科学と技術を考える⑬ 倫理問題について(その4)  

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科学と技術を考える⑬

  

倫理問題について(その4)

ようやく、斉藤さんの論考「自動車安全を巡る
7つの哲学的問題事例」の勉強に戻る


 関西大学教授の齊藤了文さんから、いただいた論文を考えているうちに、「工学倫理」について自分なりに原点に立ち返って考えてみようということで、科学と技術を考える⑩~⑫(倫理問題について(その1~3))をまとめてきました。今回で、いったん、このテーマを締めます。



今までのまとめ

①原型は「自分で作って、自分のために、自分が使う」
 出発点では、責任は自分の中で閉じていたが、他との分担が常態化し、歴史の変化とともに分担関係がより複雑になっていく。したがって、

②Engineering Ethicsは狭い意味でのEngineeringの世界に閉じることはない
 関係することすべてについて考慮することが前提となってしまう。
 それでは、きりがないと思ってしまうかもしれないが、

③結局は、
 1)「自分で考える」こと
   自分で考えることなしに、mindを鍛え、洗練することはできない。自分で考える際に、おそらくまず考える対象は「自」
  であるべきだろう。
 次に大事なことは、
 2)「他」を認め、理解すること
   すなわち、これらは、自分のphilosophy(知を愛する)を耕すことに帰着する。

  また、異分野との交流、グローバルな交流などを通じて、新しい価値に築くことが強く期待されているが、そのためにも
 自分のphilosophy(知を愛する)を耕すことが極めて効果的だろう。質の高いphilosophyは、「他」とのcommunicationのため
 の最も強力なtoolとなるはずだ。
  しかし、「他」を認めず、「自」を「他」に認めさせたがる風潮も現れるものだ。そのような風潮は残念ながら、「自」の水準が
 時代が求める高さに届かないということから目を逸らしたり、覆い隠したりしているに過ぎない。(この部分はここで追加)

④また、Informationの意味をさらに深く考察すべきではないかと思う。
 ③が十分に発達するためには、Informationが単にInformationとして死蔵されていたり、大帝国のように振る舞っていたりするようでは、Mindが委縮してしまうだろう。Informationとの付き合い方、利用の仕方にしかるべき成長が求められるのではないかと思う。

 以上のように結びました。実は、これが、斉藤さんの論考「自動車安全を巡る7つの哲学的問題事例」を読み込むために必要だったことです。ということは既に言うべきことは言ったことになります。
 ここで閉じたら、まだ触れていないで大事だと思ったことを伝えることができません。以下、論考の別刷ページ(45から101まで)を示しながら、斉藤さんの主張とそれに対する長井の感想なりを簡単にまとめます。



(101) 「自動車は手掛かりであり、社会について基本を考えるいい題材である」
  →確かにそう確信しました。よい勉強をさせていただき、いつもありがとうございます。

(46) 「自動車は実用化されてから100年は経過している。しかも、現在年間数千人が自動車事故によって亡くなっている。
   21世紀に入った現在では、毎年100万人以上の人が交通事故で亡くなり、何千万もの人が負傷していると推定されて
   いる。それでも使われている」
  →私自身は自動車にあまり深い関心がないのですが、仕事上で自動車関係者と一緒になることがそれなりにあります。
   彼らは、この事実をよく認識しており、解決すべき課題と自覚しています。彼らが喜んで使ってもらう自動車とは
   何かを常に考えているのも事実と受け止めましょう。であるからして、このような犠牲の原因がどこにあるかを
   関係者が一緒に、深く考察することは大事だと思います。

(48) 「道具はユーザーが意図を持って使用する。意図したのにそれとは全く違う仕方で動いたり、機能したりすると、
   それは道具のユーザーとしては困る」
  →もしそうであれば、道具が悪いでしょう。道具を使ったものに基本的に責任を求めるべきです。

(48) 「ユーザーの思う通りに動く人工物、機械、道具であれば、社会に対する問題は、そのような道具を使う人の問題
   となる。」
  →もしそうであれば、ユーザーが悪いでしょう。

(48欄外) 「科学はいつブラックボックスになったのか。因習による決定ではないはずである。明示化が科学の特徴であった
     のに、内容がフォローできないという実質的な複雑性のために、専門家しか扱えないブラックボックスとなって
     しまっている」
  →この部分には直ちに同意はしかねます。まず、斉藤さんは「科学」と記述されていますが、長井はここは「科学」なり「技
   術」のみの問題とは思えません。役割分担が複雑化した社会という側面の方が強いのではないかと思います。作った側
   が伝えるべき情報が多すぎて、使う側に伝わらないという意味です。内容がフォローできないというのは専門家にも
   当てはまる状況ではないでしょうか。すなわち、他の専門家が手を加えたところの全容を果たして別の専門家が完全に
   理解できるかどうか確信が持てません。ここは、確かに「ブラックボックス」化させるのではなく、万人に理解できるよ
   うにする(万人がよく勉強することも求められます)手立てを見つける必要があると思います。偉大な専門家の能力も
   一人だけでは小さな一部に過ぎないというのが現在の社会システムの実状ではないでしょうか。

