科学と技術を考える⑯ 異分野融合の障害は? (その2) 相互理解

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科学と技術を考える⑯

  

異分野融合の障害は?(その2)

相互理解

 異分野融合での人材育成に挑戦するという意味で、さらに考察を続けたい。


 前回は、
  「研究者の自己成長に必要なものは何か」
  どのような場を作るとよいか、どのような資質が研究者に期待されるかをまず述べた。
 次に、
  「異質なものを隔てる高い敷居を低める」ということで制度上の問題点について考察した。
 まとめとしては、制度上の問題点がない訳ではないが、工夫すれば異分野が融合する場として、「一点集中型研究」を実現
 することはできると述べた。



その場に異分野研究者を放り込めば、自然と「融合」するのか?

 合金学の立場で言えば、元素Aと元素Bを坩堝(るつぼ)に入れれば、元素Aと元素Bの混合物が自動的に形成されるものかと問われれば、「条件が必要である」と答えざるを得ない。まず、適切な温度すなわち熱が必要である。では、熱を与えれば自然現象として混合物はできるか?この命題は「必ずしも真ならず」である。
 結論的に言えば、「相性」が良くないとダメである。この「相性」は物理化学的に自明であって、人為によって左右できない。ということで、「相性」が良いと分かっていなければ、坩堝に放り込んで、熱を与えても期待するものはできない。



他人同士は相性が良いか?

 これはホモサピエンスの資質に関する本源的で哲学的な質問である。
 神が創造した人類は、他人同士が融合し合うように設計されているのか?否、対立しあい融合しないように設計されているのか?歴史を見ても、現実社会を見ても、前者だと思い込むことはまず無理だ。元素Aと元素Bの組合せのように、予め融合できるものと融合できないものに区別して設計されているのかもしれない。
 しかし「朱に交われば赤くなる」という格言のごとく、ヒトは他人から影響を受けやすく、馴れてしまえば受容し合うようになるものだ。これは本質が融合できるかできないかというではなく、少なくとも表面的には他人扱いが上手という本質があるということなのかもしれない。


 「融合しなくてはならない」という目標設定は明確だ。だが、その実現戦略が見えない。どちらかと言えば、「自然と融合できるものがあれば良い」的な期待感が先行するだけで、「融合システム」の設計は薄弱だ。要するに「放り込め、さすれば何か起きるだろう」という単なる号令が声高にあちこちから聞こえる段階に留まっていると私は分析している。


Matchmakerは必要か?


 「異分野融合」の掛け声が聞こえてくるより前の時代に世間で声高に叫ばれたのは「シーズとニーズのマッチング」だった。その掛け声の意味を大胆にまとめてみると、


 「一方に、まだ利用されていないシーズがあるが、その保有者はその利用可能性に気づいていない。一方に、あれこれが欲しいというニーズがあるが、手持ちにそれにぴったりなシーズがない。両者を出会わせると良いマッチングが生まれる可能性が高まるのではないか。」


 ということではないかと思う。この考えはこの記述の限りでは全く正しい。だが、そうは問屋が卸さない。
 結論的に言えば、私の経験上、成功確率は極めて低い。私のやり方が下手だからだろうという批判は甘んじて受ける。今の心境では、「元素Aと元素Bの相性は会う前から決まっている」論に近い。かと言って、それは私の思い違いである可能性も高いので、会いたいという話はできる限り実現するようにしている。出逢いはそれ自体が大事だ。
 このような活動を通じて、経験したことの方が面白い。日本語を話すAと日本語を話すBが「シーズとニーズのマッチング」で初めて出逢った。お互いに標準語を話している。ところがお互いに通じない。同じ言葉でもお互いの定義が全く違ったり、微妙に違ったりしているのだ。お互いにそうだそうだと肯いているのに話が深まらない。不思議に思いながら冷静に話を分析してみたら、「翻訳」なしに対話を進展させることが不可能だと気づき、「翻訳」の介入を始めた。
 「翻訳」に慣れてくるとようやくお互いに通じ合う日本語を選んで話し合うようになる。まあ、二三回は「翻訳」役がいた方がよい。それでよくお互いのシーズやニーズを理解しあう段階に達する。そうすると、大概のケースは「よく理解していませんでした。よく理解できたら、話が違うことがよく分かりました」という結論になる。
 「シーズとニーズのマッチング」活動がなんと空しいことかとアピールしていると誤解されては困る。お互いに誤解だったことを理解し合うところから本当の話が始まるケースが生まれる。
 「それよりはこれ」「あれが足りない」ということになり、ではさようならとならず、「それではここを一緒にやりましょう」となると俄然、話が熱を帯びてくる。
 遠回りだが、これが本当の「シーズとニーズのマッチング」になる。一緒に、相性のよい元素Aと元素Bを探索するフェーズになるということだ。そのためには、所期の出逢いには、根気強いかつ翻訳の上手いMatchmakerがいた方がよい。



