科学と技術を考える31
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Academy of Engineering
私は近年、機会をとらえて、以下のスライドを示し、なるべく多くの人に伝えたいと思い、この一文を音読するようにしている。
実は、この最後の行にミソとオチがあるのだが、それは後に譲ろう。
どうも日本人は、Engineeringの意味を実感できる機会から遠ざけられているような気がすると密かに思っていたが、9月に参加したCAETS会議(前回の稿ご参照)で、他の国の第一人者たちも、先進国、発展途上国にかかわらず、Engineeringとは何かについては曖昧なままではないかと思わせる節が時々見られた。
会議の趣旨の基調には、世界的にEngineeringの社会貢献への期待が高まっているので、それに積極的に応えていこう、Engineeringのプレゼンスを一層高めていこうという明るい方向性が明白に表れている。そういう背景を持って、主催国などから、様々な関連団体とのnetworkingが大事だという提案が出され、大方はさあるべしという雰囲気になりかけたところで、全米工学アカデミー(NAE、National Academy of Engineering)の会長から以下のような趣旨の発言があった。
1) 関連団体との友好連携には何ら問題はないが、もしnetworkingだけで我々が解決すべき問題が片付くと言う考えがある
としたら、それはEngineeringの思想ではない。
2) 我々はEngineerの団体でもない。Academy of Engineeringだ。この団体の活動に寄与できるのなら会員はengineerでな
くともengineeringを専門としない人でもよい。Academy of Engineeringの最重要な社会的役割は、社会全体の課題に
ついて、問題解決の方向性を高い立場、広い視野から政府、社会に提言することだ。その提言の信用性を失ったら我々
の団体の存在意義はなくなる。この点を常に忘れないで議論して欲しい。
プラグマティックな立場からの消極的発言とも受け取れるが、私は至って正しいと受け止めた。
この機会に私が、Science, Technology, Engineeringをどのようにとらえているのかの整理を試みてみたい。
Technology(日本語では「技術」が対応)は、人間が作るができてしまったからには、人間とは独立に存在している(プログラムのように形のないものもある)と整理したい。独立ということは、使う側(人)に依存して、下手にも上手にも使われることになる。また、Technologyがもたらす利益、価値は、使う人によっては、武器にも危険物にもなりえる。さらに、使う側の思いとは真逆の作用を引き起こしたり、想定しない副作用をもたらしたりすることもある。このように様々な視点から考察するためには、Technology(技術)をいったん非属人的な存在として考えないと論理的には破たんする。
Science(日本語では「科学」が対応)は、第一義的には自然法則、原理である。自然に関わらず社会などにも一般化して単に、法則、原理と言うこともできる。Scienceはものごとの中にしっかりと存在しているが、個々のものごとから切り離して体系化できる知識とも言える。すなわち、Scienceは人とは全く独立して、この世界に存在している。歴史的にはScienceの体系は人類が築き上げてきたと言えるが、それは法則、原理を人類が作ったのではなく、人類の理解が進んだ結果と捉えるのが妥当である。
このようにTechnology(技術)もScience(科学)も、人類とかかわりは深いが、存在としては非属人的である、としたい。
かって一時代を風靡した「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(武谷三男)は、耳障りもよく、いわんところは理解できるとしても、定義としては自分の肌に合わないものを感じてきた。だが、先輩たちからの洗礼もあり、その呪縛にもがき苦しんできた。かといって、「労働手段体系説」にも直ちには納得感を得ることはできない。もともと「技術とは何か?」という命題だけを論じることに片肺感が否めない。
科学と技術を結び付けた「科学技術」という四字熟語を産みだしたのも日本である。この四字熟語に触れた私は、最初は大きな衝撃を得たが、次第に「意識的適用説」よりもさらに大きな不快感、もやもや感を私の心の中に積み上げていった。
正直、Engineeringの意味をよく考えてこなかった自分を発見したのが、ようやく20世紀末だった。
Engineerという言葉(ここでは名詞とする)がある。「技術者」として日本語が対置されることもあるが、それではしっくりこないので「エンジニア」とカタカナで表現することも多い。
EngineerはTechnologyのゆりかごから墓場まで関わり合うが、社会では、多様な専門性を持った人間集団として機能している。Engineer自体がその集団性を自覚している場合も自覚していない場合もある。自覚していなくても十分に機能を発揮できることが多い。そのような多様なEngineerが活躍することでTechnologyは人間社会の中に溶け込んでいる。
それではEngineering(ここでEngineerは動詞的な意味になっている)とは何か?一言で言えば、人間の行為である。何かの課題、目標に挑戦し、問題を解決しようとする人間の営みである。意識してScienceを利用することもあろうが、意識せずともScienceを利用しているものである。したがって、より豊かにScienceを身に着けている方が望ましい。かといって「無学」な者にはEngineeringができないと断定はできない。試行錯誤の上、狙ったゴールに到達する事例は、枚挙に暇がないだろう。おそらく未来永劫、この試行錯誤法はホモ・サピエンスの強力な武器で有り続けるはずだ。
Wikipediaでは、以下のような説明文になっており、同感しやすい。
Engineering is the application of mathematics, empirical evidence and scientific, economic, social, and
practical knowledge in order to invent, innovate, design, build, maintain, research, and improve structures,
machines, tools, systems, components, materials, processes and organizations.
