科学と技術を考える⑰
『なぜ女は男のように自信を持てないのか』
を読む
Katty Kay and Clarie Shipman “The Confidence Code The Science and Art of Self-Assurance-What Women Should Know”の田坂苑子訳を読む。CCCメディアハウス、2015年6月12日初版、B5版、310頁、1800円+税
何故男だけではいけないのか?
材料工学分野での女性参画比率を上げるためには何を成すべきか?
なるべく小さい時から材料工学に触れる機会を増やすべきではないか?
→当然だが、これは特段この分野に限定されないし、対象も女性には限らない
女性にとって活躍しがいがある分野と設定できるか?
→性差に関係なく、やりがいがある分野でないとおかしい
材料工学分野には「女性の活躍の場がない」というネガティブイメージが沈殿しているのではないか?
(調査すべきテーマだろう)
↓
既に多くの女性がこの分野で活躍しているのが事実。多様なロールモデルとして示して、具体的イメージを抱いてもらうようにするのがよいだろう。
日本学術会議材料工学委員会ではこのような議論がなされており、そこにささやかながら参加している最中に、訳者の田坂さんからこの本をいただいた。
はて、自分自身の身の回りの女性を思い浮かべても、「女性は自信が欠けている。男性は自信に溢れている」とは特段感じたことがない。むしろ「この人の過信はどこからくるのか」と思ってしまう人は少なからずいる。この人は魅力的と感じる人は男女構わず多いが、その中で「素敵な自信家」なんて人はなかなかいない。どちらかというと「素晴らしい努力家」はすぐ身近でも思い浮かべることができる。
だが「自信を持てない」という悩みを抱えている人はつらいだろうと思う。私はというと「自信はない」が本音だが、それが悩みというほどではないので、気にしたことがない。もし「自信が持てない」女性が多いとするとそれを正しく認識して、材料工学委員会での議論にも日頃の社会活動においても慎重に対応しなくてはならない。
まずは、訳文への感想
訳本なのでまずは訳文への感想を述べてみたい。原著を読まず言うのは不遜だが、それはご容赦願おう。原著はアメリカ(USA)の女性ジャーナリストの共著である。
私はアメリカという人間集団に次のような印象を持っている。大雑把にいえば彼らは極めて健全なプラグマティズムに支配されている。プラグマティズムは実用主義とか実利主義とか訳されているようだが、私は「要するにいいものはいい」と考え、勢い「何をやるか」の答えが出ると即行動に移るような行動的実利主義と捉えている。研究開発などの国策の進め方も、成功例(失敗例)に学び、それを教訓化、理論化していく。失敗を恐れない。精一杯やったとまず称賛する。特にこの進め方について私は極めて肯定的に評価している。当然、アメリカの一人一人がこのようにすべからくポジティブに生きているとは思っていないし、プラグマティズムの弊害もあると思っている。
実利主義の対面にあるのは、ここでは理念主義としておこう。理念主義は「こうあらねばならないい」と説き、そこから行動指針を示す。戦略や方針たるものは確かに理念主義的な作文でないとまとまらないかもしれない。しかし、理念主義で「理念」だけが独り歩きするとこれはかなり犯罪的に陥る危険がある。まあ、個人、ひとりひとりは理念主義的に行動するよりも、実利主義的に行動した方が無難だと思う。まず「理念」がメシを運んでくることはない。
また、私の好きなアメリカ映画は、彼や彼女の感情表現を丁寧になぞる作品だ。映画はハッピーエンドな場合もそうでない場合もあるが、見終わった時、さらに自分探しを続けようとする登場人物に心の中で応援の拍手を送っている私がいる。
私がイメージするこのようなアメリカ雰囲気に溢れた原著ではないかと思わせる訳文となっている。Self-compassionがひとつのキーワードだが、これを「自己憐憫」などを訳すと本に溶け込めない。訳者は「自慈心」という訳を使っている。キリスト教では「慈愛」を他人に施すものとステレオタイプに感じてしまうが、自分自身を慈愛の対象にするというのは、自分を甘やかすというよりも深い洞察をイメージする。
「慈心」はどちらかというと仏教的言いまわしで、意味は字のとおり「いつくしみの心」のようであるが、特に人や動物だけを対象にしたものではない。このような「他」に対する慈しみは、おそらく宗教を問わず内面的には位置付けられていると信じる。
