科学と技術を考える⑲
いまさらながら『自由からの逃走』
エーリッヒ・フロム 日高六郎訳「自由からの逃走(Escape from Freedom)」、東京創元社、平成26年10月10日121版、337頁、
1700円+税
原著が書かれた時代と70年後の現代
まずは、訳者のあとがきから原著の時代背景を理解できる場所を抜粋する。日本では戦後に翻訳された。
「1941年という、第二次世界大戦の真っただ中で刊行されたという事実にも、フロムの熾烈な問題意識とむすびつけて、注意を払う必要がある。フロムは序文のなかで、いくらかの完全性を犠牲にしてでも本書の刊行を急いだこと、そして心理学者もこの現代の危機にたいして沈黙を守っておるべきではないことを述べているが、そこにナチズムと闘いつつあった民主主義国家における科学者の責任感が十分にうかがえる。」p330
高度に発達した日本社会で、なおかつ高等教育を受けた者であっても、オウム真理教の熱心な信者となり、社会的犯罪行為に自ら進んで手を染めることになる。国際的にもIslamic Stateのようなテロ組織に自らの活路を求め、支配勢力の拡大のための破壊活動に参戦するために、家族、国家を捨てる若者が少なからず生まれている。
このような若者の行動に素朴な疑問を持つ人は多いだろう。「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」は有名な人生訓だが、それは自分を殺すことよりは自分を活かすことに力点があると思うので、ナチズムなどへの権威主義への傾倒とそれに伴って人間否定にまで進む自己犠牲と同列視するわけにはいかないだろう。
フロムは、締めくくりのところで、以下のように述べている。
「こんにちほど、言葉が真理をかくすために悪用されることはなかった。協調のうらぎりは宥和と呼ばれ、軍事的侵略は攻撃に対する防衛としてカムフラージュされ、弱小国家の征服は友好条約の名でおこなわれ、全人民の残虐な抑圧は国家社会主義の名のもとにおこなわれる。デモクラシー、自由、個人主義という言葉もまた、この悪用の対象となる。デモクラシーとファッシズムとのちがいの真の意味を明らかにするひとつの方法がある。デモクラシーは個人の完全な発展に資する経済的政治的諸条件を創り出す組織である。ファッシズムはどのような名のもとにしろ、個人を外的な目的に従属させ、純粋な個性の発展を弱める組織である。」
フロムはデモクラシーが善であり、ファッシズムが悪である、というような単純な二元論には立っていない。個人の、個性の発展を支援する社会システムが、個人個人が自由を獲得するための前提条件だと信じている。その自由を得ようとするのではなく、それから逃避する人々が発生し、それを社会的もしくは政治的に組織する勢力が生まれる必然が人間社会そのものにあることを説き、自由から逃避することによって結果的には個人個人の幸福は言うまでもなく個性も否定され、人間そのものが否定される危険性が常に付きまとっていることを鋭く指摘している。
まさかフロムの時代認識が現代にもそのまま当てはまることになるとはうかつだった。
個人もしくは人権の対象範囲の歴史的変化
機械文明が産業革命を確定し、社会全体としては多大な富を創り出すことができるようになり、多くの人民が貧困から解放される物質的基盤が前進したことになる。「歴史の進歩」によって新しい社会勢力が幸福を謳歌できるようになる。それらを新興勢力と言おう。新興勢力はえてして従来勢力と利害が対立する。社会的上層にいた従来勢力の利権が新興勢力によって制限され、奪われると勢力間の戦いが起こる。
これはどの国、どの時代においても当てはまる図式だが、特に日本の歴史物語(=歴史学)を学ぶと、支配者の物語に過ぎないか、新旧勢力の闘いの物語に過ぎないことが多い。歴史への登場人物として、その時々の社会に生きていたすべての人々のそれぞれの事情史を期待できることはまずない。
上層である支配階級、下層である被支配階級と言う図式で議論する気はないが、その方が分かりやすいだろうからこの図式をここでは採用する。権力争いが支配階級内で起こる場合もあるが、劇的なものは被支配階級の中で支配階級を脅かす新興勢力が発展し成長する場合だろう。そうするといろんな場合があろうが、支配階級の中で新興勢力と手を結ぶもの、被支配階級の中で新興勢力に与しないものなどへの複雑な分化が生じる場合が多いように思われる。
