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※上のヘッダ-部スライドの1枚目「執筆者の実家(長井家)敷地内にある地神(祖先神)の石像」の写真は、
当サイトTOPページのリンクブログ(②縄文遺跡の上にある「富山県朝日町」お散歩日記)にて紹介されています。

田舎の2000年歴史ロマン①

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長井の「ルーツ検索」

    

1.「お前の先祖は、平家の落人で佐渡島から来た」

    

 「富山県下新川郡朝日町笹川」が生まれ育った寒村だ。親不知の「天険」をご存じの方、黒部の「トロッコ峡谷鉄道」をご存じの方は比較的多いので、その間に位置し、ちょうど新潟県との県境と、まずは紹介する。そうすると海沿いですね、と返ってくる。よく分かっている人だ。しかし、それに対する答えは、「ハイ、自転車では15分で海に着きますが、村は山に囲まれています」となる。そうすると、間違いなくその人の表情は宇宙を彷徨う。

富山県下新川郡朝日町 笹川地区 地図

 そう人々の理解空間には存在しない場所だ。確かに、周囲を山に囲まれており、「笹川」という名前の川沿いだけが、海に通じており、周囲の集落からは孤立している「僻地」のようなもので、山に掘った一本のトンネルをくぐっていかないと世間に出ることはできない。したがって、自分の生まれ故郷は、歴史の脇で常に陰物で、古老たちの言い伝え通り、いわゆる「落人」であり、その上に「島流し」から密かに逃れてきて、この地にひっそりと棲みついた落人一族の末裔と信じていた。
 自分の生家の背戸に繋がる谷が「佐渡谷(『さたたん』と発音する)」ので、それが佐渡からの渡来の根拠となっているようだ。しかし、「平家の落人」だけはその根拠を古老からも聞いたことがない。
 最盛期260戸辺りの笹川集落にあって、長井家は60-70戸で、竹内家と戸数で双肩を並べていた。私は、長井家の宗家の嫡男として生まれ、直系の血脈と言われて幼児期を育った。
 言い伝えによると、その昔、「すけ(竹内家の祖先)」と「さえもん(長井家の祖先)」が、「笹川(当時は篠郷などと称したらしい)」に水田開墾に入り、ある日偶然、笹川の上流から流れてきた茶碗を認め、お互いが出会ったということになっている。現在の居住地を考慮すると、「さえもん」が「すけ」の上流に棲みつき、棲み分けを決めたことになっている。


    

2.つくばで入った散髪屋さんが、「バーバー長井」だった

    

 30歳にして定職を持ち、つくば(当時は谷田部町)の公務員宿舎に家族で落ち着いた。髪が伸びたので近くのショッピングセンターにある床屋さんに行った。店の名前が「長井」だったので、店主にご出身を聞いた。実は自分も長井ですと断って。世間には結構「永井さん」も多く、時々いまでも「永井さん」になったりする。そういうことで、「長井」さんに出会うのは珍しい。
 なんとその店主の田舎は新潟県柿崎であり、しかも当地では「長井」は珍しくないという答えだった。それで「ご先祖は佐渡からわたって来たのですか?平家と関係ありますか?」と重ねて聞いたら、怪訝な顔でそんな話は知らないとちょっと機嫌を損ねてしまった。
 自分としては、佐渡→柿崎→笹川とつながるのが驚きだったが、どうも言下に否定されたようだった。多少気まずい雰囲気となったが、奥さんも含めて丁寧で明るい方々だったので、その後はこれを話題とすることなく何度も利用させていただいた。
 実はこの失敗が、のちのちの伏線となる。


    

3.年上のいとこからからの年賀状
  「どうも先祖は高崎辺りに起源があるらしい」

    

