田舎の2000年歴史ロマン⑮ お盆で立ち止まり その2

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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン⑮

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お盆で立ち止まり その2


千年も住み続けることの凄さに学ぶべきではないか

 今の実家(家作)は私が高校2年生の時に竣工したと記憶するが、その前の古い家は江戸時代に建てたと言われていた。「お前が7代目、170年以上前」などと親戚に言われて育った。確か「か」から始まる年号だとうっすらと記憶する。冷静に計算すると嘉永(1848~1854)では近すぎるので、寛政(1790~1801)辺りではないか。田舎の一世代は、25年位間隔ではないかと思われるので、6世代で150年ほど前(私の生年は1951年)と仮にしておこう。なんとなく合っていそうだ。本家の惣領と言われたので「では、この家系の何代目か?」と問うたが、誰からも返答は無かったというか、「誰も知らない」という答えだった。お寺の過去帳を調べると江戸時代のはじめくらいまでは遡れるという話だが、あまりこういうことに興味を持った人がいなかったようだ。
 戦前に刊行された田舎の歴史書(『笹川史稿』)には「村の起源は室町時代以前に遡る」と記述してあるが、どこまで遡るのかの目安は一切書いてない。縄文、弥生時代の遺物がある、まで一気に時代が飛んでしまう。そこでその間を埋めようと調べてみる。そうすると木曾義仲絡みの史実を辿ると確かに私の田舎が登場してくるので、1200年頃にはなにがしかの存在があったのは確かだ。1200年から続いたとすると25年間隔で32代目、800年の駅屋制度の頃からだと48代目、400年の古墳時代からだと64代目・・・となる。


 何が言いたいか。このように勘定してみると、よくも「飽きもせず」こんな「辺境の地」に棲み続けたものだという、どちらかと言うと「憐れみ」に近い感慨だ。「辺境の地」とはその時分の実感だった。


 私は成人して田舎を離れ「流浪の民」となって40年経った。ここにきて、田舎では、定住しつづけるうま味があり、それに固執してきたこと、より正しく言えば、自分たち自身を養うことができる財産を大事に守ってきた凄さに気づき、たじろぐ。これは田舎が恋しいという感傷とは別物だと思う。


 果たしてこの現代の世にそのような素晴らしい財産があろうか。不動産、金融資産がいくらあっても、千年を超えて家族の再生産あわよくば拡大再生産に役立つことはあろうか?歴史上の王国、帝国も最長で400年を超えることはない。むしろ、売買価値のある不動産、金融資産を受け継ぐ家族は、ほとんどの場合「流浪の民」となって繁栄を繋いでいくのではないだろうか。何故ならば、金銭的価値が集積する場所は時代につれて移ろう。利潤を最大化するためには、格好の活動場を情況の変化に応じて変えるしかなかったろう。万時グローバルしていく昨今では移ろう必要はなくなるのかもしれないが、少なくとも今までは、ヒトが動かざるを得なかった。


 大資産家になれる人は全体の1%に満たないだろうから、金融資産で多くのヒトを養うことはできない。ところが、「水田耕作」は決して豊かとはいえないかもしれないが、「衣食住を満たす」という意味では持続可能性は高く、またその気になれば誰にでもできた。今は、人口の1%以下しか農業に従事していないというが何とももったいないことだ。それでも食料自給率40%なので、人口比を2%に増やして自給率80%にするという21世紀大作戦はいかがか?誰でも大資産家になれるというのは極めて単純な幻想以外の何物でもないし、自分だけは大資産家になれると多くの人が思い込んでいるとも思えない。


 農業を現実的に考えると辛い面があるが、大きな視野で考えると農業(=食料)を捨てて民族の将来が描けないのは自明だ。工業製品で多くの人口を養っていくというのは実は絵空事ではないだろうか?いったん食料が途絶えれば餓死するしかない。工業製品を否定する気は毛頭ないが、それに偏るのは持続可能性を揺らがせる。どんな時代がきても自分自身の食料を自給できる人は生き延びるという図式しか私には思いつかない。