「自慈心」は「他」だけではなく「自」も対象にするという点で、極めて正当な考え方だと思う。例えばブッダにしても「自」を問い続けて、その結果として仏教の原点を見出した。いささか誤解されていると思う「われ思う故に我あり(デカルト)」だが、『方法序説』をそのつもりで読めば「自の分析」に固執している。「自己分析を通して自分を高め、そして社会に貢献する」という思いが貫いている。自分を大切にせずに、他を大切にするという考えは人類の賢人達が最も嫌っている。自分を大切にしなくてもよい人は、「最も偉い人=神」だけでよいと賢者達は言っているはずだ。
この「自慈心」という言葉のお蔭で、アメリカ人の二人の女性ジャーナリストのやり取りの生の肌合いが日本語でも伝わってくると私は好感した。この一点に訳文の出来映えに関する私の評価は集約されている。翻訳というのは違った個性同士の橋渡しである。日本語を話し合っている二人にも時々必要な作業である。しかも言葉を通しての作業となるので、どのような言葉を使うかが成否を分ける。
偉い人ほど自信がなかったし、今でも内心では自信を持てない
本の中で一番驚いたことは、この力量ある二人の女性ジャーナリストが、内面では「自信が持てない」という悩みを持っているということだ。まあ、冷静に考えてみれば、先にも述べたように「私は自信を持っている」という態度の人間はどちらかというと鼻持ちならない。おそらく誰でも大なり小なり「自信が持てない」のではないか?などと考えてしまう。
二人は「自信が持てない」仕組みを、遺伝子、家庭環境、教育環境などに求め、超著名人を含む様々な人材にインタビューし、心理学、脳科学、生物学などを勉強し、またそれらの専門家を訪ねて、解明しようとする。その過程をルポルタージュ風に書いていく。
答えがあってもなくても構わないテーマだと思いながら、二人の「真理探究の旅」に付き合ってしまう。貴重な勉強のネタを与えてくれるからだ。単純に「おいしい」勉強になる。「科学読み物」としても遜色のないコンテンツだ。
また、ネタに対する二人の率直な意見、考えも私自身の考えをまとめていくために大いに参考になる。と、どうもこれは私の好きなタイプのアメリカ映画の展開と似ている。本書の締めくくりも「完結」とはなっていない。ここまで勉強したことを自分のものにして、さらに自分探しの旅に出る。
二人+訳者は何を伝えたかったのだろうか?
「自信が持てないので何もできない」のは困ったものだ。でも「やることはやる。だが、これで良かったのか自信がない」のは放っておいて良い気がする。前者のタイプの人が、本書を参考にする意義は高いが、後者のタイプの人には別のレシピが必要な気がする。
共著者も、実は訳者も、内心はそう思って主に前者のタイプの人への応援歌を企図したのではないかと読み終わって思った。本書の中味はその意味から見るととても豊富で濃い。また、「自信に満ち溢れている」人も読むべきだろう。「自信弱者」の存在と実態を知ることは大事だ。
以上が書評的感想であるが、口では自信がないと言いながらやりたいことはやってしまう私の家族(妻と娘三人)にも読ませて反応を見たいと思った。私の家族は理念主義には見向きもせず、ひたすら実利主義である。唯一男性である私がその中では最も理念主義的で相手にされていない。
その昔の話をひとつ思い出した。娘の一人が大手の鉄鋼メーカの入社試験を受けた時、「あなたは男性と一緒に徹夜を重ねても仕事ができますか?」との面接質問を受けたそうだ。その質問に「ここには女性の働き場はない」というニュアンスを感じていっぺんに嫌になったと後日談として聞いた。その時の娘の視線に「あんたも同じ穴のムジナ?」的な強い不信を感じたのは自虐的過ぎたと反省している。
妻は若い時分、体調を崩す前は、看護婦(当時の呼称)として大学病院で三交替勤務をこなしていた。「男に食わせてもらうな」が娘への教育方針の母親だ。要するに「女の自立」のための唯一の保証がそれというのが妻の主張だ。その妻の口癖も「私には自信がない」なので、「自信弱者」は個人的には実は厄介な存在でもある。
性差が働く障害にならないように考えるのが前提だろうと思う。女性が社会で「雄々しく」活躍するのが当たり前の時代がなるべく早く来ることを期待する。性差が障害となっていることが原因で女性から自信を奪っているようでは困ったことだ。その意味で、日本では実利主義がもっと幅を利かせた方が良いのではないかと思う。
「男性的理念主義」ではグローバルには戦えない。もっと強い者に利用されるだけだ。まず、無駄遣いが発生する。理念のために金を使うことを厭わないからだ。一人一人が「美味しい食事、素敵な衣服、居心地の良い家」を我慢することに何ら積極的な意味を私は見いだせない。
「もしかすると女性が弱すぎるのでこの国の姿が定まらないのではないか」と酒場でオヤジの愚痴が聞こえたとするとその発信元は多分私だと思う。
科学と技術を考える⑰ 『なぜ女は男のように自信を持てないのか』を読む 終
サイト掲載日:2015年9月4日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明