科学と技術を考える⑳ 「実学」とはなにか

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科学と技術を考える⑳

  

「実学」とはなにか



 「実学」と聞くと、「実用化のための学問」と受け止めてしまう人も多いだろう。それでは、「実用化のために必要な学問は何か」と問われると戸惑わないか。中には「基礎研究ではなくて応用研究のことを指すのだろう」とあっさりと深い議論を回避する人もいるような感じがする。
 2015年10月2日に、仙台のホテルメトロポリタンで開催された、『本多記念講演会-金研100周年を前にして-「今にいきる本多イズム」』を企画、運営する一員となった。
 ここで言う本多とは、本多光太郎のことである。本多光太郎は、本人はもとより、弟子、孫弟子などを通じて、日本の金属素材産業および金属材料学を興隆させた傑出した人物と言って過言でない。
 大学の産業への貢献が声高に叫ばれるようになった昨今に、今一度、本多光太郎の考えていた「実学」とは何だったのか?それを現代に活かすことができないのか?というナイーブな動機がこの講演会開催に至った背景に強く存在する。


 そこで、明治以降の「実学」を振り返ってみたいと思うが、著者はヘンリー・ダイヤ―のエンジニアリング教育にその思想及び実践の源泉を見ている。ダイヤ―ほど「実学」に相当することを論理的に検討し、実践した先駆者だったと思っている。


 ただ、他にも「実学」に大きな影響を及ぼした人たちがいる。その明治以降の源泉としては、福澤諭吉を挙げておいてよいと思う。
 本多光太郎もそうだが、西欧の圧倒的な工業革命を目の当たりにして、これを如何に日本へ導入し、定着させるかという思いが強烈にある。
 工部大学校を設計し、運営したヘンリー・ダイヤ―は、西欧のエンジニアリング教育に飽き足らず、自らが理想とする姿を東洋の地で実践(実験)してみたかったという点で、もくろみは異なっていたが、結果的には同じ効果を期待していたことになる。
 福澤、本多は日本人の言葉で、ヘンリー・ダイヤ―は西欧人の言葉で表現した。この双方を今後比較分析してみることも興味深いことだろう。


 この「実学」という思想は、多くの人たちに極めて建設的で大きな影響を与えたと思うが、日本及び世界で、意外と正当に評価されているとも思えない印象を著者は持っている。いずれ、ものごとには光の部分と影の部分があるものであり、長所・短所はつきものである。なぜ評価が低いと感じるのか、この辺りは時間を掛けて分析していくとよいと思う。



福澤諭吉と「実学」

 慶應義塾普通部のHPに「慶應義塾と福沢諭吉」(http://www.kf.keio.ac.jp/fukuzawa.html)という建学の精神を説明したページがある。
 著者は「実学」という言葉で反射的に「慶應義塾」を連想する。同大の卒業生であるひとりの先輩が「実学と独立の精神を教えられた」ということを根っから真直ぐに受け止めており、事あるごとにそれを自慢するからである。
 この先輩の姿を髣髴とさせるのが、上記ページの内の「実学と独立の精神」である。その全文を以下に引用させていただこう。


   慶應義塾の教育によって、福澤が塾生に身につけさせようとしたものは、欧米にみられる「実学」と独立の精神でした。
   実学ということばに、福澤はサイヤンスとふりがなをつけた例があるように、これは第一には「科学」のことですが、そ
  こには「虚」ではない学問という意味が込められており、また日常の役に立つ学問、社会で実践される学問、などの意味も
  含んでいます。
   さらに、学ぶべき内容をさすばかりではなく、その実践を強く念頭においているのです。さきにあげた「慶應義塾之記」
  には、洋学は「天真の学」であり、「人として学ばざる可らざるの要務」だとあります。そして洋学を究めることはむずかし
  いが、むずかしいといって求めようとせず、益があるとわかっていながらそれを盛んにしないのは、「報国の義なきに似た
  り」ともいっています。
   このように、洋学・実学を高く評価するとともに、福澤は、単に実学を頭に入れるだけでなく、それを実地に活かすこ
  とのできる人になれと教えました。