 いやはや、それにしても農業、限定的には水田耕作は持続可能性の高い事業である。日本という自然環境においては特にそう言える。それと魚介類、大豆中心の蛋白源ということであれば、森林とも共存していける。牧草地や牛飼料の耕作には膨大な面積が必要で、そのために欧米では森林を開拓大伐採したという。山地が多いので余計に狭苦しい日本という教育を受けたが、先進工業国でこれほどの森林面積を持っている国は無いと言われると確かにそうだ。あっさりと他の国には元来森林がなかったと思っていたら、そうではなくて、原生林を伐採して成長していったという真実の歴史を知ると見方が変わる。木の育苗技術はドイツ、フランスで発達したので、流石自然保護のヨーロッパととらえていたら、実は森林を破壊しすぎて、洪水とかの自然災害が頻発し、森林を再生するために育苗技術が必要になったのが発達の動機のようである。


 日本の古代も確かに平地はほぼ原生林で覆われていて、水田耕作のために森林を伐採したのではないか?また、鉱山や工業経営のために木材を大量に伐採した。明治の初期や戦後間もなくは、日本の山地はあちこちでいったん禿山になったと聞く。植林を進め、森林管理をして現在の森を現出している。ただ、牧畜のための森林伐採は軽度で済んだことが、結果的には比較的高い森林比率を残した一方、現在は木材資源を海外に求め、自国林は放置され始めて、荒廃が進んでいるという。また、肉食に傾倒したが、その肉や家畜食料を海外に多くを依存しているので、森林伐採は行われていない。肉食を自給しようとするなら牧畜地の開発に踏み込まなくてはならない。


 このように「美しい日本」の将来は極めて微妙な岐路にあるような気がする。持続可能な「美しい日本」であって欲しい。


 千年以上同じ地に住み続けたという意味を私はその持続可能性の源に見出した。貴重な財産である水田を何も血縁の同じ家族が利用し続ける必要はない。血縁が途絶えてもその水田耕作を誰かが受け継げばそれでよい。同じ地で水田耕作を引き継いできた者たちこそを同族と呼ぶべきではないかと思う。多くの人々が生き続けることができた基礎手段だったことが素晴らしい。これがこのロマンシリーズの底流に流れているのは間違いない。



郷史雑纂、九里愛雄著(1870-1947)、泊町(富山県)、馬鬣倶楽部. 1942年出版 に戻る

 そこで、このロマンシリーズのネタ本のひとつである『郷史雑纂』を読み返してみると、そこの長井のロマン追求の方法論が既に書いてあることを(再)発見する。ぐるぐると巡っているとほぼ同じことを考えてしまうものかもしれない。同じなので長井にオリジナリティがないのは明らかだが、たぶん、私が新しく付け加えた何かもあるだろう。
 そのようなことはある意味「些末」である。「初志を忘れず」は極めて大事なことだ。この大先輩がどう書かれていたのかを勝手に現代語に直してみた。西暦年や読み方も書いて、読みやすくしてみた。我慢しておつきあいいただきたい。文中の下線も長井がつけた。