(50) 「機械の操作を間違わないように、使い方の説明をする。これが分かっている人にだけ、免許を与える。操作を許す。
   機械を操作するための知識を持つことが重要である。うまく機械を操れる能力を確認する。」
   「免許を持つ人が増えることによって別のタイプの問題が生じる」
  →おっしゃるように自動車の運転免許と医師免許を同列に扱うのは違和感あります!ただ、同列にみなし、非常に高い
   倫理を自動車運転免許保持者に求める社会システムもありかもしれません。そうなると自動車利用者は激減するでしょ
   うね。ここに自動車という道具の持つ別の社会性が現れているとも言えます。「万人の保有を前提とした免許制」と
   「比較的少数に限定された免許制」を同列に扱うことは無理かと思いました。

(51) 「近代的な自律する人間では捉えられない、誤りうる人間像が必要になる」
  →これは勉強になりました。ホッブスが現れるまでは、哲学などが対象とする人間像は「理性的・意思的で強く賢い人間」
   だったんですね。性善説、性悪説などというのはどうでもよい話だと思っていましたが、想定される人間像が「高貴」
   だったとは意外でした。たしかに、デカルトなども機械論に立脚していましたから「正確に機能するのが人間の理想像」
   でした。「強く賢い人間から弱く愚かな人間へ」と歴史的に変遷してきたとの話は興味深いものです。今の時代、これか
   らの時代でも「誤りうる人間像」を前提するのは当然と思います。

(53) 「所有物は私にあらゆる処分が任されているはずである。プライバシーもそこに淵源する。しかし、私のものは
   (他人ではなく)私にはよく分かっているという論点に反する性質を人工物はもっている」
  →そのとおりと思います。私が人工物から疎外されているのか、人工物が私から疎外されているのか知りませんが、
   個(人)と不特定数が関与する人工物の間に一対一関係はまずないでしょう。そういう時代をどう生きるかというのが
   設定されるべき問題と思います。

(55) 「(ガリレオやニュートンに由来する考え方では)科学的知識、いわば理系の知識でこの世界をすべてコントロールできる
   という帰結を含む」
  →いわば、この「科学的世界観」なるものは「境界条件が異なれば、異なる物理原理が働く」という科学的認識の深化と
   共に、自然科学の世界では過去のものとなっているのではないかと思います。「文系」から見ると「理系」発想はまだまだ
   そんなものだということかもしれません。そのご批判はある程度甘んじて受け入れますが、必ずしも理系人間はそのよ
   うに考えていないと思います。

(56) 「安全は物理的決定論とも、量子論の不確定性ともあまり関わらない」
   「科学的の知識の蓄積があるにしても、それを科学的決定論の世界と呼ぶことは躊躇してしまう」
  →「理系」の私も同感します。「安全」を確率論で論じること自体に私は強い違和感を持ちます。確率論で論じる場合には、
   事故原因が確定しており、全く同じ道具の全く同じ使用条件の場合で、発生確率を論じる意味はありますが、事故原因
   が多様で、違う道具で、違う使用条件で、例えば「列車の事故確率は、自動車のそれよりも低い」などという議論は
   「非科学的論証」に過ぎません。三分の一のリンゴと四分の一のみかんを真面目顔で比較するのは科学的議論ではありま
   せん。確率で論じるから科学議論と思われては実は心外です。件の確率論はつとめて文学的な表現と私は捉えていま
   す。どうも意識的に文学的表現を科学的議論らしく振りまいている理系人間はいるかもしれませんが。
   「安全」の議論は「原因の究明」にこそ真髄があるべきで、それに基づき確かな再発防止策を導き出すのが科学的な立場と
   信じます。「ハインリッヒの法則」も原因追及、再発防止にこそ使うべきです(現場ではそう使っていますのでご安心
   を)。

(57) 「ミスを犯した人を責めるのはインシデントが隠されることにもなり、将来の大事故の種を隠ぺいすることになるという
   のがここでの考えになる」
  →多少、捉え方に微差がありますが、最後の結論は同じです。その通りだと思います!

 大体ここまでで、議論すべき基本は尽きていると思います。
 結論だけ拾うといささか不気味な表現になりますが、
①ヒトはミスを犯す動物である。
②現代では道具は、その機能がどのような仕組で発現するのか使用する側からは理解しかねるように、供給されている。
③事故発生を抑えたり、事故被害を最小化したりするために、様々な社会システムが設計されている(この項目の説明は省き
 ました)
④事故を無くすには、事故原因を究明し公知すること、合理的な再発防止策を講じること。その際に、道具の立場からの考慮
 も不可欠である。
⑤④を十分しないで、「ミスを犯したヒト」を責めるだけでは、極めてマズイ

 その他、もっと考察したいすべきことがあります。その中からいくつかの点を列記してこの勉強を終えます。

(72) 「パターナリスティックに作られる」
  →「ミスを犯すヒト」を父権が指導するように作られる。父親特殊な温情もある。これからの設計思想を根底から問い直す
   キッカケ的視点となるだろう。

(82) メンテナンス 「人工物は特に監視や管理をしなければうまく機能しない」
  →「売り逃げ」では「人工物文明は破綻する」のは間違いない。これも設計思想の根幹をなすべき要素である。

(86) 自動運転自動車 「考えるべきことは、人間が機械をコントロールすることはどういうことか、という問題である」
  →人工知能(AI)なども多くの関心を集めている。機械はあくまでも人間が人間のために使うという意味で道具である。
   その基本が揺らぐということがあるとするとそれは哲学のどこが揺らいでいるのかが、関心事になる。

 これらの点は、今後の「宿題」とさせていただきます。

 斉藤先生には随分とお世話になります。引き続きいろいろと教えて下さい。




科学と技術を考える⑬ 倫理問題について(その4)
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サイト掲載日:2015年6月16日
執筆者:長井 寿
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