科学と技術を考える⑤
研究者は捏造するものか?(その2)
天網恢恢疎にして漏らさず(2)
長井勝手口語訳:
「神様の網って宇宙全体を広々と覆っていて凄いが、目がとっても粗くって見えないのはずるい。目が粗いのは神様の罠だ!目が細かくて見えると悪さはしなかったのに!」。
研究者を法で縛ってはいけないか?
日本の行政も「研究不正」に対応しようとしているが、少なくとも先進諸国ではこれは行政課題ではない。研究者がみずから正すべき課題である。しかし、「不正」が公的な損害、被害を与える点に関しては、適切に法的規制を掛けるようにしている。ところが、「研究者を法で縛るのは学問の自由の侵害で、学問の発展の障害となる」的な牧歌的なクレームを能天気にしゃべる研究者がまだまだ散見されるのが実状ではないだろうか?
研究が社会のため、人類のための貢献であるとしたら、それは必然的に、研究も研究者も社会との関連を前提とするのが至極当たり前で、「治外法権的特権がある」と思えるのが理解できない。
scientistは歴史上どう生まれたかという勉強をした時に、以下のような話に出会った。『神学が大学の最高科目で、聖書の勉強に専念し、優秀な成績を修めることが、生涯の地位、栄誉、処遇を得られる確実な選択肢なのに、何の役にも立たない自然研究に身をやつす道楽者の気がしれない。どうせあいつの家は資産家で生涯無報酬でも食っていけるのでうらやましい(憎たらしい)』と言われていたのが、scientistの前身だと。彼らは治外法権というより、「貴族社会の寄生虫」扱いされていたらしいが、研究者としては「理想的な研究環境」だったのかもしれない。その遺伝子がまさかまだ残っているわけではないだろう。
一方では、社会的名声と無縁な道を確信もって選んだ人々でもあったはずである。ついにはその社会的な意義が認められ、ローマも「神は偉大なり、その真理を聖書と自然の中に書き込まれた。自然の真理に接近することは神に近づくことである」とScienceとScientistの存在を認め奨励する側に転換したらしい。ガリレオ裁判は公式の過誤となった。
「自分の興味のため、自分の資金で」が終わって社会に受容された途端に、今度は「社会がパトロン」になったはずである。これに尽きる。研究者の心の中では、「自分」と「社会」が葛藤する時代になったというべきか。「自分」を「社会」の上位に置きたいと思った途端に、天網が見えなくなる。
研究における失敗、誤りはいけないことか?
無謬主義という言葉がある。「私の辞書には誤りというものは一切ない」ということだろうが、誤りがあることは悪いことなのだろうか。少し真面目に「研究不正」に関する国際的な理念を勉強していただければ、明快である。曰く、「失敗は成功の準備である、誤りは正されることで学問が進歩する」というスタンスですべてが記述されている。ということは、失敗を乗り越えるすべ、誤りを正すすべを身につけることが研究者に大前提的に求められていることになる。
そのスタンスとは反対に、無謬主義的に「失敗はダメ、誤りは許されない」式の修行を受けた研究者の卵は不幸だ。すなわち、それは指導した者に欠陥がある。不幸にもそういう悪の修行を受けたとしてもそれが弁解にならないのが研究者の世界だ。国際的理念を勉強し、自力で失敗を乗り越えるすべ、誤りを正すすべを身につけることが要求されている。自分が受けた悪の教育手法をそのまま、後輩に無反省に与えると悪の拡大生産になるので、欠陥は自ら克服することが要求されている。これが現在の国際標準である。「私は知らなかった。指導受けなかった」で済む社会では既にない。
失敗を乗り越えるすべ、誤りを正すすべを身につけることだ。プロフェッショナルな研究者になるには、このような覚悟が不可欠だ。
「あの人のことだから間違いはないはずだ」と信じることは勝手だが、それでもって「研究成果」を審査、検証せずに「正しい」と判断することは避けなくてはならない。率直に、弱点を指摘し合うことが求められる。
その審査、検証の手段が極めて大事だ。「どういう方法で何を目指す学問なのか」に帰着する。
研究に必要な研究手法-どういう方法で何を目指す
本稿の主題はこれだがなかなか行き着かない。それほど長井の怨嗟も深いのだろう。
研究の世界にはフィーバーが起こり、フィーバーが去った後には、大宴会で騒いだ翌朝の汚れ、乱れなどのようものだけが残ることがよくある。前期旧石器時代捏造事件は、石器の捏造ではなく、「前期旧石器時代」の捏造である。犯人は石器を捏造してはいないようだ。
高温超電導フィーバーというものがあった。「電気抵抗ゼロ」の無数の「新物質合成」報道が汚れとして残った。終に「室温超伝導」も報道された。だが、超伝導は「電気抵抗ゼロ」だけでは判定できない。学理は、「純粋物質の単結晶で結晶構造が特定され、マイスナー効果の確認と電気抵抗ゼロとなる温度が確定される」と言っている。それなのに、猫も杓子も原料をすり鉢とすりこぎで混ぜて、電気炉で熱処理し、電気抵抗を計ったにわか超伝導研究者が「電気抵抗ゼロ」を競って新聞発表した。当時、長井は研究所の超伝導研究グループに在籍していた(長井は超伝導研究とは無縁)ので、この学理の説明は受けていたが、にわか超伝導研究者を笑うほどの理解は無かった。学理に基づき、真贋判定がされていき、冷静さを取り戻していった。ここでは、「捏造」があったとしても、それが生き残ることはありえなかった。「天網の目」が存在したからだ。
実は、長井が一番驚いたのが、「超伝導理論によると最高温度は○○K」という従来の指導原理(ノーベル賞受賞)があっさりと否定されたことだ。それによって、超伝導の基礎研究の幅が一気に広がったが、だからと言って、ここの領域拡大にフィーバーが起きたわけではない。フィーバー終結後も、綿々と基礎研究が展開されている。意地悪に「室温超伝導はどうなったの?」と聞くと、「うん、明日発見されるかもしれないよ。もしかすると100年経ってもまだみつからないかもしれない。神のみご存じ」と煙に巻かれる。こう言えるのも、「超伝導理論によると最高温度は○○K」という指導原理が否定されたからだ。これは凄いことだ。従来理論の「否定」が大きな前進のきっかけを与えてくれる場合が多い。これが「天網の目」をくぐり抜けたように見えると危ない。
(→続く)
科学と技術を考える⑤ 研究者は捏造するものか?(その2) 天網恢恢疎にして漏らさず(2) 終
サイト掲載日:2015年3月29日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明