科学と技術を考える34
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「19世紀起業の21世紀事業」
(2)凸版印刷
注:元ネタはすべてネットサーフィンでアクセスできる公開情報である。
1.凸版印刷の概観
凸版印刷は1900年辺りに創業している。凸版印刷という技術用語がそのまま社名になっているというのがまず面白い。なぜ「凸版印刷」なのかという素朴な疑問を含めて、同社のことを自分の関心から調べてみた。「印刷術は美術なり」というのがキーワードになる。
同社のWebページなどはかなり充実している。
凸版印刷Webページ:沿革「トッパンのあゆみ」
http://www.toppan.co.jp/corporateinfo/history/1900.html
展示としては、
本社ビル内に「印刷博物館」
東京都文京区水道1丁目3番3号 トッパン小石川ビル
http://www.printing-museum.org/
を開設している。
これらから直接学んでいただくのが手っ取り早いと思う。
以下に、創業時のことにふれたWebページの箇所をそのまま引用する(【】囲み部分)。
【1880年代、大蔵省印刷局(現 独立行政法人国立印刷局)で、技術指導にあたっていた御雇外国人のエドアルド・キヨッソーネは、多くの技術者を育てるかたわら、細紋彫刻機の操作、エルヘート凸版法、すかし模様をつくる版面製造法など、日本の紙幣印刷技術の向上に大きな功績を残していました。
キヨッソーネの下で最新の印刷技術を学び、その後凸版印刷の創始者となる木村延吉と降矢銀次郎の二人の技術者は、当時最先端の印刷技術である「エルヘート凸版法」を基礎に、日本の印刷業界のさらなる発展を考えていました。しかし、受注を見込んでいた有価証券などの高級印刷物は、不況の折から需要はわずかで、事業を軌道に乗せることは困難を極めました。
そのころ、日本のたばこ業界では民営のたばこ会社であった村井兄弟商会と岩谷商会が熾烈な販売競争を繰り広げていました。ここにビジネスの可能性を見出した木村と降矢は、村井兄弟商会がアメリカ製の最新印刷機を導入するという話を聞くと、すぐに岩谷商会へ「エルヘート凸版法」による外箱印刷の提案を持ち込みました。
村井兄弟商会の設備増強に危機感を抱いていた岩谷商会も精巧な「エルヘート凸版法」による製品に魅力を感じていました。こうして木村と降矢は印刷局を離れてから8年目にして、ようやく「エルヘート凸版法」による恒常的な受注先を獲得したのでした。
その後、伊藤貴志、河合辰太郎(初代社長)、三輪信次郎の3名の出資者を加えた5人の創業者により、東京市下谷区二長町1番地(現 東京都台東区台東一丁目)に「凸版印刷合資会社」が設立されました。
木村は印刷会社設立にあたり、前年の1899年、「銅凸版及石版印刷所設立趣意書」を起草しました。これを基に、創業者5人が議論を重ね、「凸版印刷会社設立ノ趣旨」を作成しました。併せて種々の取り決めに従い、設立の「契約書」を作成しました。
これらの文書には、ベンチャーとして起業を志した創業者たちの、熱い想いが綴られており、トッパン創業の精神を現在へと受け継ぐ貴重な資料となっています。
凸版印刷株式会社に改組
1908年、凸版印刷合資会社は、資本金を40万円に倍増し、組織を改めて凸版印刷株式会社として再出発しました。合資会社発足時の定款と異なる点は、銅凸版、銅鋼凹版、石版、アルミニウム版、写真応用版の製版印刷に「製本及び活字類の鋳造販売」が加えられたことです。これは日本国民の生活水準の向上、文化の発達、出版社の躍進に対応して、当社が活版印刷の分野へ照準を合わせたことの反映であるといえます。】
2.19世紀創業者
凸版印刷の創業者は5人とされ、【凸版印刷合資会社創立 資本金 4万円/下谷区二長町1番地に発祥、煉瓦造平家工場、建坪378坪749/社長 河合辰太郎、支配人兼技師 木村延吉、副支配人兼技師 伊藤貴志、技師 降矢銀次郎】とあるが、ここに三輪信次郎の名前はない。
それに、伊藤貴志は二代目の社長に就任するが、ネット記事では全く彼のことを掘り出しできない。どう紹介するか戸惑ってしまうが、木村と降矢、河合、三輪の三つに分けて、創業者達の横顔に迫りたい。
