科学と技術を考える33
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「19世紀起業の21世紀事業」
(1)京浜急行
注:元ネタはすべてネットサーフィンでアクセスできる公開情報である。
1.京浜急行の概観
なぜ、最初のテーマが京浜急行であるかは、後ほどわかる。まずは、当社のHP (http://www.keikyu.co.jp/company/outline.html)から大掴みに京浜急行を把握したい。
社名:京浜急行電鉄株式会社 [Keikyu Corporation]
創業:明治31(1898)年2月25日(前身:大師電気鉄道株式会社)
事業内容:交通事業、不動産事業、レジャー・サービス事業、流通事業、その他事業
京急の歩み(要約):
わが国の近代化の道は、日清戦争を経て一層激しく進み、人間、貨物の往来も増加の一途をたどり、新しい交通機関の必要性が次第に高まった。この機運に応え、横浜から川崎町を経て大師河原町に至る横浜電車鉄道と、縁日で賑わう川崎大師と川崎町を結ぶ川崎電気鉄道の建設がそれぞれ計画された。この両社を合同して、明治31年2月25日、資本金98,000円で「大師電気鉄道株式会社」が創立、翌32年1月21日大師縁日を期して華々しく営業を開始。
京都市電、名古屋電気鉄道に続くわが国三番目、関東では最古の歴史を有する京浜急行電鉄の母体、大師電気鉄道の発足。
営業路線は六郷橋から大師を結ぶわずか2.0キロ、車両数5両、最高時速13キロ、従業員数17人、営業時間は午前7時から午後8時までという極めて小規模なもの。運賃は六郷橋-大師間並等5銭、上等10銭。
その後、同年4月「京浜電気鉄道株式会社」に社名変更、11月に複線運転を開始。明治37年5月品川乗り入れを実現、翌38年12月には川崎-神奈川間を全通、こうして品川-神奈川間が直結。さらに昭和4年6月神奈川-月見橋間、昭和5年2月月見橋-横浜間、昭和6年12月横浜-日ノ出町間開通、湘南電気鉄道との連絡が完成して、昭和8年4月品川-浦賀間の直通運転を開始。
昭和16年11月に湘南半島自動車を併合し、三浦半島方面への事業拡大により飛躍的な成長。
戦時中は事業統制により小田急電鉄とともに東京横浜電鉄に合併して東京急行電鉄となったが、昭和23年6月に分離し、資本金1億円の京浜急行電鉄株式会社として新たに発足。
これで、入門はできたと思う。さらに詳しくは、以下のWebページを参照されるとよい。同社の歴史に多くの関心が注がれていることが素人にも分かる。ジャーナリスティックには、五島慶太(東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者)との確執が面白そうだが、ここでは触れない。
●Webページ「京急歴史館」 http://www.keikyu.co.jp/information/history/index.html
●「中川浩一の京急電鉄史」 http://ktymtskz.my.coocan.jp/nakagawa/keikyu.htm
2.19世紀創業者
創業趣旨書のようなものはないらしい。
『京浜急行百年史』京浜急行電鉄株式会社編 1999.03にもその辺りの記述はないとのことである。そうなると創業者の人となりを調べてみるしかない。
2.1 立川勇次郎 顕彰碑から
「養老町の歴史文化資源」 郷土の先人から http://tagizou.com/main/ancestors/
「立川勇次郎は、文久二年(一八六二)美濃国の大垣藩士・清水恒右衛門の次男に生まれ明治一四年、同藩々士・立川清助の養子となりました。早くから法律学を志し、弱冠にして代言人(弁護士のこと)の資格を得、名古屋で開業しましたが、産業、社会の近代化が進むなか、時運の大勢を洞察した立川は、法曹会の生活から一転して実業家の道を決意し、明治一九年に上京、電鉄および電力の企業化を目標に自己の進路を切り開くことになりました。
当時の東京市内の主要な交通手段は、鉄道馬車でした。大量高速輸送機関の開設が首都の発展、近代化に不可欠と考えた立川は、明治二二年、電気鉄道敷設の免許をいち早く出願しましたが許可されず、一時九州に下って炭鉱事業に携わりました。しかし、電鉄事業に情熱を燃やし続けた立川は、川崎電気鉄道の建設に参画し、明治三七年に開業。この川崎電気鉄道は後に京浜電気鉄道と改称し、東京〜横浜間を結ぶ我が国最初の都市間輸送の電鉄となり、代表者として経営の任にあたりました。