 年上のいとこは、父の姉の長男であり、10歳以上歳が離れている。文学青年(今もそうかもしれない)だったが、国鉄に勤めた。こういう話にのめり込む性質で、自分もそれなりの影響を受けていると思う。いとこの屋号は「太郎左衛門(「たろうざえもん」どの→たらざぇんどん、と呼ぶ慣わし)」。言い忘れたが実家の屋号は「宗三郎(「そうざぶろう」さま→そうざぶさ)」。家系図では「太郎左衛門」は「宗三郎」の第一分家。私にはどうも逆だとイメージが合うが、変に面白い。「左衛門」の第一分家が「太郎左衛門」と言われると筋が通っている。この辺の後日、考察を紹介することがあるかもしれない。とにかく、「太郎左衛門」は「宗三郎」の隣の一段低い土地に家を構えていた。
 私が大学を卒業して早々に結婚して、彼女を連れて帰って実家で親戚が集まってお祝いの宴会をしてもらった時に、とんでもないことを言いだしたことがある。
 「ことぶ(寿)の嫁さんは、先祖の末裔かもしれない。真如の護衛についていった先祖が親鸞と共に茨城の真壁あたりまで行ったという話がある」と言って、座を驚かせてしまったが、それからの口上がさらにすごい。「先祖様の末裔が舞い戻って見えたのだ、皆さん大いに祝杯を挙げましょう」と。この構想力の破壊力には恐れ入る。年を重ねておとなしくなっていったと思っていたら、自分が40歳頃にきた年賀状には「長井の発祥は高崎辺り」と書き込んであった。「東京にいるのだから機会があったら訪ねてみてくれ」と。
 流石、佐渡と高崎は結び付かなかったが、実はこの荒唐無稽振りが、私を高崎辺りに目を向けさせるきっかけになっている。このいとこは、この10年位、木曽義仲にはまり込んでいて、NHKの大河ドラマに取り上げさせるという運動を全く個人的にやっている。ところが、最近、自分の田舎には「木曽義仲を大河ドラマに」というグループが全く別に活動していることを知った。この木曽義仲もそのうちに登場してくる。


    

4.今度は、おじ。
 「お前も定年になったから、田舎の歴史調べてみない」

    

 このおじは、母親の末弟で、実は歳は6年しか離れていないので、年上のいとこより年下。屋号は「清左衛門(「せいざえもん」どの→せいざぇんどん」で、「太郎左衛門」の第一分家。実家からすると孫分家に当る。不思議なことに、この「清左衛門」の居は、長井テリトリ-ではなく竹内テリトリーにある(不思議のひとつ)。さて、いままでに登場したいとこ、おじはすべて「長井」である。したがって、おば、母は、結婚しても姓は変わっていない。ということで、田舎ではお互いを苗字で呼ぶことはなく、大概ファーストネームで呼ぶし、屋号を付けて呼ぶ。私などは、幼少期から「ことぶちゃん」と呼ばれ、今でも田舎に帰ると誰かれなく「ことぶちゃん」と呼ぶが、誰も違和感を持たない。
 さて、このおじは、東京に出て、エンジニアとして電気会社に勤め、主にテレビカメラを開発してきたらしい。開発魂の逞しさには常々脱帽している。このおじは、はっきり言っていわゆる「世話好き」で熱心な性格だ。「東京笹川会」なる親睦会ができているが、そのミニコミ誌を編集しており、そこに田舎の歴史コーナーを作らないかと誘われた。定年を迎えて、老い先も限られてきた身として、まとめておきたいテーマだ。断る訳にはいかない。
 ここから、私の本格的な「ルーツ検索」が始まった。主にネット検索によるので、「ルーツ検索」としている。


    

5.現代の長井姓の分布(全国)

    

 苗字としては日本各地に分布するが、新潟県、群馬県高崎市付近、愛媛県今治市付近、三重県北牟婁郡紀北町付近に多くなっている。三重県北牟婁郡紀北町では5番目に多い苗字となっている。各地の長井地名から発祥したものが多いと言われている。
 電話帳データ(http://namaeranking.com/)で分析すると確かに、件数は新潟県、兵庫県、愛媛県、群馬県、三重県で300件以上登録されている。総件数への比率でみると、愛媛、富山、新潟、群馬、三重、兵庫、山口となる。北海道、東京、神奈川、大阪などは、明治以降、全国から人口流入があったので、それらの都道府県は全国平均に近いことが知られている。長井もそうで、これらの都道府県が比率中位に現れている。このことを踏まえると、比率上位の地域では、全国的に見て、長井姓が集中しているとみてよいことになる。

長井姓の全国分布 一覧表


    

6.富山県、新潟県、群馬県の長井の市町村別分布

    

 富山県では、朝日町に特別の集中をしていることが明らかである。高岡市、南砺市、射水市、氷見市、砺波市など呉西(西部を県人はそう呼ぶ。呉羽山以西という意味である)で比較的均一に分布している点はさらに分析する必要があるだろう。富山市、高岡市は、人口集中地であるので、周囲からの移住などを考慮しなくてはならない。
 この朝日町の長井姓のほとんどは笹川地区に集中している。
 新潟県では、上越市と新潟市-長岡市領域の二つの集中領域が現れる。後者は、ほぼ武家起源である。上越市の集中に注目したい(先述の柿崎は上越市に統合されている)。また、上越市と富山県朝日町の間に位置する糸魚川市にはほとんどいないことに注意しておきたい。群馬県では高崎市を中心に集中していることが明らかであるが、この中には後に述べるように武家起源のものもあるようである。福井県では数は少ないが福井市近辺に集中している。ここでは特に武家起源は認められない。
 このように長井姓は、ある地域に集中して存在している。

富山県,新潟県,群馬県における長井の市町村別分布


    

7.姓が集中する原因は何か?