1)木村延吉と降矢銀次郎
木村延吉(きむら-えんきち) 1852-1911
嘉永(かえい)5年6月15日生まれ。銅版彫刻師結城(ゆうき)正明に師事。明治7年大蔵省紙幣寮にはいり,キオソーネとリーベルスに金属彫刻技術をまなび,エルヘート凸版法を修得。33年降矢銀次郎,伊藤貴志とともに凸版印刷を創立し,社長となった。明治44年12月3日死去。60歳。江戸出身。旧姓は小島。
降矢銀次郎(多分、ふりや ぎんじろう)については、木村と同じく大蔵省紙幣寮印刷局に勤め、仕事は彫刻室長の任についていたという事実しか掘り起こせない。降矢はその姓からすると山梨出身もしくはその縁者の可能性が高い。
2)河合辰太郎(かわい しんたろう) 1862~1952 は面白い経歴を持つ。
加賀藩士の長男として生まれる。農商務省から実業界に転じ、第十五銀行副支配人、凸版印刷社長(創業者)等を歴任。諸産業の歴史と現状を考察し、金沢は「製糸織物を以て産業と定むべき」と指摘。指摘時期の早いことと客観的な予測は、金沢を冷静に観察した結果であると言える。
このように木村、降矢は技術者出身ということは明白だ。河合はどういう人物だったのか。ネットサーフィンで当たると面白い経歴が見えてくる。以下に、二つの記事を紹介する。
「石川産業勃興記」 http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kikai/kanazawa-history.html
【桐生から石川県に羽二重製織技術が伝わったのは明治20年(1888)頃。しかし、それに先駆けて、製糸・絹織物が金沢の産業に適していると提言した人物がいた。加賀藩士の長男として生まれ育った実業家・河合辰太郎である。明治19年に(1886)まとめられた「金沢論」には、殖産興業で思うように成果を挙げられなかった金沢の、再興の手立てが集約されていた。
河合辰太郎は、絹織物に将来性を見出し、明治維新後、急速に衰退した金沢の復興のために、「金沢を商業地と為すへき事」と主張、これまでの伝統産業とは離れた新しい事業領域での可能性を述べている。特に次の「5要素」を満たす事業を選択すべし、という客観的な分析を加えた点は注目に値する(河合辰太郎「金沢論」より)。
1.需用の広き者なる事
2.少量にして高価を有する者なる事
3.保存の永続すべき者なる事
4.習得の簡易なる者たる事
5.就業の間断なき者たる事
それまでの金沢の主要産業は、菅笠、金箔、銅器などであったが、これらは5要素を満たすには弱く、河合は新たな候補として陶器、漆器、茶、生糸、織物を挙げている。なかでも製糸・織物がバランスよく5要素を満たし、(木綿、麻に比べて)特に絹織物が事業に適していると結論づけた。また、かつて長谷川準也が推進した殖産興業とは対照的に、最初から大規模な工場をつくる必要はなく、小なりとも、高品質で独自性のあるものをつくるべきであると主張した。
これは、近代化に立ち後れた「後発」ゆえの選択ともいえるが、現代のニッチトップ企業の精神にも通じるイノベイティブな精神が、すでにここで語られているといっても過言ではない。】
「河合辰太郎の産業視察」 http://manabi.pref.gunma.jp/kinu/sangyo/ryutu-gyo/hatiouji16/hatiouji16.htm#kawai
【今まで述べた絹の道のほかに、明治19(1886)年の実地探訪の報告書があることを発見した。 『農務顛末』編纂者の一人、金沢の河合辰太郎の「産業視察」(『炎詹録』)である。 河合は明治19年の夏、佐野・足利・桐生・前橋・八王子・甲州・信州の企業・養蚕地帯を視察して「産業視察」としてまとめた。 そのなかで甲州と信州の生糸の輸送ルートを記している。 甲州の生糸輸送については「東京或は横浜にゆくには甲州街道あり、是其生糸を海外に輸出するに要する所の者~馬背を」かりて搬送するという。 または富士川を利用して清水港から輸送するときもあるという。
他方、長野県の生糸は、諏訪の北にある和田峠を境に南北の2つに分け、 南部の場合は通運会社か中牛馬会社により山梨県を経て輸送するというから、八王子を経由することになろう。 都合で愛知県四日市港から海運の場合もあるという。北部は中山道の鉄道を利用するという。