現在の川崎大師駅前には、機関車の車輪を模した「電気鉄道発祥の地」とする立川勇次郎の顕彰碑があります。
一方、先に却下された東京電気鉄道の認可申請を東京市街鉄道と改称して再出願した立川は、開業後乗車賃制度の改革に取り組み、当時としては画期的ともいえる料金均一制度を実現させました。
また、立川は電鉄事業のほか、東京白熱電灯製造(後の東京芝浦電気)の経営にも参画し、電球、電気機器の製造普及に努める一方、東京〜大阪間に高速電鉄を企画するなど、事業家としては時代に先行し過ぎる一面がありました。
その後、郷土である西濃にも開発の灯をつけようと、明治四四年、資本金一五〇万円で養老鉄道会社を創設し、翌年から線路用地の買収に着手しました。しかし、「先祖伝来の土地を簡単に売るわけにはいかない」、客馬車や人力、舟運に従事する人々からは、「客をとられて生活できなくなる」と大反対を受け、交渉は容易に進みませんでした。それでも、立川は昼夜を問わず鉄道の必要性を説いてまわり、その精力的な働きかけにより大正二年七月、池野〜養老間(二四・七キロ)の営業を開始するに至り、大正八年には池野〜揖斐、養老〜桑名が開通しました。
開設当時は蒸気機関車で、長い煙突から石炭の黒煙をもくもくと吐きながら二〜三両の客車を引いて走りました。客車といっても、現在のものと違って木製の車両で通路がなく横に長い座席の貧弱なものでした。それでも耳をつんざくばかりの汽笛を鳴らし、墨煙をあげ、ピストンから白い蒸気を噴き出しながらシュッポシュッポ、ゴトンゴトンと走る姿は人々を驚かせ、汽車に乗って大垣へ行くことは大きな喜びでした。
この鉄道は、国鉄東海道線と関西本線を結ぶ短絡線として比較的貨物輸送量が多く、毎日桑名〜大垣間に二往復、大垣〜揖斐間に二往復の定期貨物列車を運転するほか、多数の臨時列車を出して輸送の円滑を図り、当地方の経済、生産、文化をはじめ日常生活に大きな影響を与えました。大正の初め頃に、石畑村の近くで強い西風にあおられて客車が転覆するという、今日では考えられないようなアクシデントもあり、随分世間を騒がせました。
大正六年、揖斐川電化工業株式会社(現在のイビデン株式会社)の初代社長に就任した立川は、全線開通だけでは満足せず、かねての計画であった鉄道の電化をめざして、大正二年に養老鉄道株式会社を合併し、その翌年には全線電化工事も終わり、汽車に変わって電車が登場しました。電化により利用者は一日平均二割増の五千人に伸び貨物輸送も年間八万〜一〇万トンに達したほか、長く山間に埋もれた養老の景勝が広く世に出ることとなったばかりでなく、現在の西濃地区の発展の原動力ともなったのでした。
その後、養老鉄道は伊勢電鉄や関西急行鉄道などと合併を繰り返しましたが、昭和一九年から近畿日本鉄道株式会社の所属となって現在に至っています。
立川は、時代を見抜く鋭い洞察力と行動力に富んだスケールの大きな事業家で、西濃地方の灯をともした恩人ともいえる人でしたが大正一四年(一九二五)、外遊中に得た病が愈えず、惜しまれつつ六四歳でこの世を去りました。
立川の死を悼み、昭和二年、その功績を讃えて養老駅前に巨岩の顕彰碑が建てられ、昭和四二年には地元民らが中心となって顕彰会が結成され、毎年八月一六日、遺族を迎えて顕彰祭が厳かに営まれています。」
このように書かれると、立川が一人でなんでもかんでもやったように読めてしまう。同郷の方々の心情は理解できるが、これでは後進、次世代の育成のためには大きな何かが欠けていると思う。
「英雄」というのは要するに手下の人々をこき使って立身出世した類が多いが、歴史上に名を遺したので「歴史書」に記載されている。「英雄」一人で幾千万の戦士の戦闘能力を奪える訳がない。
「偉人」というのにも、その要素がある場合もあるが、多くは「同志、同士」を糾合し、支援者も得て、偉業を成し遂げる場合が多い。この人もほぼ一人では偉業を成し遂げることができなかったはずだ。
すなわち、「英雄」にしてもそうだが、「偉人」には同志を集める力、周りの人々を納得させる力が、事業をやり遂げる力などが総合的に必要になるはずだ。