    

 一般人が苗字を日常的に使うようになったのは明治以降だから、このような考察は意味がないのではないかと根源的な疑問を持つ人があろう。それ以前の苗字というのは、日常名乗るものではなく、死出の旅に着くときの印のようなもので、代々受け継いだらしい。
 確かな事例として、笹川では江戸時代に「苗字帯刀」が許されていたという史実がある。ただ、前述したように日常的に「長井」をお互いに呼び合うこともなかったが、「一家(いっけ)」とする「血縁集団」があった。なぜそれが「長井姓」や「竹内姓」をもっていたのかを考察する必要がある。
 また、予め「姓」に当るものをもっていなかったとして、ある「血縁集団」が明治期に同じ姓を名乗るということは自然な感じがする。能登半島のある町では、「東」「西」「南」「北」「中」の五つの姓になったという話が有名だが、歴史の新しい土地柄を反映しているのではないかと思われる。
 しかし、長い年月の中で、ある地域に一つの姓を名乗る人たちの数が増えるというのはどういうことであろうか。単純に結論付けると、その一族が持つ田畑の面積の大きさに人口が比例し、家の数も比例する。農業のみが、人口に必要な食糧を支え、より多くの労働人口を求める、いわゆる「大家族」の発達とその分家によると考えるのが日本の家族制度の歴史と相まっている。
 開墾によってさらにその規模を拡大することも可能となる。長い年月の中で、生産効率の向上も含めて、一族の保有する田畑面積に相当する人口と分家数になっていくと考えられる。
 貴族、武士など支配層は特に自らの子孫を確保する必要はあるが、みずから数を増やす必要は大支配者でない限りは必ずしも必要ない。また、任地が流動的であり、ある地域で増やしても、それが必ずしも定着しない。商人もしかりである。
 時代の変わり目で、周辺から中心地への引っ越し、都市部への集中などが大規模に生じたが、それを経てももともとの定着地が現在もまだ存在していると言える。それは、生産手段があるからだと言える。
 すなわち、同一姓密集地の歴史を考察すれば、日本の歴史の発展過程を辿れる可能性があるのではないかとの思いに至った。これが私のルーツ検索の動機である。つまり、地方地方の歴史には、日本の歴史の縮図がどこかに含まれているのではないかということである。正史は中央にあるかもしれないが、経済は地方地方にないと一国支配政治の構図が書けるはずがない。自分の故郷の歴史をひも解いてみたい。ネット情報の豊富さ、いざとなったら旅も容易な時代、自分で企画して、自分で実行できる。これを楽しまない手はない。

【ご参考】
 各地の長井(ネット検索の「成果」であることを断っておく。この旅は未完でもある)
 ところで長井姓の起源には、古代の賜姓に発する人たちもいるが、それが地名に残り、さらにその地名にちなんで長井姓を名乗ったなど、いくつかのものがあると思われる。それぞれの地域に残る史実の中で、武家にちなむと思われるもの、地名にちなむと思われるものを丹念に除いていくと面白い姿が見えてくる。

「賜姓」とは
 今の世の中にも通じることだが、天皇が二人の男の子を作れば一人は皇太子となって天皇を継ぐが、一人は宮家を起こす。そして、次の世代にも同じように男の子が二人出来れば、宮家は三つに増える。昔は、早死にする人も多かった代わりに、子供の出来る数も多かったので、このように何代も続くと宮家(当時で言う皇親)は膨大な数になった。そのために行われたのが臣籍降下である。その際に新しい名字を与えるのを賜姓と言う。この賜姓として、三園・近江・晴海・志賀・浄原(きよはら)・長井・長谷・山科などの15種類の姓が使われたそうだ。有史に残る記録としては、『日本後紀』延暦廿四年二月乙卯(805)左京人船木王→長井眞人が初出とされている。

1)関東地方

・上野・島名城(高崎市元島名)
 築城年代は定かではないが応永年間(1394年~1428年)島名伊豆守によって築かれたと云われる。その後、天正年間に長井政実が武蔵から移り城として拡張したが、子信実の時に小田原北条氏との抗争に破れ、越後上杉氏を頼って逃れた。