116-124頁
 『古代における越中の土地開墾状態は、氏族の分布から見た方がよいと思う。古代の社会はいわゆる氏族制度であり、共同祖先から出た血族が集まっていた。氏にはそれ以外に品部(しなべ、ともべ)と呼ぶ人たちが隷属して、主として労働に服していた。
 また、一つの氏はいくつかの家族からできている。家族はいわゆる大家族であり、戸主夫婦およびその親や子ばかりではなく、傍系のものでも一緒に生活してひとつの家族を形成していた。大宝籍(702)には、一戸の人員が百を超えるものが稀ではなかった。このように大家族からなる一つの氏が、はじめはある地方にいたのが、後にその中のあるものが何かの理由によって、他の地方に移住してその地名に自分たちの氏を付けるか、またはその地名を氏とするものもあった。このように氏族が分裂するとともに、新しい郷里ができていく。
 主要な生業は、いうまでもなく農業だったから、新しい郷里は農業によって開かれる。ゆえに造宅と墾田とは、両々あいまって行われた。「日本紀」や「古事記」で住宅地を耕地との明らかに区別しないのは、やはり住宅と耕地との開墾が不可分だったからである。
 元来、越中には神代においてすでに日本民族がいた。大国主神が出雲から能登にわたり、越中に入り気多や高瀬に幾年月かおられた。さらに越後に行かれ、沼河姫の家に入られた。沼河姫(ぬなかわひめ)一族は元より日本民族である。沼河姫一族は大国主神よりも先に越後へわたって、そこの豪族となっておられた。これを見ても越中には神代すでに日本民族のいたことは容易に推測できる。ことに越中の各地から発掘される弥生式土器は、神代の日本民族が作ったものなので一層その証拠となる。神代はもとより人代に入っても、日本民族が少数であったことは否めない。そのため当時においては、開墾地は少なったのだろう。大荊(おおやぶ)・荊波(うばら)などの荊(いばら)の名を付けた地が多かったことにも表れている。
 大彦命や武内宿禰や吉備武彦が越中に入って以来、開墾が計画されるようになったのであろう。東大寺の越中に領する荘園のある総券に射水郡の須加庄(すかのしょう)・鳴戸庄(なるとしょう)とあるが、他の総券には須加村・鳴戸村となっている。村や庄は、その一部が既に開墾されている。全く開墾されていない土地は、庄とも村ともいわない。天保勝宝元年(749)の総券に、新川郡の丈部(はせつかべ)村開田三十六町四段九十歩とある。しかし天歴四年(950)の総券に丈部庄田九十町八段百十六歩とある。約二百年の間に五十四町四段二十六歩の墾田ができた。また天平宝字三年(760)の総券に、砺波郡の伊加流伎(いかるぎ)野地一百町、新川郡の大荊野地百五十町とあるが、その中に一歩の墾田もない。だが八年の後、すなわち天平神護三年(768)に、大荊野地百五十町の中に十八町の墾田ができて大荊庄となっている。また神護景雲元年(765)の総券に伊加流伎野地一百町の中に八段三百四十歩が開墾せられて、伊加流伎村となっている。
 要するに古代の郷里は、耕地を求めてつくられた。ただし交通路の関係等からできた郷里もないではないが、それは例外である。このように氏のあるものが宗から分裂して、新たに耕地を求めて移住してきている。これらの人は、元の居住地において氏族共同の祖神すなわち氏神を祭ったように、新たな居住地においても社殿を建てて氏神を祭ることになる。しかも初めは一郷同じ氏族に属する者であっても、年月が経るにともない他の氏族のものも移住してきて、先着の氏神の共同祖神という意味は不純になって、次第にその土地を守る産土神と変わってくるのは自然である。
 既述通り、開墾の正体を知ろうすれば、先氏族の分布を考査すべきである。氏族の分布を考査するには、郷里と神社との分布を考査すべきである。ゆえに私はこれよりその郷里と神社との分布を考え、もって氏族の分布を知り、それによって開墾状態をみようと思う。』


 多くの歴史書には支配者もしくは強者しか登場しないが、私自身そのような書物も好んで読む。しかし、一方、被支配者もしくは弱者が同地に同等にいた訳で、そこに目が届かない著作というものはやはり薄っぺらい。歴史書というよりは読み物レベルと言ってよいだろう。この九里愛雄大先輩の文章には、両方の人たちが見えていたのだなあと感心する箇所が随所にある。ここで紹介した部分がその典型例だと思う。
 この卓見に導かれて分析し、ある部分は違う見解を持つに至ったが、基本構造についてはほぼ同一な理解によくも至ったもんだと思う。いずれにせよ先に棲んでいた人たちがいて、後から来た人たちがいる。耕地、すなわち、水田耕作という農業を共同作業で継いで、生き繋いできた。その収穫を巡って、支配者達がうごめく。支配者氏族は時代によって変化しても、水田耕作に携わる氏族は継承される。それに尽きる。
 もし、水田耕作が定着できなかったら、「やまとはくにのまほろば」と信じた日本武尊も活躍する場はなかったし、全国支配のために日本武尊を使い捨てた中央権力も存在できなかったろう。古事記もこの基盤の上に書かれた。これが日本の国の原型だと思う。