生糸を輸送する手段として通運会社や中牛馬会社が登場するが、 これらの運送機関のルートを追及することで生糸の輸送ルートをあきらかにすることも可能となろう。】
著者は以前、諏訪地方の興業の歴史についてわずかばかり関心を持って調べたことがある。その際に極めて印象に残ったことは、諏訪と横浜港を結ぶ鉄路を民間主導で切り開いたことだ。生糸の輸出のためだが、斯様に「運輸」は興業のために重要な観点であることは言うまでもない。
3)三輪信次郎 (みわ しんじろう) 安政元年8月~昭和18年10月19日(1854-1943)
【衆議院議員・第十五銀行重役。父、金沢藩下級士族三輪伝作(二男)。石川県金沢出身。金沢藩明倫堂に学ぶ。のち慶応義塾に入るが、学費が続かず、大蔵省の官費生に応募し1等合格。同期に田口卯吉・島田三郎がいる。1年半後に大蔵省出仕。のち第十五銀行頭取の池田章政に翻訳を依頼され、これを縁に十五銀行に入り、累進して取締役になる。
明治28年(1895-1902)「護国経」を著わし、世に知られるようになった。明治34年(1901)「公民会」を設立。明治36年(1903)第8期衆議院議員、以後5回当選。第9期では、大石熊吉・鳩山和夫・田口卯吉・福地源一郎らと当選。明治39年(1906)島田三郎・小川平吉・河野広中らとともに「猶興会」を結成し、第一次西園寺内閣を批判。大正3年(1914)12月解散を機に政界を引退。それまで趣味の範囲であった琴曲の研究を行う。日露事件の功績で勲四等、のち勲三等。大日本パイラー織布会社代表・凸版印刷会社相談役。山田流箏曲研究会長。】
創業者の一人は、官界出身の政治家だった。しかもこの三輪は、国会での「主流派」ではなかった。猶興会(ゆうこうかい)は、1906年12月20日に政交倶楽部を中心とした既成政党に不満を持つ36名の代議士によって結成された政党である。日露戦争後の政府の膨張予算とそれに伴う増税方針に強く反対し、「政界革新同志会」を旗揚げして全国運動を展開する。憲政本党・大同倶楽部と連携して政友会の第1次西園寺内閣の政策を糾弾して国民負担の軽減と軍事優先政治の解消を求めた。
その反面、対外的にはタカ派的色彩が強く、ハーグ密使事件では政府・韓国統監府の対応を「弱腰」であると批判した。だが、1908年の第10回衆議院議員総選挙では29議席に減少させた事からより幅広い勢力結集を目指す方針を目指し、又新会へと発展的に解消する事になったということである。
このように、河合と三輪には、金沢出身、官界、第十五銀行と凸版印刷以外にも共通点を持つ。第三者的にみれば、木村、降矢は技術者、伊藤もそうかもしれない(後日、確認)が、河合、三輪は、産業振興から国威発揚まで一家言を持ち、河合は正に創業実業家であり、三輪はその有力な支持者であり支援者という関係が基本ではなかっただろうか。三輪は創業にあたって「有限責任社員」であり、他の4名は「無限責任社員」として、登記簿に名を連ねた。
ただ、この創業者5名がその後、仲たがいしたとか分裂したというような話は残っておらず、いずれもいわば官界から脱サラして創業した、息の合った人たちではなかったかと想像する。
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ここまで書き進めたところで、凸版印刷から大変な好意を受けた。同社「百年史」の該当部分のコピーをいただいたことだ。そのお許しをいただいて関心の深い部分をそのまま以下に引用させていただく。
◎創業者たちの人間関係
【創業の第1段階として、仕事の見通しはついたが、会社をつくるに出資者がいない。そこで木村延吉と降矢銀次郎の2人はかつての同僚であった印刷局の凹版室長・伊藤貴志に相談し、伊藤は、東京・下谷の上根岸の同じ町に住んでいる謡曲仲間の河合辰太郎に話をもちかけた。
河合は、加賀藩士の宮宗信の長男として生まれたが、13歳のとき、子供のなかった同じ加賀藩士の河合鬼勝の養嗣子となった。司法省法律学校の出身で、漢学的倫理観と文人墨客的性格を併せもっていた。彼は第十五銀行の副支配人にまで昇進した人物だが、自分を引き立て信頼してくれていた上司が引退したので、それを追うような形で辞任していた。そしてその後、1年間ばかり難汚職にもつかず、好きな謡曲三昧で悠々自適の生活を送っていたのである。そんなこともあって、河合は伊藤の話に載ってきた。