・藤岡市
 浄法寺館は南北朝時代の白旗一揆の中にその名が見える浄法寺氏の居館として築かれたものと考えられ、その創立はおそらく鎌倉時代に遡るものと推定する。観応3年(1352)に浄法寺左近大夫が白旗一揆を形成する高山氏らと足利尊氏に味方をして新田義興の軍勢を破っているが浄法寺氏については残念ながらその程度のことしかわからない。
 戦国時代には神流川対岸の武蔵御嶽城主であった長井豊前守政実が浄法寺館を居館としていた。政実は武田信玄に属し後北条氏と領国を接する最前線の地を守っていた。武田氏滅亡後の長井信実は越後へ逃れていたが天正18年(1590)の小田原役では上杉景勝の軍勢に属して上州へ進撃し旧領の兵を募り多比良城を攻略している。信実は旧領を与えられ御嶽城主に返り咲いたが江戸時代初期に参勤交代を怠ったとして改易された。
 浄法寺館は現在の浄法寺境内がその跡地である。旧鬼石町は交通の便が悪い場所なので車でないと行けないと思う。新町駅からバス便があり本数も極端に少ないわけではないが、減便や廃止になることも多いので車で訪れるのが望ましい。
 浄法寺境内に城館であったことを示す石碑や案内板などは置かれていないが県道に面した山門の脇に土塁が残っている。すぐ近くに長井氏の居城であった御嶽城があるので冬場であればセットで訪れることも容易である。

・(地名)埼玉県熊谷市 旧妻沼町長井
 埼玉県熊谷市西野:鎌倉幕府が開かれる前は、長井斎藤別当実盛が治めていた武蔵国長井庄に、大江広元の次男時広が居を構え、長井氏を称した。この地には、実盛の子実途・実長も足跡を残している。 大江氏系長井氏は、その後出羽に移っていった。また、長井斎藤氏はその後も武蔵に留まり、後に金窪城(上里町金久保字内出)に居城している。

・桓武平氏良文流三浦氏族長井氏
 相模の長井氏は桓武平氏の一族で相模国三浦郡長井村(現神奈川県横須賀市長井)発祥。三浦義明の五男、義季(義秀)が長井氏を称したとされる。三浦 義明(みうら よしあき)は平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。

2)東北地方

・大江姓長井氏
 出羽国置賜郡長井荘(現山形県長井市)発祥の長井氏は大江氏の一族。大江広元の次男時広が称したとされる。
 長井氏は安芸国の戦国大名毛利氏と同族で、鎌倉幕府別当大江広元の次男時広を祖としている。大江広元は、文治元年(1185)、諸国に「守護」「地頭」を配して全国支配体制を強固にするように源頼朝に建策した。加えて、鎌倉幕府の創設、武家社会にふさわしい行政機構の整備に大きな役割を果たした。
 これら広元の功に対して頼朝は、置賜郡長井荘・村山郡寒河江荘などの地頭職を与えて報いた。広元は寒河江荘を長男の親広、長井荘を二男の時広にそれぞれ分与した。かくして親広の子孫は寒河江氏を称し、時広は長井を称して長井氏の祖となったのである。

・出羽長井氏
 鎌倉幕府別当大江広元の次男時広を祖に持つ長井氏(永井氏)は、承久3年(1221年)の承久の乱の際に時広の兄の親広(のちの寒河江氏の祖)が後鳥羽上皇方に味方したため、以後、大江氏の惣領となって繁栄した。後に執権北条氏が台頭してくると接近を図り、評定衆の一人となり、備後国守護にも任じられた。
 長井泰秀の代の宝治元年(1247年)に宝治合戦が起き、泰秀の叔父・毛利季光は三浦氏に味方して敗れて、その一族はほぼ滅亡した。泰秀は北条氏に味方して所領を安堵されたが、親族の毛利氏の救済を願って、生き残った毛利経光に越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職の安堵を図るべく奔走した。結果、毛利氏は両荘の地頭職を安堵され、後に戦国の世に飛雄することができた。
 その後も長井氏は米沢城を築き置賜郡長井荘地頭職を代々務めた。長井広秀の代に鎌倉幕府が滅亡した。広秀は、幕府の要職を務めていたものの、腐敗する執権北条氏を見限り、後醍醐天皇方についた。しかし後醍醐天皇の建武の新政が、あまりにも公家寄りの現状を無視した政治であったため、関東廂番の一員となっていた広秀は、朝廷内で武家の代表格となっていた足利尊氏との関係を深めていくようになった。建武2年(1335年)には、足利氏の執事に就任した。
 広秀は尊氏軍の一員として奥州から京都まで各所で活躍したが、長井荘に隣接する伊達郡の伊達氏らは後醍醐天皇方に味方して対立していた。幕府要職にあり、京都や鎌倉に滞在してきた長井氏と、所領にあってその勢力を着々と増していた伊達氏との支配力の差に大きな差が出始めていた。しかし、この頃の南北朝の対立は北朝方が有利であり、伊達氏も北朝に転じて長井氏と和解に至った。
 伊達氏の当主伊達宗遠は、所領の拡大を目指して他領への侵攻を開始した。信夫郡等を支配下に収めた後に、豊かな盆地を抱える置賜郡長井荘にも進出してくるようになった。南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)、伊達宗遠は茂庭行朝らを率いて置賜郡に侵入し、長井荘の一部を占拠し、高畠城を長井荘進出の橋頭堡とした。伊達氏の長井荘侵攻に対して、鎌倉公方の足利氏満は救援の兵を出すよう近隣の豪族に命じ、長井氏はその支援を受けて、伊達氏を退却させることに成功した。しかし、伊達氏の侵攻は執拗に続き、南朝:元中2年/北朝:至徳2年(1385年)宗遠の跡を継いだ伊達政宗の攻撃によって、出羽長井氏は滅亡した。