その立川が自ら語った「同志」の話を次に紹介しておこう。
2.2 立川勇次郎による藤岡の追憶談
北山敏和の鉄道いまむかし http://ktymtskz.my.coocan.jp/ 「立川勇次郎、笠井愛次郎と藤岡市助」から
「私が藤岡博士を始めて知りましたのは明治26年ことでした。もっともそれ以前からご高名は聞いておりましたが、ご高名を聞いたのは矢張り電気のことからであります。
明治21年に、私共4~5名のものが申し合せまして、東京市内に電気鉄道を始めて出願致しました。併しこれは私が電気のことに明るい為にやった訳ではありません。当時私は法律を業とし弁護士をしておりました。ところが、その頃宏虎童という人の父に宏佛海という人がおりまして、永平寺の僧か何かをしておられた人が中心で、横浜の上郎という人と、他に一人アメリカに長く行っておられた人とが電気鉄道を計画され、上郎という人と宏佛海という人が名義人となって、電気鉄道を出願することについて、法律を知らないから法律家を頼まなくては出願出来ないというので、私がこれに加わって出願した訳であります。
当時は軌道条令もなく、時の総理大臣に向って直接に願書を提出したのであります。その頃藤岡博士は大倉喜八郎さんの奨めもあって、同じく東京市内に電気鉄道を出願されました。これは専門の方が充分計画されて出願されたのでありますが、その時に始めて博士の名を知りました。不幸にして双方とも許可されなかったのでありますが、当時の内閣総理大臣は黒田清隆君で、出願の件は詮議に及び難しということでありました。
その後明治26年になりまして、雨宮敬次郎君が大層大きい計画を建て、電気鉄道期成同盟会というものを設けて、電気鉄道の出願をされました。そこで私もその時すでに法律の仕事を止めていましたので、専心実業に従事しようという決心のもとに事業に取掛ったのであります。幸いこれはよい問題が起った、自分達は既に明治21年に電気鉄道を出願したのであるから、自分等の出願した当時は詮議に及ばなかったのであるが、若し詮議に及ぶとすれば、自分等のは第1番であるというので再び出願した所が、云わず語らす藤岡博士も同じ趣旨で明治26年に第2回目の出願をなさいました。
ここにおいて雨宮君、藤岡博士、それから私共の一派と三つの出願があった訳であります。その時私は藤岡さんと一所に会いまして、どうもこういうことをお互いに争っておってはいけないから、一緒になってやろうではないかと相談したのが、博士と懇意になった初めであります。それから藤岡博士と私とが、そろって雨宮敬次郎君の所へ行きましたが、この時初めて雨宮君と知己になったのであります。ここに三派が一緒になって、馬車鉄道を速かに廃止して電気鉄道をやらうということになり、新に出願をいたしました。
その後になりまして又他からも出願者がありまして、たしか星亨君が逓信大臣になっている時に、なお後から出願した三派とも合同すればということであったので、又これを合併して東京市街鉄道の許可を得たのであります。
それ以来、京浜電気鉄道会社を始め、水力電気事業等私が関係いたします時には、いつも藤岡君が電気学の調べをして助けて下さいました。又藤岡君のやられる仕事には、私はいつも同意しまして、それからは事業には必ず相提携して一緒にやりました次第であります。
藤岡君について特に感じた一例は、東京電車会社と市街鉄道との合併問題についてでありますが、当時世間は大騒ぎで、なんともひどい問題になりました。あの時は私共は非合併を唱えたのです。何故非合併を唱えたかと申しますと、即ち今日行なわれている運賃均一制を実行したい為であります。均一制を実行するということは、会社のため市民のためで、その時に均一制を編み出して算盤を取りましたのは藤岡博士であります。
私はこれを聞いて、もっともなことでありますから、将来繁華な土地には均一制を布いて行かればならないということを堅く信じて、真っ先に立ってこの論を主張したのであります。所があの時は株主の大多数は区域制度を主張し、三銭均一制度を実行しようという株主は極めて少数であったのであります。しかし一般世間は、この均一制になる方が交通の便がよいというので大賛成で、各新聞紙は勿論、市民はそろって均一制に賛意を表していたのでありました。