1897年(明治30年)7月、河合は銀行の文書課長時代に自費で欧米各国を視察している。このときにドイツやフランスなどで、証券、出版物、美術印刷を見せられて、その精巧さと美しさに驚き、印刷業が文明の発展とともに、有望な産業になっていくだろうという見通しをもっていた。
それだけに伊藤の話には、大変な関心を示すとともに、天狗煙草の売れ行きを知っていたこともあって、この話に乗り出してきた、しかし河合は慎重居士であり、1人で軽々に動き出すようなことはしなかった。念のために養母の弟である三輪信次郎に、印刷会社の経営参加について相談したのである。
三輪は1851年(嘉永4年)、石川県の士族の家に生まれ、1874年(明治7年)ごろ大蔵省紙幣寮に入った。紙幣寮では、イギリス人アレキサンダー・アーラン・シャンドについて銀行学を学んだ。そして1877年、第十五銀行創立時に副支配人として入行。やがて支配人に就任し、1895年に退職という経歴の人である。その三輪が神田猿楽町で悠々とした生活をしているところへ、河合が相談にやってきたわけである。資金力があり、かつ洞察力に長けた2人は、印刷業の社会的役割と将来性を見込んで、新会社の経営に力を注ぐ決意をした。こうして三輪と若いは、凸版印刷の創業に加わることになったのである。
三輪は、その後、衆議院議員に3選されて政治家として活躍する一方、1943年(昭和18年)に死去するまでの43年間、当社相談役として、河合、伊藤、井上の歴代の社長にさまざまな助言をしたり、活動の援助を行ったりした。
こうしてお互いの意思を確認しあった木村・降矢・伊藤・河合・三輪の5人は、いよいよ新しい会社の設立について、具体的に話を進めることになった。伊藤貴志は印刷局凹版室長を辞任して皮辰太郎とともに会社の経営を担当し、三輪信次郎は有限責任社員として表面には出ず、側面からいろいろな協力をすることとし、木村延吉と降矢銀次郎は技術分野を担当することを決めた。】
◎「凸版印刷会社設立ノ趣旨」の作成
【凸版印刷合資会社創立の前年の1899年(明治32年)、創業者5人は木村延吉が起草した趣意書をもとに議論を重ねて、「凸版印刷会社設立ノ趣旨」を作成した。それに次のように記されている。(原文の片仮名を平仮名にし、句読点を付した)
古来国に盛衰あれとて、世の文運は未た嘗て退転せしことなしと。然り人業の改進は暫くも歩を止めることなく、千工万芸陸続隆興し、機械は愈々精を加へ、工芸は倍々奧妙を尊ふに至るは是れ人知彬光して、国家昌明の佳域に達せしと言ふへし。
我国印刷の業たる、今を距る1200有余年前即ち宝亀年間始めて刻本行はれ、慶長年間徳川氏始めて木製銅製2種の活字を製作したることあるも、是れらは或る者にのみ使用せし迄にして、一般社会に行はれたるに非す。後と嘉永の頃に至り、長崎の人も本木昌造氏西洋印刷術に最も心を用ひ、辛苦経営して活字製造及ひ印刷の事業を興起したるを以て実に嚆矢とす。
明治3年、政府紙幣寮を設置せらるるや、総ての印刷術を欧米より採択し、印刷事業に付ては一に印刷局独占の姿とはなり居たりしも、奎運の興隆に伴ふて、漸次社会に各種の印刷業者増殖し、各々研磨奨励駸駸乎として進歩を謀り、今日の隆盛を見るに至りしは快なりと雖も、印刷術は美術なり。故に徒に図書を印刷するを以て足れりとせす、位置の整斉、意匠の巧妙、墨色の濃淡、印刷の鮮麗、色槢の配合等井然ならさるへからす。而して印刷術中には、活版、石版、木版、電気版、亜鉛版、銅版、凸版、凹版等種々の分科ありて、各々其長所を異にするものなれば、仕事の精粗に依り版の優劣を比較して、之れを応用せさるへからさるに、現時我国社会の景況を見るに、包紙其他種々の貼用紙は勿論、精密なる有価証券図面肖像に至るまて、皆石版及び亜鉛版、写真版等に依て印刷せられ、欧米諸国に於て諸版の上位を占め、最も有益なる者として汎く採用せられつつある凸版術の如きは、我国印刷局を除くの外、民間に於て之を製作するものなきやは何そや。是れ斯術冀に付技師なく職工なけれは、製版最も精巧にして価額も低廉なるにも拘はらす、社会に其利益を知らしめさるは実に遺憾とする処なり。生等多年職を印刷局に奉し、当時顧問たる故キヨソネ、リーベル氏等と倶に斯業に従事し、聊か実験に徴する所あるを以て、浅学を顧みす、斯業を開始し、平素の宿志を貫徹せんとすれとも、微力之を全うすること能はさるを以て、篤志の協賛を得、合資組織の会社を設立せんとす。冀くは生等の微志を察し、此挙を賛助せられんことを望む。