3)北信越地方

・長井家跡(新潟市小林:大庄屋)
 新潟市小林地区の歴史研究グループ「小林の歴史を語る会」が、小林地区の大庄屋・長井家を紹介する看板をかっての同家の屋敷があったとされる戸頭神社の境内に設置したと知り見てきた。
 看板には「新発田藩領大庄屋長井家」と書かれ、「上杉家のあと越後国の支配者となった堀家に従って新発田藩主となる溝口家が来越、その家臣の一人として長井家がいた。慶長3年(1598)のことである。
 長井家は、古代・中世の豪族大江家の流れをくむと伝えられ、戦国時代の末には溝口家の有力家臣の一人となり、ここ戸頭に居を定め、村人らと共に新田の開発、地域の保全などに尽力を続けた。長井家は戸頭組のち中ノ口組の大庄屋として代々世襲し、約260年にわたって組内の行政全般を司り、藩庁と村々を繋ぐ重責を担ってきた」と紹介している。

・忠臣蔵の赤穂浪士四十七士の一人である堀部安兵衛は、15歳から19歳の間、姉きんが嫁いだ蒲原郡牛崎村(旧:白根市牛崎 現:新潟市南区牛崎)の長井家で剣術に励んだと伝えられています。
 堀部安兵衛武庸(たけつね)(1670年生)は新発田藩溝口家の家臣中山彌次右衛門の嫡男で、当時中山安兵衛応庸と称した。高祖長井源七郎とその室(山内修理)の間に清左衛門(1609年没)と瑞雲院(1634年没)が誕生。その瑞雲院は新発田城城主溝口秀勝公(1610年没)に嫁ぐ。二人の間に五女糸姫(秋香院)が誕生。糸姫は溝口四郎兵衛盛政に嫁ぎ、るい(宝樹院妙巌信女)誕生。るいは中山彌次右衛門に嫁ぎ、きんと安兵衛応庸が誕生する。
 誕生するや母は逝去、祖母の秋香院の手で三歳まで育てられた後、実父の元で少年時代を過ごす。安兵衛十五歳の時、父彌次右衛門が致死・逝去の後、天和三年(1683年)から元禄元年(1688年)までの間、実姉きんの嫁家先である牛崎の当長井家を頼り寄食していた。その間五代目当主彌五右衛門正房の教導を得、日夜勉学と剣術に励んだと伝えられている。十九歳江戸出府の折、当長井家の先祖が美濃の国より伝来の名刀と安兵衛持参の越前住相模守藤原国綱の銘入りの長刀とを取り替え、五両の金子を持ち、彌五右衛門姉聟(むこ)佐藤新吾右衛門を頼って青雲の志を抱き江戸に出立した。
 出府後数通の書簡を当家に送っている。現存するのは二通で一通は六代目彌五左衛門正房宛に寄食したお礼や義父堀部彌兵衛命名の長男安之助が当七月七日に誕生した事などを知らせている。もう一通は元禄十二年九月十五日付にて七代目当主彌五左衛門政慶(先代彌五左衛門を襲名した安兵衛の甥)宛に書送った書簡、安兵衛の長井家に寄せる心情や甥への教誨・学問の必要性、江戸での自身の生活ぶりなどがこと細かに記され、三十歳代とはとても思えぬ老大成ぶりが感じ取れる書簡である。またこれは江戸在住の安兵衛が浅野家に仕官したその後の消息を窺い知ることができ、安兵衛自身が浪人から出府するまでの過渡的の境遇をも考証するに足る資料である。
 新発田城城下の私塾積善堂の丹羽伯弘は十二代当主恭安の時代に安兵衛の書簡を拝読、「儒学の長けその書法は尊円王流、筆勢は温情にして円麗、安兵衛四十七士の一人として義挙は百三十三年を経た今も世人は追慕する」と賞賛してやまない。十三代松堂の時代にも寺門静軒が寄宿し書簡を今に残す。
 元禄十五年二月頃より赤穂浪士安兵衛は長江長左衛門の変名を用いて本所林町に居を構えていた。十二月十四日吉良邸に討ち入り見事に本懐を遂げた。そのあらましを『堀部武庸記』に書き残し後世に伝えている。しかし今生の別れに先立ち、安兵衛が幕府に差し出した親類筋への暇乞いの書簡の中には当家に累を及ぼすことを懸念してか長井家の名は見当たらない。あれだけの忠実なる筆使いが一通の書簡も残す事なく弱冠三十四歳にしてその生涯を閉じた。悲壮なまでにその武士道を貫いた安兵衛の心中を察するに余りある。泉岳寺にて眠る。戒名 刃雲輝剱信士
 この松は中山家菩提寺新発田市長徳寺にあった安兵衛手植えの松が樹齢三百余年を迎えるに当たり、安兵衛を偲ぶよすがとしてその二代目を長井家墓地に植樹したものである。平成十八年十月吉日 十八代当主 長井源太郎