単純にすべての人々を旧勢力と新勢力に二元化できると本稿で論じようとする問題はあまり顕在化しないかもしれない。権力争いの結果、新勢力が人口的にも圧倒し、単純に勝ち負けが決すると、権力関係が逆転する。しかし、人口的少数派で勝利したとすると、人口的には新しいアンバランスが生じる。新しい権力者に帰依するものと帰依しないものに分かれる。社会経済構造を変革するような契機を持たない権力交代が繰り返される場合の少数派勝利は最悪「戦国時代」のようになり、被支配階級にとっては惨めな暗黒時代となる。被支配階級は人口的に多数派でもあまりにも非力であり、歴史上で勝者として現れることはまずない。
人類の歴史は、社会経済構造を変革し、徐々に被支配階級だった人々の力を高めるように進展してきている。商業が盛んになると商人が力をつけ、特殊技能が尊ばれるようになるとギルドが力をつけてくる。これらは人口的多数派とはなりえないが、大きな社会的影響力を持ち、中間階級層を形成するようになっていく。それでも圧倒的被支配階級は農民で占められている。土地に隷属していた農民は反支配勢力として成長するよりは、時々反乱はしても基本的には支配階級に帰依し、世界の経済的土台の形成を担ってきた。
機械文明の発達による産業革命は、資本家階級を産み出すと共に、農民層や都市下層から労働者階級を産み出した。労働者階級の中に比較的恵まれた中間層も作り、社会構造は複雑化した。旧勢力も新勢力に協調するものと単に中間層以下に没落するものに分かれた。依然として農民層が人口的に最大勢力であり、被支配階級の大勢だった。
この中で新興勢力である資本家階級とそれに追随し自らの幸福を追求する勢力が新しい支配層を形成していくのは自然である。労働者階級や農民として自らを位置付ける人々も存在する一方、自らを中間層と位置付ける層も形成されることになる。
人権意識の目覚め、民主主義制もしくは共和制の誕生などで、諸利害関係を克服して社会を運営していくシステムが徐々に発展していく。その際に、議会制においての一票の権利を持つ人々の範囲も拡大していく。有産階級男性のみだったところから始まり、成人男性一般、女性を含む一般へと拡大していく。この一票の権利の行使が曲者だ。
入れ札制があった時代も、有力者の言いなりで入れ札しており、自らの判断で権利を行使することに人々が慣れていたわけではないだろう。また、自らの判断で権利を行使する際に、判断に必要な情報を入手し、誰からも強制されることなく自分の見識を発展させることがすべての人にできたとも思えない。
特に中間層の中から「強いもの」「期待できるもの」に身を委ねる姿勢が生まれ、それが社会潮流となると被支配層からもさらに「同調者」がでてくるようになる。同調者集めを意識的に行う者の常とう手段が「真理をかくすために言葉を悪用」することだ。
歴史は個人個人がその可能性を拡大し、幸福を自分で掴めるような社会的経済的基盤を固めていくように発展する。しかし、その時代の流れに認識、理解がついていけないという層は必ず発生するものだろう。流れをしっかりと理解しようとすれば、それなりの「努力」が求められる。
しかし、どんなに「努力」して報われない人も生まれるだろう。「努力」が報われた人たちがどんどん社会の前面にでていくのを呆然と見つめ、疎外感を味わうことになるかもしれない。
このような「社会分裂」に付けこみ、みずからの「支配欲」を達成したいという人種が意識的に対応できると、一躍、時代の寵児として浮かびあがることになる。「阻害された」多数の人たちが厳然と存在するのだ。彼ら彼女らに手を差し伸べてみようと。そのような交わりの大きさが小さく留まることもあれば、社会全体の及ぶこともあろう。場合によっては、政権の場にいるものがそのような手段を採用することだってあり得る。
フロムの問題提起を敷衍すると、この発達社会の脆弱性はなかなか治癒できないことが分かる。70年後の今の日本にもほぼそのまま適用できるのではないか。
脆弱性の治癒法
手っ取り早い治癒法はないとフロムは指摘している。
「人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に社会過程に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望-孤独と無力感-にかりたてているものを克服することができる。」p.302
ただ、治癒に接近する心得は難しい言葉ではない。やさしい言葉で説明しているが、マニュア風には書いてないので、勝手にマニュアル化してみた。
・まず、自分の幸福を一番大事にすること。決して、自己犠牲に美学を見出さないこと。
・自分で考えること。決して、他人の考えに引きずられないこと。
・そして、他人の考えを尊重すること。他との違いがあることを冷静に分析すること。
・できるかぎり他との共同作業を経験すること。ひとつのことに埋没してはいけない。
・結果的には、他人の幸福を妨げないことに結び付くが、他人の幸福を自己目的化しないこと。
目次は
序文
第一章 自由-心理学的問題か?
