科学と技術を考える⑭ 「企業は本音を話さない」という話について

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科学と技術を考える⑭

  

「企業は本音を話さない」という話について

産業と学術の連携への期待が高まる

 最近、特にエンジニアリングの分野では、産業と学術の連携が極めて大事という認識が、産学いずれの側でも高まりかつ広まってきていると強く感じる。
 「産学連携」と冷静な雰囲気で議論できる状況になったかどうかは分からないが、長井が大学生の頃は、「産学共同=悪」という認識が極めて強かった。これは「大学の自治」を尊ぶ立場から、「産業の言いなりになることは学問の自由を侵しかねない」という考え方、「学問には元来階級性があり、産業と共同することは一部の利益に偏することになる」という考え方、「公害の元凶は企業であり、産業は国民の敵」という考え方・・・様々な意見があったように思う。大学の先生の中でも、工学部は産業との癒着が強い学部のひとつとみなされ、漠然と純粋な学術を尊ばない特異な集団という固定概念があったように思う。
 近年に至るまでも、企業から研究資金などを得ている教授と公的競争資金を得て企業とは独立に研究室経営している教授では、学生達の見方に「優劣の差」があったと聞いている。「上品な先生か下品な先生か」のような違いだったようだ。どっちが「上品」かは、ご判断に任せる。


問題は現場で解決するしかない

 日本において公害が厳しい現実だった時代に、卒業生達には、「公害は企業の現場で解決する」という密かな意気込みを持って就職していった者が結構多い。好むと好まざるにかかわらず社会人となるので、それは特別な意気込みではなく、どのように働くか、どのような職場にするかという、誰にでもあるごく当たり前の発想とも言える。とても強い気負いを持って就職していったのではないのかもしれない。そうすると「産学共同=悪」とはあくまでも大学の中であり、かつ意見としては一部に限られたものであり、そういう意見を持つ者たちによって喧しく叫ばれていたのでそういう雰囲気が醸し出されていただけとも言える。「公害」という現実があったので、「元来、技術は公害を出してしまう」のような短絡的イメージがあったのかもしれない。


 1970年に大学進学のためにお上りをした時に、都会(東京とその周辺)の空気の悪さに驚いた。その後、いつの間にか・・・と言うと同年輩たちに悪いが、東京の空気も緑環境も良くなり、大いに改善した。10年前に東京に戻ってきた。その際に、購入したマンションからは、晴れた日なら毎日のように富士山を拝むことができる。都区内の街歩きも健康増進に役立つと確信できる。これは往時を知る者とすれば信じがたい変化だ。当然歓迎すべき変化だ。こういう経験があるので、中国の大気汚染も必ず解決できるはずという思いが強く、同時に、あの空気を吸うことを考えると中国出張を大いに躊躇う。


 今まで一度も生産現場で働いたことのない私のような人間にも、問題解決は周囲の掛け声だけでは解決せず、発生現場が片づけるしか道はないことは明らかだ。もろもろの困難が伴うとしても、「公害を出してしまう技術」から「公害を出さない技術」に転換することに尽きる。
 技術が悪なのか、企業が悪なのか、経営者が悪なのか・・・という単純な議論はほとんど価値がない。ましてや「公害企業に働く労働者は悪に加担している」式の難癖は、問題解決の障害とはなっても、問題解決の促進剤となることは考えにくい。当然、企業や企業で働く技術者が果たすべき社会的役割があり、その規範もあるので、それに照らして改めるべきは改めるべきなのは当然である。この点で、国民的合意を経て定められる社会的規制が有益かつ有効となろう。


国家財政が厳しいので民間資金に頼る?

 さて、日本政府の財政状況もいよいよ厳しくなり、「潤沢にあった」政府研究資金も「緊縮」せざるを得なくなり、いよいよ「研究費は産業界から稼いで下さい」と強く期待されるようになり、このように状況が厳しくなって初めて、ようやく大学教員の「本音」が表面化しつつあるのではないかと長井は思う。
 それらの声の中で印象に残るのが「企業は本音を話さない」である。その一方で、「企業と共同研究する際には、企業側からの期待は想像以上に基礎よりであり、困ることはない」という声も上がる。「企業は本音を話さない」は、「共同研究の議論をしても何をやれば良いのか絞りきれない」という文脈に繋がっているように思う。片方は絞れないと言い、片方は絞れると言う。この両者の違いはどこからくるのか?