一体藤岡君は前に立ってやられる方ではない。それにその当時は技師長でありまして、余り大きな声で相談も出来ませんから、毎晩寄りまして協議を進めるという具合でありました。その際は私共は随分正面から議論もし、また側面から攻撃をも受けたのであります。当時私は京浜電気の専務取締役をしておりましたが、会社の株主は京浜電気にあのような議論をする奴があるが、どうしたものだろうなどと、随分側面から攻撃を喰ったのであります。一方、藤岡博士は会社の内輪から責められて、余程苦しい立場に立たれたようでありました。
それから株主総会の場合になりまして、藤岡博士は引張り出されて、果して技術上均一制度を行って、利益があるかどうか説明を求められるという有様で、藤岡君を攻撃する人の中には、あれは学者であるが、学者にも似合わず利益を考へている男だ。現に株を沢山持っている。あれは自分の学理上からこういうことが必要であるという議論ではなくて、株の利益の為に賛成しているのだなどと、随分酷い攻撃を加へた人もあったのであります。
だけども藤岡博士はさうではなく、アメリカに行って欧米の事情を充分に調べて計算せられ、これは利益である、市街鉄道はこういう制度でなくてはならないという堅い信念のもとに主張されたのでありました。むしろこの際は多数株主の説に従って藤岡君がやられたならば、大変楽なことでもあり、賞揚されたのでありましょうが、自分の堅く信じていることを応用しようというので、博士の持っておられる株が、他日非常なる金になることを知りつつも、直にその株を残らず売って仕舞はれて、株主でないものになって、均一制を断固として行はれたのであります。私はその時始めて藤岡君は利益ということを第二第三に置かれて、自分の信じたることを実行する為に、どこまでも初心を貫く人であるということに深く感心致しました。
かくして均一制は実現し、而していよいよ非合併の方が勝って、均一制度が布かれる時になりまして、市街鉄道の株がずっと暴騰して、株を持っていた人は大変利益を受けたのであります。これは私が同君と仕事を共にして參りました内に、藤岡博士は自分の決心を貫くに私慾に拘泥せず、お国の為にどこまでも自説を遂行される人であるということを知った一例であります。
その後に至りましても色々のことが御座いましたが、東京電気会社が実に微々として振はず、而も非常の苦境に陥りましたのをようやく今日の盛況に致しまするについても、矢張り藤岡君は自分の私財をなげうって、私慾に拘泥せす、事業を盛大にしようという熱心から、今日の盛況を見ましたことと堅く信じております。
以上私は最も尊い藤岡君の性質について、信じていることを一言申し述べて追慕の一端と致します。」
(大正7年3月 築地精養軒で開かれた藤岡会にて)
どうだろうか。立川の人柄が浮かび上がってくる。
まず私は、馬車鉄道でなくて電気鉄道に目を付けたのはどうしてか?と関心を持ったが、これは立川のアイデアではなかったことを自らが率直に話している。
創業者立川は、法律家であったがその専門性に縋ることは断念し、電気事業を興すことに注目し、技術的な同志(=藤岡市助:工部大学校出身、東京電気株式会社創始者)に恵まれてこの事業を展開したことが分かる。財政的支援者もいたはず(渋沢栄一や安田財閥らしい)で、未来を展望する力と共にそのようなコーディネート能力(説得力も込めて)に優れていたとみたい。産学官金(金は資金、金融)連携だったわけだ。同志たちを糾合する力、信じる力、許容力、守るべきは断固として守る信念の強さなどが見て取れる。
また、故郷での事業興しも成功しており、なべて見ると、料金均一性の主張から見て、この手の事業では市民を味方につけないと収益が上がらず、発展しないと計算づくで理解していた向きがある。故郷では最初は石炭蒸気だったが、遅からず電気機関に変えたのも、こだわりというか戦略性が見える。その背景では、発電事業も計算していたはずである。
ここから創業精神を強引にみちびくことはできないが、鉄道だけにこだわるのではなく、発電から鉄道までの技術、経営、その利用者の生活までを総体的に捉えて事業戦略を立てていたと考える。
3.21世紀事業戦略
さて今の経営者は何をどう思い、どうしようとしているか。
3.1 現社長 原田一之氏 発言から
毎日新聞 長官 2016年10月4日 統12版 11面 コラム「発言」 「人口減少と鉄道の役割」
