科学と技術を考える②
研究者は「捏造」するものか?
3月初めに、大学の同期に久しぶりに会ったら、これ上げるから読んでみてよと、須田桃子著『捏造の科学者-STAP細胞事件』(文藝春秋)を手渡してくれた。読み込むにつれて改めて憤りが強まったが、どうも研究というものにはそれを担う研究者の人間像が色濃く反映するのではないかと思うに至った。
そこで、まずは自分像を振り返ってみて、「○○分野の研究者」の前の「科学的手法を愛すべき研究者」としてどういう道を辿ったのか自己分析してみた。
1)「よくもこんなバカをやってくれて、ありがとう」
これは同僚の研究報告を聴いて、思わず漏らす私からの最大の賛辞だ。お利口さんの研究者は、最小限のデータで最大限の効果を出そうとする。それを否定する気は毛頭ないが、例えば、初めての分野を開拓していこうとする時や、圧倒的多数のライバルを納得させたいと思う時に、再現性の実証は勿論のこと、実験パラメータは少なくとも三桁振るべきというのが私の持論だ。その中でも最もむなしい実験は不在証明だ。有ることを示すのはどちらかと言えば簡単だが、無いことを完全に示すのはほぼ不可能だ。
不在証明に近づく方法は、再現性あるデータの個数を増やすしかない時がある。N=103(10の3乗)位は欲しい。それをやり遂げた同僚に対する手放しの褒め言葉が「バカ」呼ばわりだ。同僚は慣れているので、この言葉を聞くと喜ぶ。
この「バカ」ができない人は研究者になれない。
2)「英語の論文を100編全訳して、それらをレビューしてごらん」
大学の研究室に配属された時に、博士課程の先輩に勉強方法を尋ねた時の返答だ。ご自分の全訳ノートを開きながら、「こうすると英語の勉強にも、論文の書き方の勉強にも、研究ネタを探す助けにもなるよ」と。英語が得意な先輩には容易いことかもしれないが、自分には重すぎると思った。
しかし、これぞと思う論文、特に独語、仏語などの重要論文については、五里霧中の全訳を心掛けた。そして全訳はしなかったが、100編近くの論文のレビューを博士論文の第1章とした。部分的に先輩の教えを実施した。第1章自身がオリジナルな成果になったと思う。言われた通り英語百篇を実施していたら英語は少しは上達したかもしれないが後悔は先には立たない。
3)「科学論文の書き方」
さあ、始めての投稿論文をまとめて、ご指導いただいていた助手の方に見てもらった。ものの見事に真っ赤になって返ってきた。そして「科学論文の書き方」のような本をまずは読んでご覧と言われた。生協で何冊か売っていたので、読みやすそうな本を買った。「仮説-実験方法-実験結果-考察-結論」という体裁は直ぐに理解できた。それで「体裁」を整えたつもりだが、助手の方は容赦なかった。結局は、客観性と論理の一貫性について、読者の誤解を招かないようにわかりやすく正確に表現するか、表現をどう研ぎ澄ますかが問われた。
何回やり取りしたことか。というか何回もやり取りしていただいた。まあいいか、ということは無かった。助手の方のOKが出たら、次は指導教授の番だ。これも真っ赤になって返ってきた。一時は、一体この論文は投稿させてもらえるのか不安になった。この非妥協性というは身をもって教えられた。
この辺りの、研究者世界の「礼儀・作法」に慣れるには、三報目くらいまでかかったような気がする。とにかく、徹底的な赤入れをしたいただいた助手(将来、教授に昇任)の方には頭が上がらない。三報目を過ぎたあたりから<こういう書き方はあかん>と自分で思えるようになってきた。
4)卒論生、修論生の面倒を見る
人が人を教育するとは恐ろしいことだが、人が人を教育する以外にない。学習は自学が基本だが、cultivate/educateでは他人による啓発を受けたり、そのチャンスを与えられたりする。また、他人を教育しようとして、自分も育てているものだ。
学生は必ずしも研究者になることを目指していないが、論文作成が卒業のノルマに課せられている以上、取り組まざるを得ない。
学業成績が優秀かどうかという判断基準もあろうが、研究者としての適性という判断基準もあるように思う。研究者を志しているが、学業優秀だが研究者に向かない人、研究者に適性だが自分を劣等だと思い込んでいる人などを研究者として鍛えるのは難行だ。
ただひたすら研究のめり込むタイプが最も手がかからない。ただし、客観性を嫌ったり、他からの批判を避けたり、拒否したりするのは困る。
研究者に相応しくないと判断した学生に対して、責任をもって研究者への道を諦めるように諭すべきかもしれない。いずれにせよ学生時代に同じ釜の飯を食えば適性は判るものだ。憧れだけで研究者にはなれない。研究者世界の「礼儀・作法」を習熟するのも大変だ。
世間の大きな関心を得られなくても自分史の中で20代に書いた論文は輝いている。今でも読み返してみると感心する時がある。ましてや最近、今更ながら他の人に発掘されて、「もう30年以上も前に論文にされていたんですね」と言われた。有頂天にならないはずはない。足跡を残すことができたと確信した。
改めて、捏造本に戻ると、いったいどうしたらこういう研究者たちが生まれるのかという疑問しか残らない。少なくも同列同類に扱って欲しくない。「よくもこんなバカをやってくれて、ありがとう」とは絶対に私の口からでてくるはずがない。
博士課程コースの入学審査面接で「将来は、タクシードライバーになってもいいという覚悟はありますか?」と試問されたことを思い出す。研究者がバラ色の職業ではなかったが、それでも研究は進んだ時代があったことを忘れてはいけない。
科学と技術を考える② 研究者は「捏造」するものか? 終
サイト掲載日:2015年3月15日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明