 「科学技術創造立国」が言われて久しい。地下資源・エネルギー資源に乏しい日本では、いわば人材資源しか自己資源はないので、「何を飯のタネにするかは明白」という論調である。では、ここで言う「科学技術」の実質、実体はなんだろうか?多くの一般国民は、「素晴らしい製品、もしくはそれを提供する素晴らしい技術」と受け止めていると思われる。しかし、電子機器産業などの低落が甚だしいことを聞かされ、フクシマ原発などの事故事例を目の当たりにすると、「科学技術創造立国」は実は虚構であり、喧しく叫ばれていたのでそういう雰囲気が醸し出されていただけなのかもしれないと感じ始めている国民も多くなっているのではないか。実体のない言葉に踊らされて空虚さが拡大すると、その拡大の中で本質が覆い隠され、真剣に考えるべきことを考えない事態になりかねない。


産業と学術の健全な関係は国益に直結

 企業と大学の社会的役割はおのずから違うことをまず出発点としなくてはならない、と私は考える。かといって、大学で製品開発をしてはいけないとは言えないし、企業で基礎研究をしてはいけないとも言えない。それは自由であり、かつ自己責任である。
 しかし、社会全体で言えば、大学(教育が第一任務であることを前提に)における研究は基礎、基盤を開拓、強化することに責任があり、企業は市場で提供される製品・サービスの信頼性ある供給に責任がある。
 このように社会的責任の分担が明快でも、人口の少ない国では一部の人々においては、軸足をどこに置くかははっきりしているが、オールラウンド・プレイヤーとしての活躍が期待されているのが通例である。活躍の場は、官・民・学と日替わり、猫の目らしい。そのような国では、「産業と学術の連携」という概念自体が存在しない。なぜならそれ以外の選択肢はないので、わざわざ「連携」を言及する必要がないのである。
 日本のような大きさの人口の国では国内市場がそれなりの規模を有しているので、役割分担を明確化した方がやりやすいのかもしれない。そのような場合には、「産学共同=悪」論は、まかり間違えると「亡国論」として機能することになる。いわば役割分担している車の両輪が相互の連携と間合いを取って、できるかぎり正常に機能し合うべきなのに、それを妨げることになるからだ。


秘密情報は大事

 さて、そのような正常状態になったとしたら、「企業は本音を話す」ものか?
1) 「本音」の意味を「知的財産に係る秘密情報」としたら、適切な契約関係に無い限りは「話さない」のが正常だ。取り扱う商品
  の新開発に係る情報だとしたら、秘密保護契約なしに話すことは考えにくい。また、秘密情報を開示された側は、それを
  他に漏らしては絶対にいけない。このような取扱い自体が馴染まないという人もいるだろう。もしそうであれば、企業と
  はそのような付き合いをしないのが得策だと割り切って欲しいものだ。
2) 次に、企業が抱えている技術的問題を解決する相談に乗り、共同研究をしようということになるケースを考えてみよう。
  このような技術的問題を議論する場合にも、開示できない情報も残ると考えるべきだ。その場合に、「本音を話してくれな
  い」という受け止め方をするとすれば、1)と同じことが言える。話せない事実があるかもしれないということと、原因につ
  いては全く見当がついていないということは、話は別だ。原因が分からない、絞りこめないから相談していると受け止め
  るのが適切な対応だろう。分かっているのにそのことを話さないとしたら、それは最初から詐欺だ。相談の真の目的は、
  共同研究以外にあると思わざるをえない。
3) 営業上の秘密情報というものもあり得る。その場合の開示は、純粋に技術的な秘密情報の開示より難しくなると考えるの
  が自然だ。
 このように考えると「企業は本音を話すはずがない」と心得た方がよい。しかし、「企業と共同研究する際には、企業側からの期待は想像以上に基礎よりであり、困ることはない」という声も上がる。これはどういうことか。
 極めて自然なことと思う。これで良い。できることなら、市場すなわち社会の現場、もしくは製造の現場で、どのような問題があり、それの解決に貢献できる基礎課題であることをしっかりと分析できて、そのことを自覚できていることが望ましい。このように学の側に接する企業側は、誠意を持って配慮しているが、それは「自分達でやるより専門の先生に一緒に考えて欲しい」という「本音」が現れており、本来あるべき産業と学術の役割分担の一形態と見ることができるからだ。
 いやしくも学術側のエンジニアリング(工学)の分野では、このような社会的関係を日常的に機能させているべきであり、それは学術の側だけでは実行不能で、産業の側も同様の配慮、工夫、努力が不可欠である。そのような場合には、連携がいわゆるWin-Winの関係を結ぶことができると信じる。


さいごにもう一度 健全な関係をこそ

 「研究費は産業界から稼いで下さい」と言う前に、「研究テーマを産業界と一緒に考えて下さい」というべきだろう。全く自分の興味で取り組む萌芽的な研究に必要な研究費を産業界から取得することを強く進めるという現象になると、これも国力を減退させる結末にしかならないだろう。企業の現場、社会の現場が抱える技術的な問題の解決に貢献できる基礎的基盤技術的課題を抽出して、そこに自分の知力を動員するのを工学の側の主任務とすることには個人的には全く違和感がない。




科学と技術を考える⑭ 「企業は本音を話さない」という話について 終
サイト掲載日:2015年7月6日
執筆者:長井 寿
サイト管理人:守谷 英明