相互理解こそ大事

 改めて言うまでもないが、経験の上に立って言えることは「相互理解こそ大事」に尽きる。これは誰にとっても当たり前のことに過ぎないのでこの原則に反対する人はいないだろう。だが、「相互理解は簡単に得られる」と思い込んでいる人がまたほとんどのように思える。


 その一例とするには話が脱線するが、「このような世界常識の法案に反対する若者は勉強が足りない」と仰る立派な大学教授がいることを最近知り、あきれ返った。この世の中ほど多様な意見がある世の中は無い。各人が勉強すれば勉強するほど意見の多様性は広がるに違いない。多様性が前提とされる自由社会に住んでいることは、多様な意見が疎んじられるような社会に住んでいるより格段に嬉しい。勉強すれば共通点も相違点も広がると心得るべきだ。その前提を確かめて共同しないと力強い共同の成果が出てこないという実感からすると、この立派な先生に未来を感じることはできない。そのような先生が担いでいる法案にまで懸念が広がっていくとすれば、法案には失礼だ。


 どのようにすれば「教育効果」を上げることができるかは、学校教員の深刻な悩みらしいことを知ると、ある意味安心する。縁があって、日本工学教育協会の一会員として、工学教育(に大学学部)高度化を議論する会の末席をけがしている。ここでの議論は教育経験のない私には大いに参考となる。
 最近の会での議論のまとめの中に、効果的授業の共通点というものがあった。正確な紹介にはならないが私の印象として述べてみる。
①講義時間の半分以上、講義してはならない。
②PBL(Project Based Learning)を併用することが望ましい(すなわちチームごとに課題を持って、ある課題に取り組ませる)。
 実験、実習、演習などで残り半分を使う。
③学生を講義に分担させ(学生が分からないことは学生が知っている。先生の教え方が不十分なところは学生が知っている)、
 双方向で進める。質疑応答も学生主体で行う(学生代表が皮切りを務め、なるべく全員に質問させる)。
の三つと理解した。当然、先生は教材の充実とその準備に余念がないが、教材が良ければ教育効果が上がるという教訓がない点が面白かった。
 このようなやり方が成功すると、上位が伸びるだけでなく、中位の大きな前進があり、下位比率が下がるという具体的な効果があるそうである。上位の人材は勿論大事だが、上位だけが対象では大衆化した大学教育はなくてもよいかもしれない。将来に向けて大事なのは中位クラスを骨太にすることにあると思う。実際にその成果が大学学部の現場で見え始めていることに明るい兆しを感じる。
 また、この教訓は、私が国立研究所の現場で、産学官連携、異分野融合に取り組んできて得た教訓とほぼ同義であることに格段の喜びを感じる。
 すなわち、大学学部教育の教訓を一言で表現すれば、「学生との学び合いこそが、教育効果を上げ、同時に教育力も上げる」と理解した。これは相互理解を土台にして異分野融合を成功に導く極意に通じる。人材育成の現場は、指導者のものではなく、参加者のものだ。