・福井県 丹生郡足羽郡 など
 長井真琴(ながいまこと、1881年(明治14年)7月28日-1970年(昭和45年)8月8日)は、日本の仏教学者。文学博士(東京帝国大学)。福井県丹生郡殿下村(現福井市)出身。浄土真宗高田派勝鬘寺の長井真応住職の長男。真向法創始者長井津、海軍少将長井満は実弟。長男に仏教学者長井真先、四女に鎌倉女子大学学園主松本紀子。
 長井満(ながいみつる、1895年(明治28年)1月16日-1978年(昭和53年)12月13日)は、昭和期の大日本帝国海軍軍人。最終階級は従四位勲二等海軍少将。福井県丹生郡殿下村(現福井市風尾町)出身。長井斎藤別当実盛の後裔と伝える浄土真宗勝鬘寺の長井真応住職の四男。長兄に仏教学者長井真琴博士、三兄に真向法の創始者として知られる長井津がいる。弟の長井洗は陸軍中佐。

4)中国・四国地方

・備後長井氏
 備後の長井氏は、鎌倉幕府より備後国の守護として任命され栄えた。
 長井貞広の死後、同族の毛利元春の子の広世を養子として迎え、福原氏と名を変え子孫は毛利氏の家臣として存続した。幕末に長井時庸(長井雅楽)を出した長井氏はこの福原氏から分かれた一族である。

・長井雅楽 幕末、一時は国論をリードするが挫折、不当に低い評価
 長井雅楽(ながいうた)は、幕末の長州藩にあって一時期、直目付(じきめつけ)の要職を務めるとともに、「航海遠略策」を建白して朝廷や幕府にも歓迎され、国論を開国に導こうとしたほどの傑物だ。ところが、当時、予想以上に激しさを増していた尊皇攘夷派と対立。その後、幕府の公武合体派老中らの失脚で、追い詰められ孤立。そして、時代の流れは彼に全く味方せず、悲しいことに最終的に長州藩の奸臣として切腹を命じられ、散った。享年45だった。
 司馬遼太郎氏は、「幕末の長州藩は多彩な人物を出したが、その中で長井雅楽を超えるほどの人物は容易に見あたらない。それほどの人物が時代の狂気に圧殺されたというか、実に困った死を遂げる」と記している。そして、長井について「非常な秀才で堂々たる美丈夫でもあり、人物も重厚で、しかも見識の高さは及ぶものがない」と絶賛している。そのため、藩では彼を抜擢し周布政之助という秀才官僚とともに、藩の対外政策面での推進者にした。長井は長州のホープのように期待され、桂小五郎(後の木戸孝允)なども水戸藩の志士に「わが藩は長井・周布という優れた両翼を持っている」と自慢したほどだった。
 長井雅楽は萩藩士大組士中老、長井次郎右衛門の長男として生まれた。諱は時庸、通称は雅楽のほか、与之助、与左衛門など。長井の始祖は、鎌倉幕府を支えた大江広元の次男で、主家の毛利家はその四男だったという。つまり、長井家の始祖は、主家と同格だというわけだ。したがって、長井家は毛利家臣団の中でも名門中の名門で、長井自身、藩主の信頼厚い重臣だった。長井の生没年は1819(文政2)~1863年(文久3年)。
 長井は1822年(文政5年)、4歳のとき、父が病死したため家督を継いだが、このとき彼が幼少のためということで、家禄を半分に減らされた。その後、藩校の明倫館で学び、時の藩主、毛利敬親の小姓、奥番頭となった。その後、敬親から厚い信任を受け、敬親の世子、毛利定広の後見人にもなった。そして、1858年(安政5年)、長州藩の直目付の要職に抜擢された。
 国内で外交をめぐる政争が熾烈となった1861年(文久元年)、長井は公武一和に基づく「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、藩主毛利敬親とともに江戸へ入り、老中久世広周、安藤信正と会見。正式にこの「航海遠略策」を建白して、公武の周旋を依頼されたのだ。
 長井の「航海遠略策」は、端的に表現すれば、通商を行って国力を増し、やがては諸外国を圧倒すべし-というのが論旨。当時、吉田松陰が唱えていた「大攘夷」に通じるものがあった。松陰も攘夷論者でありながら、攘夷をするためには外国を知らねばならないとして密航を企てたが、その思想からの行動だ。だが、両者はその実行論において対極にあった。長井は松陰の行動主義を批判し、松陰も長井を姑息な策を弄する奸臣と見做し憎悪した。
 幕府からこの「航海遠略策」で公武の周旋を依頼されるほどの立場にあった長井だが、実は困った状況にあった。それは、長州藩内の尊皇攘夷派とは対立関係にあり、藩政運営は容易ではなかったからだ。とくに井伊直弼が断行した「安政の大獄」のとき、吉田松陰の江戸護送を直目付の長井が、制止も弁明もしようとしなかったことから、職務上のこととはいえ、松下村塾系の藩士から強い恨みを買うことになった。このため、松陰の弟子、久坂玄瑞や前原一誠らに命を狙われることになったのだ。藩論は対立したまま、事態は一進一退を繰り返していた。
 その後、長井にとって事態はさらに悪化する。1862年(文久2年)、幕府で公武合体を進めていた老中安藤信正や久世広周らが「坂下門外の変」で失脚したのだ。すると、長州藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。そして、時間の経過とともに、尊皇攘夷・激派の著しい台頭で、長井の立場はさらに厳しく、追い詰められていった。
 こうなると、まだわずか1年前、国論をリードしようかという「航海遠略策」をまとめ上げ、建白した人物を、長州藩はためらいもなく斬ってしまう。1863年(文久3年)長井雅楽は“長州藩の奸臣”のレッテルを張られ、切腹を命じられ、その生涯を閉じた。
 明治維新後、この長井の積極開国論を長州人たちは維新史の恥部として、すべて長井の個人的運動で、藩は何ら関知していなかったと主張して、やり過ごしてきた。その結果、現代において長井は、高杉晋作、木戸孝允らの事績と比べ、不当に低い評価しか与えられていないようだ。
(参考資料)司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、三好徹「高杉晋作」、童門冬二「伊藤博文」、松永義弘「大久保利通」、海音寺潮五郎「西郷と大久保」