【長井の補足解釈】
 九里愛雄大先輩の用語は、戦前の時代背景を持っているので、現代での言葉遣いに直して、補足解釈をしてみる。


縄文時代及びそれ以前
 大屋沖にも埋没林(広葉樹を含む)あり、樹齢1000年を越える大杉もあったかもしれない。
 少なくとも標高50m以上は、広葉樹優勢な森林地帯だったのではないか。
 しかし、しばしば河川(黒部川、小川)の氾濫があり、基本的には荒れていたとも考えられる。
 標高50m以下は、沼地、湿地帯が散見されたと思われる。
 その中で比較的海抜が高く、小河川の河口だった赤川、大屋には古くから漁労主体の人たちの集落が形成されていたと思われる。


弥生時代の明確な遺跡がなく、縄文遺跡に重なって土器などが発見されるだけである。
 単純に考えれば、弥生人が縄文人を追い出すか同居したかし、集落跡を継承した。
 もしくはお互いに同化したのかもしれない。
 水田耕作が進み、富が集積し始め、地方豪族なり地方集団が形成されていく。
 宮崎、境は、縄文期から続く、玉造などの家内工作事業が発展し、ヌナ河姫領域を形成していく。
 産品の交易はいよいよ盛んになっていく。
 宮崎の自然港は、能登とも距離が近く、海上交易の経由地、中心地となる。  西方とも北方とも信濃とも交易を深めていったのではないか。


そこに、出雲勢力が手を伸ばしてきて、さらに発展していく。
次は、大和勢力がやってくる。
 一般に出雲は商人的交渉、大和は武力的支配のようにイメージされる。確かに蝦夷収容施設が越中で経営されていたという記録があるが、蝦夷は奴隷扱いされなかったと考えられている。
 武力支配は、そこに既に富の集積があれば略奪するためには有効かもしれないが、富の集積もないのにただそこを武力支配するというのは意味をなさない。想像するに、水田耕作の展開のためには、縄文人が生活の糧とする森林を切り開く(森林破壊)せざるを得ず、それに対する反抗を抑えるために武力が必要だったのではないか。そうなると先遣隊は、明治期の北海道の屯田兵のようなもので、農兵部隊となるのが自然だろう。実際には、開拓道具の作成、水田開削、稲作などに必要な技術は多様であり、何年も住み続けないと富の集積が起こらないので、農兵部隊というよりは、農兵一族であり家族共連れだったのではないか。
 もしくは、西部劇のように、守備隊と開拓部隊の混成だったかもしれないが、そこまで分化していたとは考えにくい。
 中央勢力は各地の要地要地に拠点を形成させ、それをネットワーク化して、上りを収奪する体制を整えていくだろう。そのために大事になるのが道だ。管理と徴税のために役人を派遣する。


 縄文時代に既に北は北海道から南は沖縄まで活動範囲は広がっていたことが分かっているが、水田耕作を生活の基盤とした全国展開は弥生時代に形成されていっただろう。古墳時代には地方地方に有力者が生まれるまでになる。その時点で、現在の日本の地方地方の原型はできたのではないか。その後は、平面での広がりが進むこと、人口密度が高くなること、そして、中央集権化だろう。


 ここまでで、いわゆる日本の美しい田園風景、棚田などの原風景はできたが、既に述べたとおり、それは一面に広がった森林の破壊を伴うものであった。縄文人と弥生人にはこの点で文明的な対立があったとしても不思議ではない。縄文人の神は元来自然神(八百万)だっただろうが、弥生人には自然神だけでは物足りなかっただろう。好運の神、豊穣の神として崇められたのは祖先神達だった。この両者の信仰の間に避けがたい溝があった訳ではない。後から到来した弥生人は、土着の神も同時に大事にしたとしてもおかしくはない。

田舎の2000年歴史ロマン⑮ お盆で立ち止まり その2 終
サイト掲載日:2015年9月15日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明