※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
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田舎の2000年歴史ロマン⑭
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お盆で立ち止まり
お盆前に、帰省したところ、小学校の同級生の折谷君が実家を訪ねてくれ、お互いの白髪頭を見せ合いました。勢い、田舎の歴史話になり、そこで新しいネタもいただきました。
金沢に務めていた時に、金沢市の山間部に、平(たいら)、折谷(おりたに)という地名があり、何か縁故があるのではないかと実地で調べたが、折谷姓は無かった。もしかするとここから市内に移転したかなと思ってしらべたら折谷家があった。そこで、思い切って訪問したが、起源等についての全く情報は得られなかったということでした。
彼の推測は、源平の戦いの際に義仲の軍勢についていき、結果的に最後は敗残し、金沢市の山間地に落ち延びて生き繋いできたのではないかという思いです。
私は、折谷の起源は、正に富山県下新川郡朝日町笹川(お二人の郷里)にあると分析し、信じていますので、縁があるはずという彼の思いに早速賛同しました。
また、義仲の軍勢に、少なからず当時の人たち(宮崎党)がついていったのも史実的に明らかですので、彼の推論の骨組みは受容できます。平安末期のこの辺りの話にはまだ立ち入っておりませんので、後日大いに展開したいと思います。同様の話は、親鸞聖人の東国布教に付いていったとか、一向一揆に義勇軍を送ったとか、明治時代の「ばんどり騒動」に軍勢を派遣したとか、いろいろと話が伝わっています。それぞれの歴史的信憑性をどう確認すればよいのかわかりませんが、ロマンとしてはごく自然であり、かようにヒトの移動や交流があるのは当然ではないでしょうか。それでなくても、時代にかかわらず、次男、三男などの中には人知れず郷里を離れたものも多いのではないでしょうか。
とりあえず、それぞれの土地の神社を検索してみましたら、金沢市平町には八幡神社があり、そこのすぐ隣の大平沢町には少彦名神社が認められます。宮崎党の守護神は八幡社(宇佐八幡系)であり、宮崎党の生家井口家の守護神は少彦名神社(医薬の神様とされる場合が多い。おそらく大和政権の東征と関係深く。まだ、出雲勢力が幅を利かしていた時代での出雲、大和融和による日本支配の時代に起源をもつのではないかと思う)ですので、推理を補強する材料になります。
岩清水八幡系(岩清水は宇佐からご神霊を移したことになっている)は源氏の総本家であり、平清盛はそれに対抗し厳島神社を平家のご本尊としましたので、平家が八幡社を祀るのは極めて異例とされています。私たちの田舎にも平家落人伝説が色濃くあります。私は越の国での平家落人伝説は根拠が薄い上に、落人と言っても源氏系(主に木曽義仲側に立ったもの)の敗残者の色が濃いと分析しています。
と言ってもここで名前が出た神社は、時の有力者が外から持ち込んだもので、田舎の人々が清和源氏の末裔と短絡したくはありません。また、残念ながら金沢市折谷町の神社は分かりませんでした。ちなみに田舎の折谷系の崇拝神は十二社系で、これは日本古来の形式の自然神であり、大岩がご神体です。
ご先祖達がもともと崇拝する神から、時の有力者が崇拝する神に乗り換えるのはごく自然なことで、ましてや故郷を離れて異郷の地に定住する場合には新しい信仰神を祀ることは大いにあり得ることと思います。
ところで、折谷という地名は全国的にも極めて稀で、金沢市折谷町で落人となり「姓」を地名にしたということもあり得ると思います。ところで、この時代の「姓」とはなんなのか、一般人が姓名を持ったのは明治以降ではないかと仰る方も多いと思います。確かに日常的に一般領民が姓を名乗る必要性はなかったでしょう。また、現代の「氏名」とは社会的意味づけが違っていても不思議ではありません。逝去時に戒名的に姓を確かめたという話を読んだことがあります。その代りに日常的な名乗りや名指しには「屋号」というものが私の田舎では定着していたと思います。「屋号」+「名」が現代の「氏名」に近いのではないでしょうか。
田舎で今に伝わる家系図(各戸の本家、分家関係を示す系統図)を見て本当に驚くことは、すべての家にそれらしい漢字名(=屋号)が付けられていることです。これは歴史上のある時期にまとまってつけた(創作した)のかもしれませんが、その起源は戸籍や姓が生まれた時代(奈良期)にさかのぼることができるような気がします。ということで、「姓」は一族の帰属性、同族意識の標ではなかったかと思います。
また、江戸時代に田舎では百姓にもかかわらず「苗字帯刀」が許されていたとされています。これは国境の防衛強化のためと言われていますが、裏返せば、既に「苗字」も「刀」も持っていたのを「公認」しただけと私は解釈しています。いずれにせよ、田舎の先祖達は、「辺境の地」、国境にあり、農民であり、猟師であり、兵士であり、兵站部隊(馬飼育)であり、時の時勢に合わせて、「日銭」を稼いでいた集団というのが私のイメージです。
歴史のターニングポイントで、中央での覇権をめぐって、対立勢力同士の抗争が始まります。その際に、「軍勢」の通り道にならざるを得ないのが田舎の宿命と言えます。元来、「道」は納税を含めて物流の通り道、運び人、移動する人の通り道、同時に新しい情報、文化や食料、利器などの通商ルートとしての日常的な役割を果たしています。そこに、「軍勢」の通り道という軍事的な役割が特に強調される時期もやってきます。
このような意味でも、今ある「道」はいつできたのか。昔あった「道」はなぜ使われなくなったのかを考えることは、歴史を振り返って未来を展望する際に絶対に必要だと思います。
私たち人類が利用できる空間は無限の広がりをもっているわけではありません。限られた空間を、住むため、食べるための生産、工場などの立地、そして「道」などに振り分けて利用しなくてはなりません。このような、生きていくための基盤はいったん作れば未来永劫そのまま使い続けることができるわけではありません。修繕や改善が不可欠です。
同時に、資金、資源・エネルギーも無尽蔵ではありません。なるべく節約して使うのは当たり前です。そして、人も青天井にいるわけではありません。「産めよ殖やせよ」と掛け声を掛けても、限界があります。
このように、いつの時代でも様々なものの限界を正しく認識して、様々なものを有効に利用していくのは鉄則でしょう。
「節約」というと「我慢しろというのか」と怒る人が必ずいますが、「余分な贅沢はやめた方が得では?」と言いたいだけです。難しく言えば「限界条件を把握した実利主義」であり、下世話に言えば「この投資をすると誰が実利を上げるのか」を深く分析しきることです。「実利を適正に分かち合う」ことができると持続可能な社会に近づくのではないかという期待です。
私が「道」の分析に拘る背景には、このような考え方が土台にあると思います。
追) ちょっと夏休み気分で書きました。
田舎の2000年歴史ロマン⑭ お盆で立ち止まり 終
サイト掲載日:2015年8月25日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明