・長井 長義(ながい ながよし、1845年7月24日(弘化2年6月20日)-1929年(昭和4年)2月10日)は日本の薬学者。
 エフェドリンの発見者。日本薬学会初代会頭で、日本の近代薬学の開祖である。阿波国名東郡常三島村薙刀丁出身 (現在の 徳島県徳島市中常三島町2丁目)。

 このトピックス欄で10月29日~11月5日 新宿・紀伊国屋サザンシアターでの「サムライ高峰譲吉」の舞台公演をお知らせしました。舞台ではわが国薬学の開祖、薬学会初代会頭である長井長義先生が高峰譲吉、坂本龍馬と共に登場し、幕末の長崎の上野彦馬邸(日本最初の写真家)にて3人の出会いの場から始まり、ニッポンから世界への夢を実行していく大変に興味深い演劇でした。長井長義先生がそこで大きな役目を果たしていることも描かれており、長井家ゆかりの方々もご覧になり大変に喜んでおりました。このことが縁で10月27日に長井家直系の長井みな子さまご夫妻と上野家の上野一郎さまが、薬学会館の新装成った長井記念薬学資料室で実に140年ぶりの両家の面会を果たしました。お互いのご家族は4代先のご先祖の奇縁を親しく話され、和気藹々のひと時でした。上野さまから薬学会は「上野彦馬 歴史写真集成」なる立派な写真集を寄贈頂きました。幸い長野会頭、松木次期会頭も会館に居られお二人との知遇を得ました。高峰譲吉工学、薬学博士のお芝居が取り持つ後日談でございます。

5)東海・近畿地方

・藤原北家利仁流 斎藤氏族長井氏
 長井氏は、藤原北家利仁流斎藤氏一族である日本の氏族。少なくとも二系統があるという。
  1. 斎藤実盛の系統。武蔵斎藤氏と呼ばれる。
  2. 美濃守護代の斎藤利永の子利隆から始まる。これは美濃斎藤氏と呼ばれる。
 利永流長井氏は主家斎藤家の没落に乗じて、配下の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)と美濃の権力を握る。しかしその後1530 ~ 1533年のわずかな期間に、長井氏(長井利安・長井長弘・長井利隆)らの謎の急死が相次ぎ、新左衛門尉も亡くなり、長井家は新左衛門尉の子が継ぐ事になり、その子は「長井規秀」を名乗った。
 その後規秀は、「斎藤利政」(のちに道三)へと名前を変え、守護代斎藤家を継いだ。
 長井道利は、斎藤義龍に「道三の子の暗殺」を提言、道三の息子二人は義龍の暗殺により死亡している。斎藤氏滅亡後は足利氏に仕え戦うが1571年摂津で戦死。
 長井道勝は、長良川の合戦では斎藤義龍側につき道三と戦った。道三を生け捕りにしようとしたが、横槍が入り果たせなかったという。のちに姓を井上に改め豊臣秀吉に仕えた。