明治32年 創立発起者】
◎河合社長の抱負
【天狗煙草の包紙の最初の出荷から2か月ほど経った1900年(明治33年)9月20日の「国民新聞」に、「凸版印刷合資会社完成ノ披露」という最初の広告が掲載された。これは河合社長が、凸版印刷合資会社設立の趣旨と抱負を述べたものである。(原文の片仮名を平仮名にし、句読点を付した)
本社設立の趣意
近来我邦の印刷業大いに進歩すと雖ども、商標・株券・手形・小切手等精巧緻密を要する物にして、尚粗雑を免かれず往々奸譎の徒に偽造模擬せらるるの歎あり。爰銅凸版(チポグラフヒー)及び銅鋼凹版(カルコグラヒー)は製版彫刻に日子を要するも、其技巧精緻なるを以て之が偽造を防ぎ、且一度原版の成りし上は幾百万の枚数と雖ども迅速に鮮明に印刷し得らるるの特長あり。故に欧米各国の紙幣其他有価証券商標等は皆此版式に依らざるなし。然るに我邦にては、印刷局の外民間に於て此種の版式を使用して営業する者稀なり。是れ蓋技術家其人に乏しきに因ると雖ども、之を一印刷局の官業にのみ委するは文運進歩の許さざる所なり。乃ち予輩は、多年印刷局に在り同局御雇技師伊太利人キヨッソーネ独逸人リーベル及びブリユック氏等に就きて其道を伝習し老練熟達の称ある木村延吉 降矢銀次郎 本多忠保 伊藤貴志の諸氏と共同し、本年1月当会社を設立して爾来工場の築造に着工し、又欧州へ斬新精良なる印刷機械を注文し置きしに、今や工場竣工し印刷機械も亦到着して諸般の設備完成したるを以て、是より主として此の銅凸版及び銅鋼凹版の印刷業に従事し、製版の精緻と枚数の夥多とを要するものは此版式に拠り、其然らざるものの為に石版印刷業をも兼ね営めり。又別に巧妙なる写真術を応用して彫刻に代へ、其原版を促成するの設備あり。例へば従来の洋書翻刻の如き文字は、一に活版に依りしが故に誤植多くして校正に時日を要するの煩累あり。加ふるに図面を挿入するものは之を別版とするを以て、二重の手数を要せしも、当会社の写真凸版は原書其儘に撮影するを以て毫も誤脱の憂なく、極めて廉価に印刷し得べし。是れ最近の発明に係り我社の技師本多忠保が幾多の実験により好果を奏したるものなり。要するに当会社は、鍛錬の技術を以て欧米斬新の器械を運用し、精巧緻密なる印刷物を廉価に供給するを目的とす。希くば大方諸君の賛助を得て斯業の発達を見る事を得ば何の幸か之に如かん。
凸版印刷合資会社
社長 河合 辰太郎 謹述
明治33年9月
東京市下谷区二長町1番地(電話本局2026番)】
設立趣意書にある"印刷術は美術なり”の語句に惹かれた。同社の方々もしかり、これが創業の遺伝子である、と受け止めておられるとのことだった。また、日本の印刷業(印刷術)の大きな歴史観を披露していることに感動した。竹簡など文字(漢字)の多用、仮名の発明、仏典の写経などと歴史が変移するとともに、紙と印刷は相俟って進んできたものと考える。同じものを複製するということはそれだけの量の需要がないと成り立たない。しかし、文字・絵・図面等の印刷文化の享受が一般大衆の下層まで拡大したのはようやく江戸時代に入ってからであり、その土壌の涵養を土台にして、明治の「文明開化」でほぼ全国民を対象とするようになり、識字率も100%近くにまで達するようになった。
これからの時代においても、対象は全国民であることは当然だろうが、そうするとユーザーの総数には常に限界があることになる。そういう端緒を開いた時代に、「印刷術は美術なり」と言い切った創業者達は素晴らしいと思う。使いたくない言葉だが、民度を高めることなくして、印刷文化のさらなる高揚は成し遂げられないだろう。というか、印刷文化は民度と同義なのかもしれない。
いくつかのもやもやとしたところがあったが、同社の好意を受けて、すっきりした。感謝に限りはない。
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3.21世紀事業戦略
凸版印刷はどこへ向おうとしているのか?