「鉄道は今も、昔も、これからも市民の足である。我が国は今後、急速な少子高齢化や人口減少に向かう。(略)
鉄道は経済の発展に寄与する重要な社会資本である。経済が右肩上がりの時は、デベロッパー的な役割がより大きかった。
ただ、これからは沿線地域の社会・文化活動の発展など「まちづくり」に寄与する社会資本としての役割が増していくだろう。
沿線の魅力や都市機能を向上させるため、国や自治体だけでなく地元の商店街や大学など教育機関との連携による取り組みが欠かせない。
(略)
地元の横浜市立大学が主導したまちづくりの勉強会に住民とともに参加して協働を図る取り組みや、社員による住民へのヒアリングなど、地元のニーズを反映させる試みを始めている。
(略)」
この記事は少なからず衝撃的だった。
東京(圏)の明治以降の大発展は、何もないところにまず鉄路が開かれた経緯に極めて高く依存していると知人から聞いたことがある。人家、工場などが建ってしまったところに計画鉄道(道路)を通すのは難儀で、海外の大都市とは違った発展が東京圏には可能だったということだ。
ところが、交通手段が多様化し、かつ人口減少、高齢化と付随して、人口密度の濃淡の二極化が進む中で、おれんところは鉄路だけ、という事業戦略は持続性がないことは明白だ。かと言って、創業精神や既存の強みを投げ捨てて、新展開していくこともあり得ない。創業精神に立ち返り、時代の変化に対応し、かつ時代を先取りした「新定義」「新解釈」があってしかるべきと考えていた。
京急は創業1899年。この時代の「時代感覚」には、間違いなく、日本国、日本人の未来への貢献という視座があったはず。そこで、これらの日本の一世紀企業が21世紀以降を展望して、どのような趣意書を出して行くのかが、私の関心事だった。
この記事内容が、21世紀趣意書に当たると言ってよい。そこで、その具体的検証をしてみようと思い立ち、この記事を書いた。
まずは、同社の現在の「総合経営計画」である。
3.2 総合経営計画
http://www.keikyu.co.jp/company/vision.html から
○長期ビジョン
品川・羽田を玄関口として、国内外の多くの人々が集う、豊かな沿線を実現する
リニア中央新幹線の開業や駅周辺の大規模開発が進む「品川」、訪日外国人がさらに増加し国際ハブ空港として成長する「羽田空港」のポテンシャルを背景に、品川・羽田の中心的な存在となり、その波及効果を沿線の街づくりや周辺ビジネスに活かしていくことで、日本社会が直面する人口減少という大きなテーマに立ち向かう企業集団となる
○中期計画
[エリア戦略の重点テーマ]
1. 品川を筆頭に駅周辺を核とする街づくりの推進
本年4月に地区計画が決定された品川駅周辺地区において、品川駅周辺の発展を担う事業者として、土地区画整理の手法を活用した開発の2019年度着手を目指し、国際交流拠点化に向けた開発事業を推進する。この品川駅周辺開発を筆頭に、沿線の拠点となる地域において、特性に応じた街づくりを推進し、「品川」「羽田空港」のポテンシャルを最大限沿線の活性化へ波及させる。
2. 羽田における基盤強化の推進
羽田空港アクセスにおいて確固たる地位を確立していくとともに、羽田空港周辺エリアにおいて、ホテル、商業施設、賃貸物件等への積極的な投資を行い、京急グループの基盤強化に努める。
3. 都市近郊リゾート三浦の創生
新たな観光の拠点づくりを行うとともに、鉄道・バス・タクシー等との連携により回遊性を向上させ、三浦半島観光活性化の基盤を作る。また、シニアがいきいきと暮らすエリアを目指して、住まいや健康増進の拠点づくりに取り組む。
4. 地域とともに歩む
地元・行政および観光事業者・開発事業者等との連携可能性を追求し、各地域の特性を活かし、魅力を向上させる事業を展開する。また、当社および当社グループ会社の本社を沿線の中心である横浜へ移転し、沿線全域にわたるエリア戦略の推進強化を図る。
[事業戦略の重点テーマ]
1. 基幹たる交通事業の基盤強化
羽田空港アクセスにおける確固たる地位を確立していくとともに、安全・安定輸送を継続し、事業構造を変革していくことにより、安定的な利益確保に努める。また、輸送サービスの高付加価値化などにより快適な移動を実現し、新たな旅客獲得を目指す。
