科学と技術を考える21 「アカデミー」とはなにか

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科学と技術を考える21

  

「アカデミー」とはなにか



 国際工学アカデミー連合(略称CAETS)の年次集会に初めて出席する機会を得た。今回の話題は、おそらく大多数の人にとっては日常的には馴染みのないものだろう。
 CAETSには世界の24か国の工学アカデミーの加入が認められている。他の国にも工学アカデミーが設立されているが、行政からの一定の独立性、もしくは自主運営性などの入会認定基準がある。過去の実績を集計すると10か国程度のオブザーバー(加入準備中というべきか)国もあるようである。今回は、パキスタン、ナイジェリア、香港が組織的に正式オブザーザーとして参加しており、その他にも個人資格での参加も数か国認められた。


 日本の土壌にはアカデミーが育たないと言われているので、他の国の「常識」をまず平均像として紹介してみよう。アカデミーとは何かを説明するよりは実質的だろう。


 大概の先進国もしくは大国には、科学アカデミーと工学アカデミーがある。USAだとNational Academy of Science(1863年)とNational Academy of Engineering(1964年)だし、中国では中国科学院(CAS, Chinese Academy of Science、1949年)と中国工程院(CAE, Chinese Academy of Engineering 、1994年)となる。


 USAは議会の議決によって設立された国家機関であり、中国は詳しく調べてみないと分からないが国務省の直属機関で省と同格の国家機関である。いずれも国家財政を基盤に運営されており、基本的に政府の政策をサポートすることが第一義的なミッションとなっている。


 アカデミーであることのひとつの証明は、会員制であることである。大概、会員は定数が決まっているし、定年がある場合も多い。会員は、科学アカデミーでは主として学界から選ばれ、工学アカデミーでは産と学の比率が50:50と法律で定められている場合が多い。ということは、工学アカデミーは当初から産学連携となっている。これらは会員間の選挙で新しい会員が選ばれるのが通例のようである。
 USAのアカデミー報告書は、議会がどのような政策決定をするかに極めて大きな影響を及ぼしている。いわば、報告書が基本的に政策化されると言って過言でない。会員の報告書作成への参加意識が極めて高いと日頃感じる。若手研究者には、この議論に参画する機会、会員へ自己アピールする発表会などが意識的に与えられており、そこで着目されるように頑張るのが自然の姿となっている。
 中国の場合は、関連する研究開発予算の配分も行っているので、正に科学省と工学省のように君臨している。各機関は院士(academician)を輩出し、しかもその院士が指導的な地位に上り詰めていくように期待し、支援する。しかし、選出は全会員による選挙なので、多くの院士から指示されるような業績と人格であることが鍵になっているようである。いくら実績があっても、「あの人はどうも」と思われるとなかなか選出されないことがあるようだ。若手研究者達は常に院士達にどのように評価されるかを気にして発表しているのがよく分かる。
 いずれの国も、アカデミーの会員であることの権威性、会員となるメリットはかなり明確だ。


 先進工業国ではほぼ工学アカデミーが設立されている。中には科学アカデミーと合体したものもあるようである。それは国の規模からしておおいにあり得ることである。いずれの国でも両者の連携は当然のものとされている。


 21世紀に入って、新興国でのアカデミー設立が盛んになってきた。CAETSの会員として認められるためには、既会員である他の国のアカデミーからの推薦が必要な仕組みになっているので、既会員アカデミーの責任は重いし、国力のあるアカデミーが友好アカデミーを増やそうと思えば、そういうこともできると言える。かと言って、特定国の独断専行を許す意識・運営状況にはないので、連帯を乱すような行為は会議の場で鋭く批判されている。また、そのような組織になれば多くの国が離れるだろう。


 20世紀では、様々な国際舞台はUSAの独壇場ではなかったかと思われる。中国が存在感を徐々に増してきて、21世紀は今のところ、UASと中国が指導権を争っているというか、むしろお互いの存在を無視せずに対応していると表現した方が適切な状況ではないかと思われる。
 このような国際舞台では、本会議の重要性は確たるものだが、舞台裏ならずむしろ公然と二国間の小ミーティングが活発に展開される。年に一度の、顔見せ、情報交換、二国間事業の進展状況確認などの交流継続の絶好の機会と言える。