●凸版印刷の事業範囲と方向性
凸版印刷の現在の事業領域は「幅広い」と感じる。同社は以下の5つの系に整理している。
「情報・ネットワーク系」
「生活環境系」
「エレクトロニクス系」
「パーソナルサービス系」
「次世代商品系」
ここだけを切り出すと、一般人にはどんな会社か一掴みではわからない。また、規模の大きい会社を一言で表すこと自体が土台無理な話とも言える。そう思っていたら、良い図を見つけた。元図はもっと詳しいが、その骨格だけを抜き書きして下図を作った。
この図は経緯を辿ってみると、Annual Report2013に初めて登場している。上述した5つの系は、下図の「印刷テクノロジー」の囲みの中に詳しく描かれている。曰く、いままでに実現してきた様々なソリューション、今後提供されるソリューション、として説明されている。
同社の原点に立ち返っても、また同社の将来を睨んでも、この図は同社の「不変のスタンス」を分かりやすくアピールしていると思う。「印刷テクノロジー」は時代の変化につれ、発展して止まないだろう。
●社風 TOPPAN VISION 21
社風たる企業像は以下の言葉にまとめられている。いささか「個性」が埋没した一般的な表現となっているようにも見受けられるが、「彩りの知と技」「ひとりひとりの能力を尊重し、自由闊達でチャレンジ精神豊か」というのが、実際の社風を表していると同社と付き合いのある知人に教えてもらった。そういう思いで読むとなるほどと分かってくる面がある。創業者の「印刷術は美術なり」の思想にしっかりと裏付けされていることにも気づく。
企業理念
・私たちは 常にお客さまの信頼にこたえ 彩りの知と技をもとに こころをこめた作品を創りだし 情報・文化の
担い手として ふれあい豊かなくらしに貢献します
経営信条
・私たちは 誠意・熱意・創意をこめた価値創造活動により お客さまとの信頼を築きます
・私たちは 高品質の作品・サービスを創造し 事業の持続的発展に努めます
・私たちは 法令・社会規範・社内規則を遵守し 社会の一員としての責任と使命をまっとうします
・私たちは ひとりひとりの能力を尊重し 自由闊達でチャレンジ精神豊かな企業風土をつくります
・私たちは トッパングループの一員として グループ各部門との協働により コミュニケーションの新たな可能性
を切り拓きます
●実際にやっている興味深いこと-月刊誌「TOPPAN idea note」から
上記のような説明は、一般人から見ると具体性が捉えにくい面があるが、それはある意味、致し方ないのかもしれない。それではこのような「お題目」が実際、どのように実践されているのかを探ってみたいと思った。そこで同社が発行している月刊誌「TOPPAN idea note」からいくつかの記事を拾ってみることにした。そこから、創業者精神を受け継ぎ発展させていることになっているのではないかという関心を持ったことを抜き書きしてみたい。
1)102号(2016.8)特集「ニッポンは、これから地域を自慢する。」
【国内外の旅行者ニーズも”十人十色“さらには”一人十色“といわれるほど多様化。これまでのお決まりのコンテンツではア、それらのニーズを満たすことは容易ではありません。大切なのは、これまで観光の対象として認識されなかったそれぞれの地域の「自然」「歴史・伝統」「産業」「生活文化」など、地域に根付いた資源を発見または再発見し、より魅力的なコンテンツとして発信していくことです。(p5)】
【「旅道®」とは、何度も旅したくなる日本の実現に向けて、トッパンがさまざまな企業・団体と取り組む活動です。(p9)】
【大切なのは、地域に息づく暮らし、自然、歴史、文化などの資源を最大限活用し、住む人にとっても、訪れる人にとっても心地よい空間、また訪れたいと思う地域づくりを進めていくことです。言い換えれば、幅広い関係者が多様な地域資源を活用しながら、観光を軸とした地域づくりを行っていくことで、地域の人々と来訪者が触れ合う場を提供し、地域のファンを増やしていく取り組みともいえます。トッパンは、「旅道®」を通じて、地域の観光振興に対する意識を高め、交流人口の増加を図ります。(p8)】
2)100号(2016.6)ポイントは、既存市場の中の新市場を、いかに見出すか?
【ひと昔前多くの企業は、情報を同時に多くの人に届けることで商売していました。・・・しかし、今、世の中の市場は大きく3つに分かれているとみています。・・・「プレミアム」「ミドル」「ファスト」という言い方をしますけれど、・・・高効率・大量消費を念頭に置くパターン、ミドル相手にしっかりとものをつくるパターン、そして、さらにその上のプレミアムなものを売っていく、売り方もプレミアムなものにするパターンと、3つの市場それぞれに適した施策を打っていく(p3)】
【トッパンは印刷という事業を通じたアナログコミュニケーションをベースとして、近年ではデジタルコミュニケーションにも高品位なソリューションを確立しています。アナログとデジタルのベストマッチイングを他に先駆けて提案することができるのはトッパンの大きなアドバンテージです(p3)】
多様性前提の時代に
以上の二例から見えてくることは、ひとつは人々の持っているニーズが多様であることを正しく認識しないと商売にならなくなっているということだ。以前の時代でもニーズが多様でなかったとは言い切れないと思うが、ヒット商品を当てればバカ売れして、それを創造性と自己満足していた時代はあったかもしれない。だが、そういう時代は終わり、いくら工夫してもヒット商品は生まれにくくなった。そこで、多様なニーズに応えるのが基本の時代になったと理解した。
多くの出版本の中にはヒット本は確かにあるが、大多数はヒットしない。しかし、落ち着いて作者の言わんとすることを味わい、自分とは異なった他者の文化に触れることができる本が多い。だが、良書は必ずしもベストセラーにならない。もし、ベストセラーの本だけが書店に並ぶようになったら、読書は相当つまらなくなると思う。多分、古典というか昔出版された本を古本屋や図書館で漁る時代(ネット図書館ができてしまうかもしれない)になるだろう。そして、文明の停滞、暗黒の新しい中世がやってきそうな気がする。そうならないように、これからも多様な主題の本をいくつも出版し続けて欲しいものだ。そう思うようになったので、気になる本は自分自身でできる限り購入して、実際に読破することにしている。
この点で、凸版印刷は、多様さを内包した既存市場に新しいビジネスチャンスを発掘しようと思っているような気がする。心強い限りだ。
多様性と営業性は折り合うのか?