異分野融合ゼミの楽しさ

 私も主宰者の一人となって、民間企業人を相手にゼミ活動をやっている。
 仕組みはシンプルである。
①NIMS研究者が60分講義(スライドのみで配布資料はなし)
②その後、60分の質疑応答で、出席者全員に質問を義務付ける
だけである。
 出席者は特別に意図した訳でないが、多様な企業からの参加となっており、意図せずの異分野融合ゼミとなっている。また、面白いのは材料テーマにもかかわらず、素材企業からの参加は極めて稀である。専門学会で聴ける話なので、不参加は当然かもしれない。
 講師には、社会的背景、基礎理論、世界の動向、自分の成果、将来への展望を60分でコンパクトにやってもらうように要請している。NIMS研究者は大きく戸惑いながらも各人立派にまとめてくるのには身内ながら流石だと思う。受講者は、質問義務があるからか、講義へ集中度は高い。最近は予習文献を事前配布する工夫もしているが、それにしても熱心な聴講態度が印象的である。
 質疑応答では、一回り目では司会(すなわち私)が指名する。ルールとしては、一人一回一質問としている。複数の質問は許さない。うまく回ると制限時間内で20-30個の違った質問がでる。概して言えば、最初の10問は、初歩的、素朴な疑問や個別確認なものが多い。次の10問は少しつ込んだものになる。20問を越えると完全に提案型になる。すなわち、「あれに使えないか」「この社に話を持ち込んだか」などなどとなる。
 ゼミの印象を講師、受講者に聴いているが、大体以下のように共通している。
 まず、講師は「こんなにたくさんのしかも多様な質問を一回の講演で受けたのは初めてで、貴重な勉強になった。これからの自分の研究に大いに反映させていただきたい。また、企業との連携についても一定の具体的なイメージを得ることができた。やってよかった。皆さんありがとう」となる。
 受講者は「NIMSの研究者から真剣に直にこれだけまとまって話を聴けたことがまず嬉しい。十分理解できたわけではないが、とっかかりができたので今後たじろぐことはない。何といっても面白かったのは他社の方の質問。そういう考えもあるのかと思ったが、これは個人的にも仕事的にも参考になった。また、講師や他社の方と面識ができたのは得難い収穫。」となる。
 実は司会をした私としてもお得である。「こういう質問にはこう答えるのか。なるほど。こういう質問もあるのか。なるほど。」と講師の研究内容を勉強させていただき、それに対する企業の関心も知ることができる。「三方一両得」を地で行くような話となる。
 受講者は20名程度が最も効果的である。なんだ、砂漠に水を撒くような虚しい活動ではないかと思われるかもしれない。それに対しては、全国津々浦々とは大げさだが、このような活動が草の根的に広がればよいのではないかと思っている。
 高名な先生に素晴らしいお話を大聴衆相手に展開していただくのが悪いとは思わない。それをメディアで大々的に広げることも素晴らしい。しかし、face-to-faceは得難い、相互理解をお互いの顔を見合って確かめるのも得難い機会だ、そこで友達ができることも得難い。大網を掛けて大漁旗を掲げるような手法と小網を広げて確実にその日の分の仲間の食料を得る手法を合わせて進めるのが、文化の高い香りが漂う先進国らしいと私は思う。


 このように人材育成には定まったマニュアルがなくてよいと思う。様々な工夫がされて、その経験を交流し合い、そこから得られる教訓を共有できればよい。寺子屋や塾が都会だけでなく田舎のいたるところで活躍していた時代が過去にあったという。それは未来にもあってしかるべきではないか。子供相手、若者相手に限定することはない。誰でも参加できるようにして欲しい。それが新しい時代を拓く異分野融合と信じたい。
 場が適切に参加者自身によって運営されれば、少なくとも日本人は異分野融合できるものと結論付けたい。




科学と技術を考える⑯ 異分野融合の障害は? (その2) 相互理解 終
サイト掲載日:2015年8月28日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明