 さて、多分、今回の会議がほぼ始めてではないかと思われるが、CEATSの存在意義を問い直す意見が表面化してきた。というと誤解を広めるかもしれないので、少し詳しい説明が必要だろう。
 冒頭から各国のアカデミーは各国の行政をサポートするのが第一義的なミッションと言ってきたが、果たしてそれだけで事足りているのかという意識が強まっている。
 解決すべき課題のグローバル化が強く認識されるようになったこと、それと平行同時の現象として各国抱える課題の国際的共通化が目に見えるようになってきたことだ。それを強く象徴するのが、来年の開催国である英国から提案された年次テーマ案「Engineering for a Better World」が共感を得て採択されたことだ。


 読者にはごく当たり前で見映えのしないスローガンだと受け止められる向きも多いだろうが、各国のアカデミーのミッションを言い当てる言葉は「Engineering for a Better Society」であるべきで、Societyはすなわち自国を意味することになる。それがSocietyではなくWorldであることは、ナショナルミッションの他にヒューマンミッションを持とうという提起になる。
 より平たく言えば、自国の将来を考える時に自国内のことを考えていては解決策が見つからないということになる。もしくは、自国だけががんばってもその努力による成果が消されてしまう懸念も高まっている。


 実はこの意識変化は、当然、日本の中でも起こっている。象徴的にはフクシマだろう。世界中の人々に与えた影響は極めて大きい。フォルクスァーゲンの不正も相当に大きな影響を人々に与えるだろう。ボディーブローのように効いてくると予測している。


 「ヘマをおこすな」という捉え方ではなく、「なぜヘマが起きるのか、どんなヘマは起こしてはいけないのか、ヘマを起こさないようにするのにはどうしたらよいのか」のコンセンサスが必要になっている。「法的には問題はない」のなら何をやってもいいものか、という内的な問いかけが強くなっている。遺伝子操作の長足の進歩は、ヒトが神を超える日が近いのではないかという懸念が、現実性を帯び始めている。


 日本工学アカデミーの中でもそのような意識は強くなっている。今回は、日本の副会長が「この時代に求められるエシックスが必要」という趣旨の特別講演でこの問題を投げかけた。どのような反応があるか予測できなかったが、ひとつは今年の会議ステートメントに「エシックは今後最も大事なテーマの一つ」という趣旨の一文が入ることになることが確認された。同時に各国は「エンジニアリング教育を主要なテーマに掲げて取り組むべき」も入ることになるが、これも日本側は必然的に必要になると提起したものだ。エンジニアリング教育は各国も同じように考えていたようだが、そのベースにエシックスを提案されて「確かにそうだ」という受け止め方が支配したように感じた。


 個々の参加者の反応は極めて多様だったらしい。副会長からは、「そんな受け止め方もあったのかと思うような反応もいただいたが、とにかく会う人からみんな感激したという言葉をいただいた」と報告をいただいたので、個人レベルでも反響が大きかったのだと思う。中国の代表団の幹事役の人物が、「同じ話を北京で早速やってもらいたい」と即刻行動を起こしていたのも興味深い。


 このような問題は時間を掛けて入念に消化していき、自らの血肉としていくべきであるが、やはりきっかけと言うものが大事になる。今回の特別講演が、そのきっかけの一つとなり、来年のロンドン会議でどのような展開されるか楽しみになってきた。


 このように世界は大きく動き出している。未だ事態を切りひらく名案はないと思うが、目指すべき方向は定まりつつある。CAETSの意識は、Think Globally, Act Locallyから、Think Globally. Act Globallyの方向に移行しつつあるように表面的には見えるが、著者はそうではなく、「Think Globally, Act Locally」を全面的に突き詰めることになると考えている。Think Globally, Act Locally for Humanとでもなるのかもしれない。


 さて、東洋の孤島の我が日本はどうなっているのか?