ものなりサービスなりを売らんとする際に、売れ率なる一定値があるとすれば、新しい地により広い市場を求めていく、競合者がいるとすれば今は有限となったグローバル市場でのシェア争いに果敢に挑んでいくことになる。そうしない限り売り上げ量は増えないので、そういう営業戦略はあり得る。
ところが、文字文化であれば、どんな言語でもよい、とはなりにくいと思う。やはり、その地域の母国語に根差した事業となろう。多言語を利用するようになっても、日本語圏であれば日本語ベースとなるのは必然だ。日本語圏の市場の大きさは、基本、日本語人口の市場の大きさしかない。そうなると、当然、マスに限界がある。
それで、「一家に一台」時代が過ぎると「一人一台時代が到来した」と喚くが、さらにその先に、「一人X台時代」というのはありえない。行き着く先は個人の家や庭が、それらの諸品の倉庫と化してしまうだろうし、一部にそのような「ゴミ屋敷」化した「ウサギ小屋」やその予備軍が現れている世相になってしまった。
このように、文字文化を商売道具とすると消費者の数にはもともと限界がある。そうなると文字文化に新しい価値を生み出す(見出す、の方が当たっているかもしれない)しかない。文字文化の新しい価値とはなんだろうか。それは新しい文化のような気がする。新しい文化は新しく創造するしかない。だが、創造というのはなんでもかんでも新品から新品を作るということではない。新しい価値そのものを造ることになる。
創業者達も「文化の担い手」たらんとし、「文明人による社会建設」を望んだ。その立ち位置は今後も不変ということではないか。ここに現在の凸版印刷のこれからの挑戦があるのだろう。どうやって、営業性のある文化創造の実を挙げるのか。
文化創造の担い手となるには・・・
新しい価値は、何かのものやシステムによって支えられるものではなく、そこに住む、そこにやってくる人たちによって、協奏されて醸し出されるものだと凸版印刷は言っている。
ここで、そのとおりだと思いつつ、ひとつの疑問を持った。協奏の一端を凸版印刷は自ら担うのではないか?何かサービス製品を売りつけて、後はおさらばするという商法で収まるらないのではないか?という疑問だ。「ミイラ取りがミイラ」になってしまうのが自然体ではないかという発想だ。そこで、そのような実態がないかと探してみた。
近年の各企業は、CSR活動などと称して、地域に貢献している
凸版印刷もHPのCSR活動の欄で、
【国内外の事業所では、町内会などに代表される地域の声を集約する組織に参画して、対話を通じて要望、課題などを確認し、活動に取り組んでいます。環境美化・清掃活動はもちろん、次世代育成や教育への協力、地域における産業安全衛生の向上、災害時の協力体制の構築など広範な取り組みを行っています。
高島平図書館では板橋区内に事業所・本社を置く企業のCSR活動を紹介する展示コーナーを設けており、2016年9月からはトッパンのCSR活動を展示させていただいております。図書館は地域住民が一番身近に立ちよれる場所であり、地域住民に向けて企業はビジネス以外にも社会貢献活動などの取り組みを来館者に知ってもらう展示活動を行っています。トッパンは2015年に続き2回目のCSR活動紹介となり、取り組み紹介のパネルや、活動で使用されているさまざまな物品の展示を行っています。】と板橋区立高島平図書館におけるCSR活動紹介について紹介している。
その中に、「印刷の学校」という活動がある。
【板橋区の小学生が地元の商店街のガイドブックの編集部員となって商店を訪問して取材を行い、ガイドブックを制作する統合学習プログラムの紹介。トッパンの社員がガイドブック編集部を全面的にサポートしています。】とある。
板橋区志村坂上に凸版印刷の板橋工場があるので、高島平図書館は地元だろう。地元対策という言葉が従来あったが、時代の変遷とともに「地元対策」の意味合いに変化が生じているのではないかと想像する。以前は、地元対会社(工場)という一定の対立関係があったが、今は会社=地元の一構成員という変化が生じているような気がする。別の言い方をすれば、地元のお祭りなどの担い手として、地元企業は無くてはならない存在になってきているし、もっと、広い、長い目で見れば「印刷の学校」のように次世代の育成は、学校や個々の家庭の能力を超え、企業の担い手達の参画なしには将来は見通せなくなってきているのではないか。もし、企業活動をすればするほど、次世代から見放されるとしたら、その企業活動は存立する基盤を失うのは明白である。
そういうつもりで、この項の最初の段落を読み返してみて欲しい。国内外(!)の事業所は町内会などの地元の重要な一構成員となっていることを宣言している。
「企業の社会的責任」の行き着く先は?