   実学とともに福澤が求めたものは、「独立の精神」です。合理的精神と独立心に富んでいた福澤は、洋学を学び、西欧文
  明の実際に接して、西洋にあって東洋にないものは、数理の学(合理的な自然科学)と独立心であるという信念を強め、日
  本が欧米の国々と肩をならべるには、この二つが絶対に必要であるとの確信を持ったのです。
   1870(明冶3)年に福澤は、「中津留別の書」の中で、人間の自由独立ということが、個人にとって
  も、社会・国家にとっても、きわめて大切なものであり、「此一義を誤るときは、徳も修むべからず、智も開く可らず、家
  も治らず、国も立たず、天下の独立も望むべからず」といっています。


 このように福澤は、西洋の科学を「実学」の見本だと言ったようである。そうすると念頭にあった「虚学」は、訓詁学のように、書籍中の学理をひたすら頭脳中で理解するようなものを対置していたのではないか。
 戦前の陸軍が「実学」に対置したものは「座学」であり、どうも海軍対抗意識が見える。
 どちらにしても、「実学」のテキストがあったとしても、テキスト内で学問を終わらせることなく、実地で活かすようになりなさいというのが主旨と理解できる。


 福澤が「実学」と「独立の精神」を同時に述べたのも分かるような気がする。「実学」を極めた人材に「独立の精神」が欠如するとどういうことになるのだろうか。徹底して上司の命令に随い、一切自我を出さない人材となるのだろうか。この点では、戦前の陸軍は、「実学」を極めた「従順な兵士」を求めたのかもしれない。それでは、福澤が既に述べていた通りで、強国に勝てるはずもない。



【挿入話として】軍隊における「実学」と「独立の精神」

 話は飛ぶが、現代でも知る人ぞ知る「芙蓉部隊(ふようぶたい)」と言う飛行隊が戦争末期にあったことが語り継がれている。日本海軍第131航空隊所属の3個飛行隊(戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊)の通称という。美濃部正少佐が特異なそして優秀な指揮官だったようである。沖縄方面の敵飛行場・艦船に対する爆撃、機動部隊に対する索敵を主体とし、夜襲戦法を用いて活躍したと言われる。当時でそういうことをやった指揮官がいたのかと思うことは、「特攻隊を拒否しきった」ことである。「特攻では一回しか攻撃できない、可能な限りの回数出撃し、敵の戦力を撃ちたい」と。
 他の部隊が特攻に駆り出され戦力が枯渇していく中、犠牲を伴いながらも攻撃を継続した。それを成し遂げたのは、藤枝基地という後方基地において新人を無理なく訓練し、随時要員を交代させるという当時の日本軍としては例を見ないシステム(人材育成)を確立していたこと、他部隊の零戦の稼働率が50%まで低下し、元々稼働率が悪く他部隊での稼働率が40%でしかなかった彗星の稼働率を、それぞれ90%及び85%に維持し、常時必要な戦力を供給できる態勢(整備技術)を確立していたことにあるとされている。
 これを褒め称えるというつもりではないが、少なくとも軍隊とは「実学」に優れ、「独立の精神」を備えるべきであることを忘れずにいて欲しい。またそれを極めて過酷な状況の中でも最期まで貫いた軍人達がいたことは記憶にとどめておいて欲しい。「命を最大限活かさせて欲しい」という姿勢を貫き、最期は戦死していったことの悲惨さを繰り返して欲しくない。
 現在の状況に強引に当てはめてみると、勝ち目のない競争なのに、過去に成果があった手法への固執や簡単に目に見える成果を急がせることなどが、「芙蓉部隊」が避けたかったことに通じるような気がする。



