心地でもあり、それ以外の近隣の特産品の運び出し拠点)との近道だった。
・大和勢力は、3世紀頃から波状的に、移住・定住を進めてきた。竹内系統、長井系統は、その派遣隊の一部として、この辺
りに入植し、「一緒に、棲み分けて」谷内田を中心に、水田開削を進めていた。
・ある時期、さらなる水田拡大を求めて、笹川渓谷下流(うら)に境界線を定めて、棲み分けて共同入植した。その際の仕切
り線は、従来からの仕切り線の延長だったのではないかと思う。
・①’は、すべての神社仏閣がこれに沿って建立されているので、これがその時期の道であり、「幹線」だった。
・「ささかわ」は「篠郷」と呼ばれていたようで、狭い河岸段丘だが、森林で覆われるというよりも、笹原だったのだろう。
水の管理ができるようになり、砂地に粘土を入れて、よい水田に変えていったと思われる。
田舎の2000年歴史ロマン⑯ うら、おもて、かんむく 終
サイト掲載日:2015年9月25日
執筆者:長井 寿
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