・長井生(ながいいきる)氏の先祖は、不破郡関ケ原町、今須の領主で、正平15年(1360)に青坂山妙応寺を創建した長江重金公の末裔である。応仁の乱の頃(1467年)に沢田に移り住み、その後庄屋として栄えた。
 沢田は元禄3年(1690)に本郷組と町組に分かれ、本郷組の庄屋を長江家、町組の庄屋を日比家が勤めていた。長江姓が長井姓に変わった経緯は不明である。1771年に没した本郷の庄屋・長江又太郎の墓が沢田寺坂に存在する。北尾春圃の弟、北尾春良が長井家(庄屋)に養子に入り、長井喜市郎(ながい きいちろう)として跡を継いだ。

・三重県北牟婁郡紀北町、三重県熊野市育生町長井

・三重県松坂市
 松阪市射和町や中万町には大きな屋敷を構えた豪商の邸宅が数多くある。彼らの多くは伊勢商人・松阪商人として伊勢白粉や木綿を扱い、江戸店を持つ豪商の本宅だったのである。 隣接する丹生産の丹砂(水銀鉱石)を加工して造る軽粉(俗に伊勢白粉)によって中世以来繁栄したのである。
 射和は松阪よりずっと以前から繁栄していたところで、そのもとになったのが水銀加工業である。射和に近い勢和村丹生は古代から日本最大の水銀産地として栄えていた。中世にはいりこの水銀を利用した軽粉製造業が射和に発生した。室町時代後半以降、伊勢神宮の御師が布教とともに各地に軽粉を持ち運び、伊勢白粉として全国に知られた。明治になるまで軽粉業は繁栄を極め、最盛期の室町末期には釜元が83軒もあり、上之町・御蔵町・中之町・下之町・天王町・裏町・新出町・西町・片町・船之町・川原通り・宮屋敷・西新出などの町割があり、戸数も500以上を数えたという。この繁栄が射和に大量の富をもたらした。美容薬・皮膚病などの外用薬・化粧料・駆梅剤・堕胎剤として用いられた。
 名産の軽粉や木綿を扱う射和商人は、江戸時代初期から江戸や京都・大坂に松阪木綿の店を出して大成功したのが、松阪商人の先駆けである。著名な豪商に富山家・家城家・国分家・竹川家・山本家・長井家・小野寺家などがある。
 安政4年(1857)の家数348軒・人数1,280人とある。
 射和村の江戸時代ははじめ鳥羽藩領、延宝8年(1680)幕府領、天和元年(1681)から再び鳥羽藩領であった。中万村の江戸時代は初め幕府領、寛永12年(1635)から津藩領である。 中万村も伊勢商人の発祥の地として知られ、軽粉や木綿を扱う紺田家・堀木家・竹口家・山上家などの豪商がいた。寛延年間(1748~51)の家数171軒・人数699人であった。
 今、町並を歩くと,豪商の邸宅も時代の流れと共にその大部分は姿を消していったが、町中にはなお往時の繁栄を偲ぶものが多く残っている。
 射和町には「亀甲大」印醤油の国分家、射和文庫まで作った竹川家、中万町にはわらべうたにまで歌われた富山家、「ちくま味噌」の竹口家、その他小林家など多くの豪商の子孫が営々と現在まで家督を継いで、大きな屋敷や邸宅を維持されていた。
 長井家は松坂湊町の豪商。先祖は武士で、永正8年(1511)、京都船岡山の合戦で討ち死にしたと伝える。その後、商人となり、最初は大名貸しや郷貸しを、やがて木綿を商った。 屋号は「大和屋」。江戸大伝馬町にあった新宅「長井惣兵衛店」の様子は『江戸名所図会』にも描かれる。松坂御為替組にも加入し、藩経済の一翼を担う。
 この家に宣長の次女・美濃は嫁いだ。夫の名前は尚明。婚礼の時のごちそうは『美濃婚儀録』に宣長の筆で記される。
 やがて夫婦は長井の同族・大泉家を嗣ぎ、その後やはり同族の小津家に移る。

田舎の2000年歴史ロマン① 長井の「ルーツ検索」 終
サイト掲載日:2015年3月8日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明