企業の社会的責任(corporate social responsibility、略称:CSR)とは、企業が倫理的観点から事業活動を通じて、自主的(ボランタリー)に社会に貢献する責任のことだとされている。
地域に引かれた鉄道は人口減等で採算が合わなくなると撤退、廃止の方向になってしまう。元来、鉄道はその地域の経済(ここでは金銭のやり取りではなくて、人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動全般を指しているつもり)の維持発展のために貢献すべきものであるが、歯車が狂うと前者の意味での金銭計算から結論が導かれ、後者の意味での人間生活のありようを停滞、破壊してしまう。
企業に選挙権を与えるべきだとは決して言わないが、地域社会の有力な構成員としての位置づけと地域社会への貢献に見合う「報酬」を含めて、企業側も地域社会もより合理的な関係を構築すべき時代になったのではないかと思う。ひとつの議題として、「自主的(ボランタリー)」であることは重要だと思うが、これには適切な「報酬」で地域社会は対応すべきではないかを検討してみると良いのではないかと提案してみたい。
このように、凸版の創業者達は、「印刷術は美術なり」と世の中に打って出た。美術はある意味、売り物ではない。文化そのものだ。文化の担い手は人々である。人々はある単位で共生している、と分析できる。それはある場合は、日本全体であるし、市町村でもよいし、ある地区でもよい。また、ある同好の集まりでもよい。さらに企業でもよい。その共生単位の文化を発展させることに事業の根幹があるとさりげなく言っているように私は凸版印刷を勉強して、強く感じ、大いに触発された。
最後に改めて、お世話になっている同社の方々に心から感謝する。
【管理人 コメント】
凸版印刷の開業当時の様子は、現代のベンチャー企業のスタートアップに似ているように思います。取引先の発掘や資金集めなど、立ち上げ準備期間の長さから見て創業者の事業への思い入れの強さを感じます。しかし、21世紀事業戦略をみると、企業理念や経営信条は筆者の述べられているようにやや「個性」が埋没した他企業のものと同じようなものになっており、これらの条文からは今後目指す強い方向性が見てとれず、現在その活路を模索している様にも感じます。現在多くのベンチャー企業が果敢に立ち上げられていますが、大きく成長できるのは氷山の一角、あるものは新たな技術にとって代わられ、またあるものは自社事業のみでは成長が望めずに他企業との協業、合併などが繰り返されています。昨今、種々の分野における急速な技術の変化のみならず、それに伴って人々の趣味・思考も目まぐるしく変化しています。今後、凸版印刷がこのような急速な変化に対して、どのように対応していくのか楽しみにしたいと思います。
【著者追記】
ご指摘の暗中模索的な要素は確かに強いと思います。同社が今後どのような展開をされるかは目が離せません。
さて、記事中では触れませんでしたが、本社ビルには「印刷博物館」だけでなく、「トッパンホール」 http://www.toppanhall.com/ もあります。神楽坂が近いので、音楽鑑賞(博物館見学+)と食事というコースも楽しめそうな気がします。いつかこのコースを試してみたいと思います。
また、渋谷栄一記念財団が、デジタル版「渋沢栄一伝記資料」
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/ を公開しています。この作成に凸版印刷の技術が貢献したそうです。これは使い勝手が良さそうで、私のような輩には無尽蔵の宝庫のようなものです。
また、今年11月に開館した「すみだ北斎美術館」 http://hokusai-museum.jp/ では色彩復元した「須佐之男命厄神退治之図」を展示しているそうです。これの復元にも同社が関与したようです。これも是非とも訪れたいですね。
長野県小布施に「北斎館」 http://hokusai-kan.com/w/user-guide があって見学し、北斎の「油絵」などに大いに感動しましたが、ようやく江戸にもできましたね。
こういう活動というか事業が大いに展開していくと、日本の新しい財産が積み上がっていくと思います。
(本稿終わり)
科学と技術を考える34 「19世紀起業の21世紀事業」-(2) 凸版印刷 終
サイト掲載日:2017年3月10日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明