持っている知識が足りなくても、この試行錯誤法があるかぎり、ホモ・サピエンスの健全性は担保されると強く信じ、ホモ・サピエンスのポテンシャルはより高まっていくと信じている。
武谷達が、「Engineeringとは、人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」と言っていたら、もう少し良かったのではないかと思う。この文面で言えば、さしずめ私の解釈は、「意識的」を省いて、「Engineeringとは人間実践における客観的法則性の適用である」のような定義に近いことになる。上述したように、そんなにお利口さんな人間を想定しておらず、むしろ「意欲」(=何かの課題、目標に挑戦し、問題を解決しようとする人間)を重視している。
ところが、世界の中には、EngineeringをTechnological Science もしくはScience of Technology と定義する人たちも多い(日本でも同様)。
Engineeringの和訳に適当なものがなく、明治時代に「工学寮」という役所ができて以来、どうも「工学」という言葉が独り歩きしたのではないか。実は「工学寮」は、「工部」の「学寮」であって、「工学」の「寮」ではなかったはずだが、東京帝国大学工学部ができてしまっては致し方なくなる。結果、これがScience定義の背景ともなっているのではないかと思う。
最初の「工部大学校」の英語訳は、The Imperial College of Engineeringであり、和名と英語名の間には実態的な不一致があったことは忘れてはいけない。「工部大学校」は「工部省」の管轄であったが、東京帝国大学工学部は「文部省」の管轄となった。ここに、定義混乱のひとつの大きな原因が潜んでいるようにも思う。「工『学』」でないと文部省は理解できなかったのではないか。各省がそれぞれの「大学」を持っていても特段社会的な矛盾は無かったように考えるが、明治政府内では「大きな矛盾」として議論されたのだろう。21世紀の現代でも、「教育は文部省の管轄」という社会設計がもう既に破たんしているのが実態だろう。
確かに「工学」は、「学」である以上、Technological Science もしくはScience of Technology で良いかもしれないが、実態は何だろう。英語では、Applied Scienceとして、Pure Scienceと区別しているように思われる。材料工学に当たる米語は、Materials Science and Engineeringであり、これがFaculty of Engineeringでは一般的である。
どうも日本語では、概念が混乱したままである。自分でも納得できる名案はないが、「工学=Engineering」は絶対に承服できない。この消化不良状態の解消は、今後の課題である。
このような七面倒くさいことをいちいち話しても誰も関心をもつはずがない。そこで、冒頭の一枚を考えた。しかも、アトム以外は、日本語だけで作文した。
そして、大事な結論は、「人が大事」に帰結することだ。しかも、「よそもの、ばかもの、わかもの」が大事と締めくくってある。
この一枚への質問で一番多いのが、「“よそもの、ばかもの、わかもの”で“わかもの”は分かる気がするのですが、“よそもの”、“ばかもの”は何を意味するのですか?」である。
極めて簡易に、
「よそもの」=自分とは違った価値観を持っている者
「ばかもの」=自分の挑戦に拘る者
「わかもの」=次代を担う者
と実は考えている。聴衆の解釈に任せた方が実は得策だと思うが、どうしても私の考えを知りたいと言われればこのように応えたいと準備している。
米国会長の「Academy of Engineeringの最重要な社会的役割は、社会全体の課題について、問題解決の方向性を高い立場、広い視野から政府、社会に提言することだ。その提言の信用性を失ったら我々の団体の存在意義はなくなる。」は至言だ。その提言を準備する者たちにも、「よそもの、ばかもの、わかもの」が関与しないとパンチがあるものはできない。単に水準が高いだけでは、ほぼ紙屑同然としか社会では扱われない。Engineeringの真髄を理解した者達による、より実態に即して言えば、起案作業を通じてEngineeringの真髄をさらに深く理解した者達による提言のみが社旗的歴史的価値の高いものになるものと思われる。理念も大事だが、実践、実績も同程度に大事だ。理念、実績のバランス、いずれも劣らず優れた者を最高のEngineerと見なすようになって欲しいものだ。
(本稿終わり)
科学と技術を考える31 Academy of Engineering 終
サイト掲載日:2016年10月18日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明