2. 賃貸事業・マンション分譲事業の戦略的展開
沿線および都心部を中心に、建設・販売・管理を一体とした体制のもと、賃貸事業・マンション分譲事業を展開し、交通事業に並ぶ事業へ向けて成長を図る。また、リノベーション事業等の既存ストックを活用した事業の強化も図る。
3. 訪日外国人需要の取込み
羽田空港国際線・国内線ターミナル駅を、当社グループの「おもてなし」を発信する拠点としていくとともに、訪日外国人の快適な移動実現に向けた施策を強化し、訪日外国人需要を確実に取り込んでいく。
4. 筋肉質な事業構造への変革
低収益事業の抜本的改革、重複する事業・組織の整理統合、既存事業の利益率改善を図るとともに、時代や環境変化を捉えた新規事業の展開を図る。また、有利子負債の削減等財務体質の改善に継続して取り組む。
[お客さま戦略の重点テーマ]
すべてはお客さまのために
エリア戦略・事業戦略の礎として、お客さまの声を企業経営に取り込んでいくとともに、お客さま志向の徹底に向けた人材育成を推進するなど、お客さまに選ばれる商品・サービス水準を常に追求していく。
原田社長の談話に出た横浜市立大学はどう言っているのかを次に示す。
3.3 横浜市立大学 国際都市学系
http://www.yokohama-cu.ac.jp/icas_new/iu/index.html
■まちづくりコース
■地域政策コース
■グローバル協力コース
・現代世界の都市や地域が抱えるさまざまな問題に、グローバルかつ学際的な視点で取り組みます。
育成目標
グローバルな知識と学問的な洞察力を備えつつ、現代的な課題に応える国際社会・都市社会を構想し、地域やコミュニティの問題について解決策を導き出せる人材を育成します。社会科学・空間科学・地域研究などの諸分野から、国際社会理解、都市社会理解、多文化理解を軸とする幅広い知識と教養を蓄えるためのカリキュラムを構築し、それらを社会の具体的な問題に応用することが可能です。また、フロンティア精神や起業マインドを身につけ、鋭敏な感覚をもって課題を「発見」し、諸問題の状況を積極的に「調査」し、得られた知見を綿密に「分析」して「考察」するという、一連の創造的な過程を修得することもできます。
21世紀の最大の課題である持続可能なグローバル社会の創造に、国際都市「横浜」から貢献できる人材を育成します。
環境破壊、格差・貧困、紛争、衛生問題など、地球社会は深刻な問題の数々に覆われています。国際都市学系は、これらの地球規模課題や都市が抱える諸問題の解決に果敢に挑戦し、国際的に指導的役割を果たせるグローバルな人材を育成することをめざしています。そのために、まちづくり・地域政策・グローバル協力という3つのコースを設定し、深い専門知識と知恵・経験にもとづく「思考力」や、外国語が堪能で、地域の自然・社会・文化等の諸問題への理解をもつ「国際力」などを身につけるための教育を行っています。また、実際に国内・国外のフィールドに出て、都市問題を含めた地球社会が抱える課題と実際に向き合って学んでいます。「社会に貢献したい」「世界の舞台で活躍したい」と考えるみなさんを大いに歓迎します。
・国際都市学系の3つのコース
まちづくりコース
都市が抱える課題に具体策を提案できる人材を育てます
横浜という「まち」を実践のフィールドとして、時代の変化に対応した都市の姿を構想し、プランニングや都市デザインを通して都市の課題の解決に貢献できる人材を養成します。安全で住みやすい「まち」、環境に配慮した持続可能な「まち」など、豊かな将来を市民参加で築いていくためのプランニング手法をフィールドワークを通して身につけていきます。
■このような志向を持つ人に最適
■まちづくり・都市計画・都市デザインに関心がある
■具体的な都市の諸課題を解決したい
■地理情報システムやプランニングに関わる手法を身につけたい
■将来は公務員やNPO・NGO職員などとして働きたい
地域政策コース
地域の問題に政策面から提言できる能力を身につけます
少子高齢化、環境問題、新たな産業の創出など、都市はこれまでにない問題の解決を迫られています。物があふれる現代に本当に豊かな暮らしを実現する、そうした将来の展望をどのように描いていけるのか。「地域」が直面するさまざまな課題を的確に把握し、その解決に必要な方策を提言できる人材を養成します。