今も語り継がれる本多光太郎先生語録から-本多イズム


実験あるのみ

「どおだあん(どんな状況だ?)」 顔を合わせるたびに聞かれたそうだ。
「今日は晴れているから実験しよう」「今日は雨だから実験しよう」 理屈無しに実験。


研究姿勢

「今が大切」
「つとめてやむな」
「学問のあるところに技術は育つ、技術のあるところに産業は発展する、産業は学問の道場である」


いろんな価値観を

「傘があれば雨でも濡れんでええわなあ。晴れなら荷物と反対の手にバランスが取れてええわなあ」
「鐵は金の王なる哉」


人生訓

「今日のことを今日できない者は、明日のことがまた明日できないのです。」
「信用さえ身に備われば、成功は求めなくても自然に訪れてくるはずです。」
「信用を得る第一の条件は、約束を必ず守ることです。人間には待機の時代と断行の時代とがあります。」
「約束の守れる人間に不正直な人間はいない。勤め先や友人から信用される人間は世間からも必ず信用されます。」
「潜伏の時代と飛躍の時代とがあります。じっと好機の到来を待つ間も大事ですが、ひとたび好機到来となれば機敏にチャンスをつかまえる気力がなくてはなりません。」
「大きな仕事が自分一人でできたように考えるのは、あらゆる場合を通じて錯覚に過ぎません。それは身のほどを知らない者の慢心です。」


 まだまだあるが、これだけでも、本多光太郎もまずは「独立の精神」を成していた達人であることは明らかと思う。さらに強烈なのは徹底した実践家だったということだ。


 それではようやく本題に移ろう。上記の語録の中の以下のものが今回の主題に近い。


「学問のあるところに技術は育つ、技術のあるところに産業は発展する、産業は学問の道場である」


 この意味を現代的にどう解釈すべきかだ。



パネルディスカッション「実学:出口と基礎研究」での印象的発言 (司会 長井 寿 本多記念会理事)

 議論すべき話題としては、
○基礎研究の成果が産業強化に繋がるためにはどうすればよいのか?
○産と学は仲良くできるのか?
○国益と国際貢献のバランス
○金属、材料研究の出口とは何か?
等を念頭に、本パネルは企画され、以下の錚々たるメンバーの参加が得られた。


 パネリスト
 岸 輝雄  東京大学名誉教授/物質・材料研究機構顧問
 佐川眞人  インターメタリックス(株)最高技術顧問
 佐久間健人 東京大学名誉教授/前高知工科大学学長
 高梨弘毅  東北大学金属材料研究所長
 増本 健  東北大学名誉教授/電磁材料研究所理事長
 津崎兼彰  九州大学教授
 村上正紀  京都大学名誉教授/立命館大学特別招聘教授
 コメンテーター
 小山茂典  NECトーキン(株)代表取締役社長
 江幡貴司  東北特殊鋼(株)取締役研究開発部長
 宝野和博  物質・材料研究機構 磁性材料ユニット長
 杉本 諭  東北大学工学研究科教授 


 上記コメンテーター関係2企業は会社創業時に本多光太郎が指導したことで知られている。すなわち、本多光太郎は起業家でもあり、地元から見れば企業誘致家でもあった。雇用の確保に心を砕いていた話も多く残っている。
 ここでは、発言者を特定せずに、さらには著者が印象を持って受け止めたことを、著者の言葉で紹介することにする。若干の脚色が入っていることは予め断っておく。ロジックの展開上で、話が飛ぶことがあるのはパネル討論などでは避けがたいと思う。司会者の非力さを棚に上げており顰蹙を買うだろうが、これは非力と居直るしかない。そこで、自分なりに気づいた飛躍を埋めるために一部脚色をしてみた。自分自身の理解をまとめるためとご理解いただきたい。


 近いうちに本多記念会(http://hondakinenkai.or.jp/) から、このシンポの紹介DVDがHPなどで公開される予定になっていると思うので、詳細はそれを参照していただきたい。


○大学は「社会の鑑」もしくは「社会の鑑」となるべきだ。社会が大学に貢献するのではなくて、大学が社会へ貢献するべきだ。大学は次の時代の実験場となるべきだ。ここで言う大学とは組織としての大学であり、単に大学人個々人のことを指しているのではないのは当たり前だが、他人事のように受け止める先生が多いのが嘆かわしい。ここで流れを変えないと大学が組織ごと存在意義を失うことになるだろう。特にすべての大学が「小型東大化」するような現状は、日本の大学そのものの質の劣化を招いている。まず襟を正すべきはすべての大学人だ。