第二章 個人の解放と自由の多義性
第三章 宗教改革時代の自由
第四章 近代人における自由の二面性
第五章 逃避のメカニズム
第六章 ナチズムの心理
第七章 自由とデモクラシー
となっている。
科学者、知識人の役割
フロムはこの本では、市民ひとりひとりに呼びかけているが、日高が言うような「科学者の責任感」のように特に「科学者」もしくは「知識人」を対象にして、どうのこうのという言い方はしていない。科学者も知識人もまず確かな市民であるので特に分けていうことはないのだろうが、知識人に向けて言ったらどう言っただろうかを勝手に考えてみた。
リベラル・アーツという学術がある。自由七科とも言い、具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何・天文学・音楽の4科を指す。
私はこれを以下のように理解している。
中世における上層階級の人間は、他人に世話になることなく、また他人に騙されないように、基礎的素養を自ら身につけなくてはならない。そうでないと一人前の貴族とはみなされない。迷妄から解放されるための基礎学術として、定められ推奨されたものがリベラル・アーツである。
それを学ぶ場が例えば大学として準備されていた。大学などで学べる者は、貴族階級と裕福市民に限られていたのが実態で、いわば支配層の生き残りのための学術である。しかし、それが日本では「一般教養」と訳されたように、現代の学生にとってもすべからく親しみ学ぶべき教養である。
長井:日本では修辞学が極めて弱いことが、将来の足かせとなるかもしれない
現代先端技術を駆使するためにはそれ相応の高い知性が必要になる。技術の恩恵を受けるだけだとそれほどの高い知識は不要かもしれないが、当然、その理論、機構などを正確に知ることは、正しく使うためは勿論、利用の限界をきちんと弁えるためには不可欠である。
自然科学的知識だけでなく、社会科学的知識を持ち、それらを自ら統合して、総合的に理解できる知性を持つことは現代人に期待される高みだと思う。現代人がすべからくそのような高い知性を持てるように積極的に支援する立場に立つか、第三者的な立場で傍観するかは、あらゆる科学者、知識人に試されていることではないか。
フロムが市民を対象にして言ったように、知識人にも同じように言うべきだろう。
1)まず、自分の分野に責任を持ち、同時に決して自分の分野のみに固執しないこと。
2)自分で考えること。決して、既成概念に引きずられないこと。
3)他人の考えを尊重すること。他との違いがあることを冷静に分析すること。
4)できるかぎり異分野との共同作業を経験すること。
5)これらを通じて結果的には社会の利益に結び付くが、社会的利益を学問として自己目的化しないこと。
例えば、「原子力絶対安全」「地震予知可能」などが5)の実例ではないかと思う。科学者としては、原子力安全性確保、地震機構解明であるべきであり、情緒的価値判断が混じったものは科学者のものではないだろう。社会をミスリードするだけとフロムが言いたいような気がする。
市民にも知識人にも共通した責任行動
ネット社会になると「情報過多」「意見交換のバーチャル化」など、フロムが懸念した社会システム欠陥がますます目立つようになる。その欠陥を補う責任行動は、おそらく単純だ。
○自分の意見を躊躇わず表明すること。しかも論理的に表現するべきで、情緒的であってはならない。
に尽きるだろう。しかし、これがすなわち「修辞学」そのものなので、日本人は勉強不足となる。
○そこで日本の有権者としては、必ず投票に行くことだろう。今の日本は民主制であり多数決で決まる制度だ。民主制は必ずしも共和制ではないので、民主制の制度的欠陥として多数決が働く場合を抑えられない。非効率そのものだが、多数決を繰り返すので良いのではないか。急いで幸せになる道というのはおそらく存在しないし、先進国を急に破綻させるのも容易ではない。全国民参加でじっくりと多数決を繰り返すので良いと思われる。
今回の安保法制を巡る議論で、改憲論者、再武装論者が反対したことそれ自体に感銘した。また、シールズの若いリーダー達が70年を超えてフロムの言葉を再現してくれた。「自分の言葉で意見を表明しよう」と。多分、この二つの事象のお蔭でフロムを紹介したいと思ったのではないかと思う。
多様な意見が存在するのが実際だろうから、その多様性を実感したいものだ。LGBTの市民権も拡大しつつあり、基本大家族制度とその類型の下で長年推移してきた家族制度も大きな転換期にあると思う。定量的な経済発展が国民の幸せなのか、定量的な経済指標に拘らず文化的な成長を幸福度に置く時代が確実にやってくるように感じる。大きな転換期にこそ多様性を最大限に生かすのが堅実な選択だと信じる。何が本当に良いのか見当がつかない。
科学と技術を考える⑲ いまさらながら『自由からの逃走』 終
サイト掲載日:2015年10月9日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明