■このような志向を持つ人に最適
■都市・地域の問題に関心がある
■都市・地域に関する学問を幅広く学びたい
■都市・地域を元気にしたい人・故郷の窮状を憂えている
■公務員や起業家などを目指す
グローバル協力コース
地球社会の多様な問題解決に果敢に挑戦する若者を養成します
地球規模の課題や世界各地の諸問題を深く考察し、フィールドワークなどの体験を重視。国際協力に関する幅広い知識と確かな語学力を身につけ、地球社会の問題解決に果敢に挑戦する若者を育てます。主にアジア地域の都市および大学、そして国際機関との協力関係を活用し、活躍の舞台を広げます。
■このような志向を持つ人に最適
■将来は国際機関や国際NGOで働きたい
■地球環境・貧困・平和・アジアに興味がある
■地球規模問題が起こる仕組みや解決策を考えたい
■アジアなど海外の地域について深く研究したい
恐れ入った。ここまでの調査では、原田社長の言葉通りの事業戦略と枠組みができていると判断せざるを得ない。
また、これからの産学連携において最も大事なことは、明治期のような「技術重視」では不十分なことである。いわば明治期以降では、単線の「技術重視」でも十分に効力を発揮できた。「技術」が初めて導入されたからであり、その改善、更新による波及効果のプラス率が高かったからである。100年経ち、波及効果を合わせても効果率の上昇を見込めなくなっているのが現状ではないだろうか。
そこでこれからは、技術重視は変えないとしても「複線主義」が不可欠だろう。「複数主義」とは「鉄路技術」だけで問題解決はできないということだ。同社は創業以来、「鉄路技術」と「発電・送電技術」を掛け合わせて事業を展開してきたことに特徴があるとみる。その点で「複数主義」に違和感はないはずだ。
さらに、「複数主義」であっても、AとBを組み合わせた特定技術ありきの「複数主義」ではなく、どのようなサービスとその向上が求められているかからバックキャストすることで最適の「複数主義」を指向する発想の切り替えが必要となっている。これこそが同社にひとつの解法を期待する要点である。
そうなると技術思想の転換が必要な上に、新しい発想を豊かに駆使できる新しい人材も必要になる。これらを総合的に進めていくためには、学との協働が不可欠で、しかもその実験場は大学の中、企業の中ではなく、市民が暮らす地域、自治体となるのが必定である。
さて、日本には100歳以上の企業が2万社近くあるらしい。新しい起業も大事だが、それらの長寿企業にも大きな出番があるはずである。今までの着物を着る勢力を温存しつつ、新しい着物を着せた新勢力を試してみるという根性は止めることにして、自社らしい21世紀の総合的発展を考えている企業が他にも多数あるはずだ。
京急の今後に期待しつつ、他の同種の企業にも関心を広げてみたい。そういう思い込みからも、「19世紀起業の21世紀事業」シリーズの展開に挑戦してみたい。
【管理人 コメント】
京浜急行は東京の西側玄関口の1つである品川(泉岳寺)から東京湾沿いに羽田空港、川崎、横浜と大都市圏を繋ぎ、更に横須賀を通って三浦半島先端の浦賀、三崎口まで走っている鉄道で、その路線のほとんどが位置する神奈川県は東京都に次いで2番目に人口が多く、特に横浜市は日本最大、川崎市は日本で7番目に人口の多い市(2016年10月現在, 全国の市 人口・面積・人口密度ランキング(http://uub.jp/rnk/c_j.html))であることからもわかるように、非常に利用者の多い路線を運営している会社です。
昔からほぼ全ての鉄道会社がそうであったように、京浜急行もこれまでこの地域の発展に重要な役割を果たし、貢献して来たものと思います。しかし、京浜急行の走るこれらの地域は現在、既に十分に整備され発展していることやその存在の便利さが当たり前になってしまっていることなどから、利用者からはあたかもこの地域に位置する鉄道はもはや巨大な経済圏を繋ぐ単なる交通網の1つであるかのように見えて(感じられて)しまっているのではないかと思います。10年、20年、30年と遡って移り変わりを辿ってみますと、都市部の鉄道は日々絶えることなく近代化が進められていることに気づきます。