○研究開発を段階論で言うと、萌芽段階、応用検討段階、商品化開発段階などと分けることができるが、いずれの段階にも段階に応じた基礎研究がある。そういう意味では、ここまでは大学で、その先は企業でという切り分け方は誤解を招く。このことは大学には大学のミッションがあり、企業には企業のミッションがあるということと切り離して議論すべきところがある。この場合、基礎研究とは、原理原則に基づいて現象のメカニズムを解明することと考えると良い。大学の方が得意かもしれないが企業にできないという訳でもない。萌芽段階=基礎研究と基礎研究を狭めることは適切でない。基礎研究と応用研究が対立しているように図式化するのは避けた方がよい。要するに必要なものは何であってもやるが、一方、必要性が乏しいものは一端脇に置いておくという胆力が必要だ。


○そうは言っても、個々人のレベルになると、研究や学問の動機ややり方には多様性があるべきであり、広いスペクトルを持っているということは、材料研究には特に不可欠だ。広いスペクトルから出てくる成果はやはり光り輝く。広いスペクトルが財産でなくなると硬直化が始まる。


○それはその通りだが、一方では、多様性に埋没してしまう人もでるのは困る。何事も「目標をはっきり」しないとどういうことをすべきか曖昧になってしまう。大学の研究においては、ニーズから出発して真っ向から難題に挑む姿勢を意識的に取り入れると、最初は惨めかもしれないがその内に立派な成果があちこちから出るようになるのは間違いない。


○材料のこと、すなわち、その重要さや奥深さについて、高校を卒業してきた学生に教えるのは至難の業だ。最も効果があるのは、企業と一緒に課題に取り組む経験をさせること、材料の基礎から開発までのあらゆるフェーズでの産学連携の大事を実務的に教えることだ。少なくとも材料分野における人材育成は、大学のみでは成し遂げられない。産業界は一緒に取り組んで欲しい。


○産業界と一言で片づけるのは待って欲しい。企業にも素材メーカー、部品メーカー、組立メーカーなどの分類が厳然としてある、これを下流から上流という言い方で説明すると、各企業の成熟度が高まっていること、グローバルな競争環境下での開発時間短縮などを考慮すると、大学の材料毛研究者が付き合うべきは、上流を欠いてはいけない状況になっている。また、部品メーカーなど規模的には大きくなくとも実は世界市場を圧倒しているなど、産業構造全体を支えている役割が高い中堅、中小企業とも付き合うべきである。一概に理想形は描けないが、課題、状況に応じて、複数連携(下流から上流までの分担を担える体制)を構築すべきである。


 材料系の有力研究者、東北大学金属材料研究所関係者達の「総決起集会」のような様相となったが、確かに参加者の皆さんの意識が高く、極めて熱心だったことには大変感激した。
 「なんだみんなもうどうでもいいと思っているのかと思っていたが、本音はやる気があることが分かって安心したし、元気もでた」という感想を耳にしたが、これは著者の実感に近い。
 このような真剣な議論の場は継続的に進めていくべきものだと強く思った。本多記念会の理事としてもその思いをそのまま周囲に伝えていきたい。



最後に反省を述べておく。

 議論を通じて、弱かったところがあったと反省した。それは「徹底した実践主義」を深く詰められなかったことである。著者自身が本多光太郎に最も感動させられるのが、「徹底した実践主義」である。上述の中では「目標をはっきり」というところが、実は「徹底した実践主義」と深く結びつくべきところかと思う。ここも深めたかった。


 「徹底した実践主義」とは「とにかくやれ」「やればよい」ではなく、「やらないのは元来駄目」「やるべきことは必ずやれ」と言うべきだろう。言葉遊びでやった気持ちになる人もいる。命じれば誰かがやってくれると思える人もいる。本多光太郎は徹底して自分からやった。多分、だから多くの弟子さんたちはついていった、ついていかざるを得なかったのだろう。これを単に「先生の背中を見て育つ」で終わらせたくない。




科学と技術を考える⑳ 「実学」とはなにか 終
サイト掲載日:2015年10月28日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明