 英語名 Science Council of Japanという一応内閣府関係機関がある。日本学術会議のことである。2000名以上の会員、連携会員を擁しており、比較的活発に政府に政策提言をしている。それなりに採用されて、行政に貢献していると思う。だが、米中のような、強い社会的指導力があるように思えない。内閣府には総合科学技術会議があり、他に日本学士院という機関もある。総合科学技術会議は、内閣総理大臣の諮問機関的役割から科学技術予算配分への関与を徐々に強めようとしているように見えるが、道半ばではないか。戦前の日本学士院は、中国の科学院(および現在の工程院)のような権威と実権を体現していたように聞いたが、現在の日本学士院は、学者の象徴的権威を表しているに過ぎず、政策への関与からは明確な距離を置いている。そうすると総合科学技術会議に大きな期待を掛けることになる。だが、その構成メンバーは内閣総理大臣の指名によるものであり、他の国の代議制という側面は欠如している。


 日本工学アカデミーは世界でも稀有な組織論理を持っている工学アカデミーである。まず、個人加盟であり、会員に推薦され、会員選考委員会の審査を経て入会を認められる、基本ボランタリーな会員制団体である。すなわち、政府から独立している。言葉を換えて言えば、政府からの固定的財政援助は一切ない。NPOのような組織運営論となっている。
 ただ、歴史的に工学分野の第一人者を糾合しており、会員に推挙されることは極めて名誉なことであり、第一人者の仲間入りという名誉感がある。
 全く自主運営の組織なので、学長や社長、重役を経験してきた会員にとって、活動は自分自身でやるしかないというのは相当なカルチャーショックのようである。それでも、組織内の協力者に一定の実務を分担してもらえる限りは、その卓抜した知恵と経験を活動に十分に活かせるが、退役と共にそのような「手足」を失ってしまうと実質活力が「ゼロ」になってしまう人が多いようだ。
 若手の会員は、若手と言っても所属組織ではエスタブリッシュな地位にいれば、体が動いたとしても実務に割ける時間はごく少ない。ここも「会員であることは名誉」という流れが定着していく。
 そうなるとある程度自由な時間を使える会員達に実質活動は依拠することにならざるを得ない。


 このような視点で見ると、まず東京在住会員の比率の高さが目に付く。交通の便等を考えると彼らこそ活力の源泉ではないかと思うが、実態はそうとも言えないような気がする。むしろ、会員数の少ない地方の活動の方が目立つ。地方の活動は極めて重要で地方の核としてより一層活動を持てる活力と相談しつつ高めていくべきだと思う。


 ひとつの抜本策は、思い切って若年層とのcoalitionを広げることではないかと思われる。若年層の大事さは重層的な理由がある。
 ひとつは、言わずもがなで会員予備軍の育成であり、組織の継続に不可欠なのは自明である。
 多分もっと重要なことは、伝統的分野を損なわないで、新しく開拓すべき分野を耕していくために不可欠な側面だろう。


 先輩は後輩を推薦したいしそれが自然だ。それが一般的となるとだんだんと社会の鑑としての構成にはならない。新しい分野を切りひらいた人を招きいれるのも当然だが、突然、会員になって欲しいと言われても、基盤が組織内にないので、まずは「会員であることは名誉」になるのが落ちだろう。
 若い時分から、日本工学アカデミーとの連携で新しい分野を切りひらいたとなると、会員となってさらに新しい分野を拡充するのはむしろ自然になる。
 最も活力を持っているのは若年層である。経験ある層が努力すべきは、伸びて欲しい分野、伸ばしたい人材を応援することである。応援にはいろんな仕方があるのは事実だが、昔の研究室で後進を叱咤激励するようなスタイルはどうも今の若い人たちには逆効果なようである。こういう意味では、経験を重ねるにつれて、より自己成長を遂げていくスキームをアカデミー内に持ち込む必要があるように思われる。
 知性は基本自己研さんの継続の賜物でしかない。こういう高潔さも今の日本には鋭く求められるようになってきたと強く感じる。そうはいっても、ひとりひとりは弱い。ひとりひとりの努力も全体から見れば小さい。そういう弱さ、小ささをむしろ大事にするスキームがないと息が切れるだろう。
 拙速を排し、「ぼちぼちでよい」という文化的雰囲気を日本中に広げたいものである。


 インドのニューデリーの政府機関御用達のホテルへの缶詰めで開催された会議に出席して、ここで述べたような様々な思いが交錯した。
                                                      以上




科学と技術を考える21 「アカデミー」とはなにか 終
サイト掲載日:2015年11月20日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明