改札口は磁気情報をもった切符による自動改札機が整備されて、改札鋏(かいさつきょう)による鋏痕(きょうこん)をつける作業による利用者の改札渋滞を解消し、更にプリペイド型電子マネーカード化によって利便性を向上させてきました。現在、金融システムにフィンテック技術が取り入れられようとしていますが、今後は更に指紋認証による自動改札化や仮想通貨による支払いなどが導入されることになるのか、更なる技術的進化も楽しみです。また、現在はホームドア(ホームの安全柵)の設置が精力的に進められています(国土交通省 ホームドアの設置状況(http://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk6_000022.html))。これについては、利用者の安全面から考えると、これまでホームドアが設置されてこなかったのが不思議に感じます。この他にも、数分感覚で運行される電車の運行管理、問題が発生した時の迅速な対応方法、車両や線路の整備・検査の技術や手法も日々進歩しているものと思います。現在、自動車の自動運転技術が進んでいますが、鉄道では既にゆりかもめ(東京の新橋から台場、有明を通って豊洲まで運行)が運転手不在の自動運転を行っていますが、今後そのような形に進化してゆくのかも楽しみです(ゆりかもめ 自動運転のしくみ(http://www.yurikamome.co.jp/mechanism/automatic/))。以上は、利用者へのサービス面からの進化(これらの技術的進化はサービス面の向上と同時に経営面からみるとコスト削減に繋がりwin-winの関係となっていると思われます)について見てきましたが、路線の周辺地域へ目を向けると、都市部の鉄道会社は自動車の交通渋滞解の解消(開かずの踏切の解消)という大きな問題を今でも抱えており、それぞれの地域の再開発と連携して長期に亘る高架線化工事に取り組んでいます。地方では道路の方を高架橋にして鉄道の上を通るように対応している場合もありますが、都市部では古くから地上を走る路線のほぼ全域の高架線化が進められています。京浜急行も最近まで10年間に亘る京急蒲田駅およびその周辺路線区間の高架線化工事とそれに付随した駅構内および駅前広場の整備などを進めて来ています(参考:未来へのレポート(http://mirai-report.com/blog-category-27.html))。以上のように、都市部の鉄道会社はその利用者や路線周辺地域と密接に関わり合って進化すると共に都市の変革の一部となってきましたが、京浜急行も路線地域と密接に進化してきました。
本シリーズの主題である21世紀事業戦略については、現在の直近の事業計画の概略を会社四季報 2016年4集でみると、駅前の大規模複合施設の開業を骨子とする品川駅再開発事業に2019年までに着手することを目標としており、羽田空港就業者向けや高齢者向けなど賃貸マンション開発に本腰をいれる計画となっています。これらは、本稿の「3.2 総合経営計画の中期計画」と合致していて、着実に計画に基づいて進められているのを感じます。京浜急行は、歴史的にも幕末辺りからよく登場する魅力的な観光スポットを持つ地域を走っています。更なるインバウンドの取り込みを周辺地域と一体となって発展させていく取り組みにも期待したいと思います。
【著者追記】
未来を展望した補足ありがとうございます。全く見方を変えて「乗り心地」という個人個人にとって異なるだろうと思われる面を考えてみますと、例えば、旧国鉄系の第三セクターローカル線が良いという人もいれば、民家の間をすり抜ける江ノ電が好きという人もおり、一概に高速鉄道ファンばかりではありませんね。何を言っているかと言えば、電車も利便性ばかりではなさそうだということです。車体の色に感じ入っている友人などもいて、まさに人間は千差万別だと思います。「京急の乗り心地」文化の変遷もあるのかなと思いました。
さて、創業者ですが、弁護士が信頼できる技術屋を頼りにしたペアリングだった訳ですが、次はお役人たちが起業したケースを話題にしてみたいと思います。
(本稿終わり)
科学と技術を考える33 「19世紀起業の21世紀事業」-(1) 京浜急行 終
サイト掲載日:2016年12月22日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明